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2010/02/25

Singapore Burning - エピローグ

  1945年9月5日、3年半不在であったロイヤル・ネイビーはシンガポールに帰還した。英国極東総司令官、海軍大将ルイス・マウントバッテン卿は、シンガポールで、日本の東南アジア司令部の正式な降伏を受け入れた。数ヶ月にわたる連合軍の封鎖のため、やせ衰えた日本の将軍たちは、丸腰でみすぼらしく並ばせられた。
 キー将軍が本気に思っていたのか不明だが、かれの予言は当たった。そのときのお相手、今井将軍はシベリア送りの途上にあったが、そこから戻ることはなかった。山下将軍の第5師団の根拠地、広島は、8月6日に原子爆弾を落とされた。3日後、第18師団のほとんどの兵員の出身地、造船都市長崎に二発目が投下された。天皇の降伏決意を日本陸軍のすべてが受け入れるのには6日間を要したが、8月15日、終戦を告げる歴史上初めての現人神の放送は、日本国民の耳には信じがたいものに聞えた。
 パーシバルの軍隊の捕虜生活は苛酷で、戦場におけるよりも多くの犠牲が出た。はじめは穏やかに始まった。豪州と英国兵の捕虜は、東海岸のチャンギ兵営に集められた。収容能力5千名の建物に、一時5万名近くが詰め込まれた。収容所は市の中心部から16マイルほど離れていた。入所にあたって、捕虜たちの途切れない行進が続いた。インド人、マレー人はかれらを罵り、中国人は無表情に見つめていた。そのなかにラッフルズ・カレッジの18歳の学生、リー・クワン・ユーがいた。
 チャンギの警備は日本兵ではなく、リー=エンフィールド銃で武装したシーク兵があたった。退屈を紛らわすのは教育である、ということから、英語、数学、地理の学級が設けられた。もう少し上級のものは、ほとんどのヨーロッパ語学、それにマレー語を学ぶことができた。学業半ばで参戦した学生のためには、工学、法律、医学の講座もあった。無傷のスポーツ用具がみつかり、早速クリケットの英豪「国際試合」三連戦が行われた。日本人はクリケットよりも野球がお好みで、クアラルンプールのブドゥ刑務所では、捕虜たちとの対抗戦が行われた。親善行事の反面、掴まった脱走者は処刑されたり、残酷な刑罰を受けた。食糧が不足し、エネルギー・レベルが下がってくるとスポーツは徐々に姿を消し、捕虜相互の友情維持のための教練もなくなった。英豪兵たちの缶詰食品はすぐに枯渇した。チャンギのまわりは巨大な家庭菜園と化した。鶏舎が設けられ、たくさんの卵が病院へ運ばれた。
 チャンギでの民間人の抑留者は約2500名、うち婦女子は400ほどだった。流産をしたヒース将軍の妻は、病院で、赤痢から回復したレディ・トマスに会った。総督は、踏みとどまることを義務と心得ていた。かれは正しかった。60年後、シンガポールの繁栄している金融センターの中央にはシェントン通りがある。
 1942年8月、大佐以上のすべての上級将官は、シンガポールから出航させられた。ヒース、パーシバル、シェントン・トマスもいっしょだった。錆だらけのバケツのような貨物船の船倉にすし詰めにされ、台湾に送られ、全員そこで2年暮らした。かれらの旅はそこで終わらず、日本、朝鮮を経て、1944年10月、気温は零下、豪雪の満洲に到着した。1945年8月18日、かれらはその10日前に対日宣戦したロシア人によって解放されたのである。
  山下大将は日本の新聞で時の人となり、「マレーの虎」と名づけられた。東条首相は、かれに、帝国臣民にこれ以上その名声を拡大させない脇役のポストを与えた。山下は東京に立ち寄ることなく、直接満洲に赴き、1939年、ジューコフに散々痛みつけられた軍隊の指揮を執るよう任ぜられた。ドイツとイタリアは枢軸のパートナー日本に、対ソ宣戦を切望していた。山下の人事はソ連を狼狽させたが、東条はスターリンと戦端を開く考えはなかった。1944年9月、東条の退陣後、マレーの虎はフィリピンに転任させられた。米軍の反攻に、かれはルソン島北部の高地に追い詰められ、1945年9月2日白旗を掲げた。5ヶ月後、GIの作業服を着せられたマレーの虎は、マニラ郊外の小さな刑務所の13階段を上った。フィリピンの最上級士官として、マニラでの水兵の略奪の責任を問われたのである。かれの抗告はワシントンの最高裁に達した。最高裁の判事の一人は、この裁判は政治的なリンチである、とたとえた。最終的な減刑の嘆願は、トルーマン大統領によって門前払いとなった。シンガポールの華僑の一部は、スク・チン(粛清)として知られる、日本の統治時代のポグロムの犠牲者を5万人と主張している。山下は裁判で、この虐殺のことは知らなかった、と述べたが、当初の無政府状態の混乱の芽を摘み取ることに山下は大いに関心を持っていたはずである。かれはこういった仕事を、狂信的とはいわぬまでも、仕事熱心な辻政信大佐にまかせていた。
  1945年9月、辻は消えていた。サフラン色の僧衣をまとって行方をくらませた。4年後、姿を現わせた辻は有名人になった。かれは一連の回顧録を出版して大成功をおさめた。辻の政治基盤は日本の再軍備にあり、武装中立を指向すべきである、というものだった。1957年、かれは中国を電撃訪問し、日本中に波紋を拡げた。かれは周恩来に迎えられた。周は、かれの軍歴をあまり問題にしなかった。他方、日本の新世代は、かれを知性より蛮勇を好む時代遅れの人間、と見始め、その人気は下降して行った。1961年、かれは単独の平和使節としてラオスへ向かった。そこでも人々は内戦に明け暮れていた。かれは共産主義パテト・ラオと面会した。そこからハノイ行きのロシアの定期航空便に乗り込んだところが、かれの最後の姿だった。1968年、日本の裁判所は、かれの法的な死亡を宣告した。
  マレー半島をシンガポールまで南下した第9旅団の旅団長、河村参郎中将は、シンガポール駐屯軍司令官となり、中国人殺戮の責任で絞首刑となった。近衛師団長、西村中将は、紙一重で死刑を免れたが、4年後、パリット・スロンでアンダーソンの傷病兵を殺害した科で、オーストラリアに訴追され、1951年6月、ニューギニア北部のアドミラルティ諸島にある豪州軍の基地で処刑された。INAに参加したプレム・サーガルは、ビルマで逮捕された。ラクシュミ・スワミナジャン博士と婚約していた。英国の情報将校は、もとINA隊員を三分類ー単に軍隊を忌避しただけのものを白、上級士官の命令が曖昧で困惑していた様子のものをグレイ、確信犯的な反英主義者を黒とした。サーガルは黒だった。かれは無期徒刑を宣告された。
  イギリスの新しい労働党内閣はインド撤退を決意した。インドは王冠の宝石だった。宝石なくして王冠が輝くことはない。戦後数年経って、シンガポールの陥落が英帝国の終わりの始まりになった、という言い方が流行した。これはもう一つの神話ーシンガポールの敗北は、海岸砲台が「間違った」方角を向いていたからだ、ということと同じように真実ではない。インドは、シンガポール陥落のずっと以前から離れ出していたのである。
  旦那方(トアン)と奥方たち(メム)が帰ってきた。ラッフルズの銅像がヴィクトリア劇場の正面の台座に戻された。東南アジアを支配したフランスとオランダは流血の事態の揚句出て行ったが、イギリスはしばらく居座っていた。マレー半島では、スペンサー・チャップマンが武器を与え、訓練した中国人共産ゲリラが英国に銃口を向け始めた。しかしマレー人と大半の中国人はこれに与(くみ)せず、ジャングルでの12年の戦いで英国は最終的に勝った。1957年、マレーは完全独立、1959年以来、シンガポールは自治権を獲得(1965年、分離独立)、1963年、北ボルネオの旧英領サバ、サラワクとともにマレーシアが構成された。インドネシアのスカルノ大統領はこの併合に頑強に抵抗した。コンフロンテーション(対決)の時代を経て、1966年、スカルノの退場でこの厄介な対決は終止符を打った。
  生まれ故郷のハートフォードシャーに隠居したパーシバルに、故国の仕打ちは温かいものではなかった。32年間の軍役のあと、1946年にかれは退役した。中将という名誉職で遇されたものの、通常この地位に与えられるナイトの爵位は貰えなかった。恩給も少将以下のものでしかなかった。5年間、かれはむかし属したチェシア連隊の名誉連隊長を務め、ハートフォードシャーの副師団長および地元赤十字の理事長となった。1957年に刊行された公式史書に「シンガポールの恥辱」と見出しが載った。しかし島を失ったことでかれだけが責められる筋合いはない。ブルック=ポッパム空軍中将と、フィリップス提督がマレー沿岸に日本の艦船群の存在を知ったとき、これを沈める、という判断をきっぱりくだせば、シンガポールは唯一助かる道があったのである。パーシバルは、あまりにも早く島を明け渡した、ひょろ長い体で格好悪い半ズボン姿で、ブーツを穿いたちっぽけな軍人たちに降伏して栄光を傷つけた、として罰せられたのである。
 かれは毅然としてこれに耐えた。1949年に出版されたかれの戦闘の手記、マレー戦記は非常に抑制的に書かれている。兵たちのある団体がかれを讃えた。極東捕虜協会の英国帰還兵たちである。パーシバルは、終身会長に選出され、1966年に他界するまで会合に出席し続けた。シャーウッド・フォレスター連隊はシンガポール戦で約50の死者を出し、抑留中に292名が死んだ。「あと講釈ではあるが、機会を捉えて打って出た方が良かったのだ」、大隊の歴史をまとめたクリフォード・ハリスは書いた。
 機会を捉えて打って出た一人に、トマス・ウィルキンソン中尉がいる。かれは、河川用のボート、リー・ウォ号で日本の輸送船に突っ込んだあと戦死した。沈没したリー・ウォの数少ない生存者が、抑留生活から戻ってこの話を伝えた。ウィルキンソンには死後であったが、ヴィクトリア十字章が贈られた。もう一人、リー・ウォ号の乗船者が声高にその認知を求めたのは、RAFの一射撃手である。かれは自らのルイス式軽機関銃にしがみつき、日本の輸送船の機関銃隊を根こそぎにした。問題は、だれもかれの名前を知らず、船が沈んだあと、だれもかれを再び見なかったことである。熱心に調査をすればどの部隊の所属だったかわかるかも知れない。しかしわれわれには、かれを、望みのない局面にあって、いつまでも白兵戦を続けたシンガポールの無名戦士のままにしておいた方が良いようにも思われるのである。
                                              (了)                                    
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