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2010/02/22

Singapore Burning 第五部 (つづき)

32 (降 伏 ー つづき)
  バンカ海峡で小沢の巡洋艦、駆逐艦はわがもの顔に振舞ったが、避難側のなかには、徴発された民間の小船舶を改造した掃海艇やパトロール船で勇敢に戦ったものたちもいた。バンカ島は、丁度小沢艦隊が運んだ日本陸軍が占領したところだった。そしてそこで、この海域最大の残酷物語が起こった。
 オーストラリア人看護婦65名を含む、約300名が乗船したヴァイナー・ブルック号は、船長、リチャード・ボートンの機略と巧みな操船術によって、昼間は隠れ、夜間航行もサーチライトに捕らわれることなく順調に航海していたが、ついに日本機に発見され、銃爆撃を受けた。漂流しながら島にたどりついた看護婦たち22人は、負傷者もいたため、ほかの民間人とともに日本軍に投降を決意した。やってきた日本兵は、みなを浜辺に並ばせ、目隠しをさせた。何が起こるかわかった、アーネスト・ロイド機関員は海に飛び込んで逃げた。ことが終わった。しばらくして看護部のシスター、ヴィヴィアン・ブルウィンケルは喉の渇きで目覚めた。処刑の銃弾はいずれも急所を避けていたのだ。突然、声をかけてきた男がいた。同じように逃げ終えたキンズレー二等兵だった。二人は2週間ジャングルで生き延びた。長時間塩水に漬かったブルウィンケルは感染症にかからず、先に回復した。現地人から、ムントックの収容所に看護婦が大勢収容されている、と聞いた。歩いている途中、日本の海軍将校の車に行き合った。将校は二人にバナナを与えてから、彼女をムントックに、キンズレーを病院に送った。収容所で看護婦たちはたがいの再会を喜び合った。しかし、仲間が海岸で処刑された話は日本側には内緒にしていた。これを知っていることを知られたら、ただでは済まないはずだった。
 2月14日土曜日、赤十字のマークを屋根や窓に掲げた、800名ほどの戦傷者が療養中のシンガポールのアレクサンドラ病院で、突然激しい戦闘が起こった。きっかけは、退却中のインド部隊が、病院の庭から日本軍にブレン機関銃を発射したことにある。一人の英人士官が指揮をしていたとも言われている。赤十字の旗のかげからの攻撃に対する日本軍の復讐は凄まじかった。この戦闘で、ここで手当てを受けていた歴戦の勇士の多くが死亡した。グルカ兵と間違われた日本兵捕虜もそのなかにいた。
 防禦側は数において10対1の劣勢だったが、第1マレー旅団は善戦した。またブラカン・マティ島の砲台の掩護砲撃は効果的だった。山下は兵力を集中した。抵抗は次第に下火になってきた。ベネットは勝手に動きはじめ、メルボルンに直接、降伏もあり得べし、と匂わせていた。藤原岩市少佐の工作が奏功し、ニースンで投降したインド兵の多くはINA(インド国民軍)に参加を表明し、イギリス側に叛旗を翻した。なかには将校もいた。プレム・サーガル大尉もその一人である。とくにガンジーの崇拝者は日本人に優遇された。
 2月15日日曜日、ストレーツ・タイムズ紙はー1頁の新聞になってしまっていたがー「ジャップ大攻勢ー英軍頑強に抵抗中」、と大見出しを掲げた。その隣の小さな記事は、パリット・スロンの英雄、アンダーソン大佐がヴィクトリア十字章を授かる、と伝えている。午前6時半、パーシバルは、フォート・カニングの塹壕のなかの、従軍牧師による聖餐式に参加した。かれは、降伏を許可する、というウェイベルからの電報を受け取っていた。「これ以上不可能と思われる時点において、抵抗を停止することの裁量を、貴官に委ねたく考えるも、ご意向うかがいたし。今後いかなる事態に進展しようと、貴官とその将兵すべてに対し、ここ数日における果敢なるご努力に謝意を表明す。」
 午前9時半、指揮官会議がはじまった。前夜の大攻勢によってベックウィズ=スミス少将は参加できなかった。ベネットが、ブキテマ回復の総攻撃を提案したが、みな沈黙した。会議は、4日前の山下の降伏勧告受諾と決した。午前11時半、司令部の先任将官、テレンス・ニュービギン准将、ヒースの幕僚、日本語使いのシリル・ワイルド少佐、海峡租界植民省次官のヒュー・フレイザーが軍使となった。白旗とユニオン・ジャックを手にして停戦ラインを超える瞬間は、敵味方双方からの狙撃があり得て、もっとも危険だった。キャセイ・ビルの屋上から日本国旗が10分間振られた。それはパーシバルが山下の条件に同意し、フォード工場で山下と会う、という知らせだった。
 午後4時半、パーシバルは山下と会見した。予定されたとおり、それは一方的なものだった。しかし、山下は、治安維持のため、その後24時間にわたって、1000名の英兵が武器を所持することを許可した。そして翌日、シンガポールに入城する日本軍の人数を少数にとどめた。
 その間、小舟でスマトラ、そしてインド、オーストラリアへ逃げ出した将兵のなかに、ゴードン・ベネットがいる。かれは色々な手立てを講じて12日後にはオーストラリアにいた。降伏のときに兵を棄てた高級将官はかれだけだった。公式訊問でかれは訴追を免れたが、二度と野戦の指揮は任されず、1944年に退役した。
 マレーとシンガポールの戦線における山下の被害は、戦死、3506、戦傷、6150、パーシバル側は、戦死、約7500、戦傷、約1万、そして約12万が捕虜となった。シンガポール上陸後の日本軍の犠牲者は、半島の戦域でのそれとほぼ同数で、戦死、1713、戦傷、2772である。1日あたり640の死傷であり、20世紀の西欧ではあまり例をみないものであった。
 降伏の翌日、近衛師団の参謀長、今井中将は、インド軍のビル・キー中将と会った。今井は東南アジアの地図を拡げてフランス語で会話した。「日本は、マレーとシンガポールをとった。すぐに、スマトラ、ジャワ、フィリピンをとるだろう。オーストラリアまではいらない。あなたがたイギリス人もそろそろ妥協する頃合だね、イギリス人はこのあとどうする?」「どうするって?」、キーは答えた。「このあとあなたがたを押し戻す、そしてあなたの国を占領しますよ。」
 
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