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2009/05/19

Alliance ‐4     世界大戦

 ワシントン、チェカーズ、モスクワ、重慶、ローマ、ベリリン
 1941年12月6-12日
ーわれわれは、いまや、みな同じボートに乗った。   ルーズベルト
 

 1941年12月6日の夜、ルーズベルトはオーヴァル・オフィスでホプキンスとおしゃべりしながら趣味の切手収集の作業をしていた。一人の海軍士官が、ワシントンの日本大使館あてに東京から打電された長い傍受電報の最初の13の部分を翻訳したものを持って飛び込んできた。「これは戦争だね」、目を通したルーズベルトはそれをホプキンスに渡した。ホプキンスは、アメリカが先制攻撃できなかったことを口惜しがった。「いや、それはやっちゃいけないんだ。われわれは民主主義で、平和愛好国民なのだからね」。12月7日日曜日、午前10時30分、最後の電文が入ってきた。それには、これ以上交渉の余地はない、と書かれていた。昼食のとき、海軍長官、フランク・ノックスが電話をかけてきて、真珠湾攻撃の第一報をつたえた。
 4800キロ離れたチェカーズにいたチャーチルは、日曜日の夜、ハリマンと夕食を摂っていた。臨時ニュースが、米国がたったいま真珠湾を攻撃されたと発表した、と報道した。
 ホワイトハウスに電話がつながった。「日本がどうかしたのですか?」チャーチルが訊ねた。「みな本当なんだよ」ルーズベルトが答えた。「やつらは真珠湾を襲った。われわれはいま、みな同じボートに乗ったんだよ」。
 モスクワでニュースは西側報道機関からつたわった。赤軍はモスクワの外側で国防軍に抵抗していたが、戦況はそれで手一杯だった。スターリンは4月に東京と締結した中立条約を命綱とみていた。
ルーズベルトから共同行動を呼びかけられたときは、それを太平洋の戦いに巻き込むトリックではないか、と疑った。モスクワでの軍事会議の提案にも乗らなかった。ワシントンのシベリアに軍事基地を設けたい、という提案も蹴っていた。
 ロンドンで、シャルル・ドゴールは、真珠湾の重大性に疑いを抱いていなかった。「戦争は終わった。この工業力の戦争でアメリカに勝てるものはいない」。
 重慶では蒋介石が「アヴェ・マリア」のレコードに続くニュースでマイクの前に立った。中国は、12月9日、ドイツ、イタリア、日本に宣戦布告した。東京との紛争は「事変」であることをやめたのである。中国は同盟国の戦争努力をアジアにおいて分担する、と宣言した。
 ヒトラーは、ニュースがとどいたとき、東プロシアの「狼の巣」で夕食中だった。かれがロシアに攻め入ったとき日本に知らせなかったように、日本も攻撃を通知してこなかった。ヒトラーのモスクワ進撃は阻止されていた。総統の機嫌は悪く、老いて陰鬱にみえた。
 枢軸側にとっては巨大な敵の出現となったが、ヒトラーはアメリカは半分ユダヤ人、半分黒人の国で商業主義に冒されており、太平洋で泥沼に陥り、イギリスとソ連に対する援助を減少させるだろう、とみていた。
 12月12日、ムソリーニはベネチア広場で15万人の前で演説した。しかし群集の反応はいまひとつだった。昼食前だったことと、この日の寒さのせいにされた。
 ドイツは米国に宣戦した。ルーズベルトは、初めて一国全体をしたがえることになった。
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