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2010/02/17

Singapore Burning 第五部 (つづき)

32 (降 伏)
 シンガポールの防衛ラインは、西側、ケッペル港と、東側、カラン飛行場を結ぶ28マイル、その防衛面積は約30平方マイルとなる。ここに約100万の民間人と、10万の将兵がいた。弾薬と同様に重要なものは「水」である。島の三つの貯水池のうち、二つは失われ、命綱は、いまやマクリッチー貯水池の南東がわからのパイプラインだけになってしまった。
 2月11日は、夕刻から市内にバリケードが築かれはじめた。近衛師団は島の中央部、ニースン村付近に進出し、第2/10 バルーチ連隊と交戦がはじまった。ノーザンバーランド・フュージリアのウェッブ少尉とその4基のヴィッカースは、大隊掩護の命令を受けた。半島に沿って転戦を続けた百戦錬磨のバルーチの中隊長は、ウェッブに自分の経験を伝授した。「日本軍は、最初にわが方の前衛を攻め、側面にまわる。だから包囲される前に逃げるんだ」。ウェッブは、インド部隊は信用できない、と思っていたが、バルーチは効果的に戦っていた。部隊で最先任のインド人将校、プレム・サーガル大尉の活躍は見事だった。ニースンでは近衛に傷がついた。同時に、インド第11師団の避難を許すことになった。ジョン・ゴートレイ中尉は、ハロルド・リリー中佐から、ティガー・プライス少佐への、「もっと右翼によれ」という指示の伝令を務めたが、脚を撃たれ、伝言は伝わらなかった。中佐は、かれの負傷の手当てを優先させた。
 海岸の15インチ砲は、戦車を道路に掴座させた可能性もあったが、夕刻6時半頃、解体命令を受け、撃ち方止めとなった。北部、西部からの避難民の群集のなかを、新しい戦場に向かおうとしていた第118野砲連隊の一部は、旧式の固定脚のクロード(九六式艦上攻撃機)やケイト(九七式艦上攻撃機)の機銃掃射を受けた。向こう見ずな敵機に対して、シーク部隊のボフォール高射砲が数機を撃墜した。
 前線兵士の激戦のさなか、空軍と海軍の将兵を逃がすという決断がなされた。それとともに、追加されたものがあった。日本軍との戦い方を充分に学び、その経験を、新しく編成する大隊に訓練することのできる有能な幹部将兵を選んで後送するという決定である。これは適者生存の原理というより、放置しておくと喪失してしまう、勇者中の勇者を温存する試みでもある。最初に選ばれたのは、4名のアーガイル軍の猛者、イアン・スチュワート中佐、日本の将軍を斃したアンガス・ローズ少佐、爆薬を失ったため手榴弾を結びつけ機関銃でそれを撃つことで橋を爆破した、デヴィッド・ウィルソン大尉、田舎駅での武勇伝の持主、アーサー・ビング先任曹長である。日本語通訳なども避難の対象となった。かれらはおおむね、在日経験者で、滞日中、西洋人であるということだけでスパイの嫌疑をかけられ、拘禁されたりした経験があった。アメリカから日本の外交電報を解読するため贈られたMAGIC解読器も処分されたようだ。戦後この機械はついに見つからず、海底深く沈んだものと思われている。
 スチュワートは、避難船団の指揮官、ピーター・カザレット大佐の旗艦、軽巡洋艦「ダーバン」に乗船する予定だった。船を埠頭で待つ間、西方から激しい砲火が聞えていた。ケッペル港対岸のブラカン・マティ島から、英軍の砲弾が頭上を飛び越えて行った。もともと海岸砲だったものが目標を内陸へ変えていたのだ。これらの砲は、破壊された15インチ砲と異なり、高性能爆弾を使用することができた。カスリン・ステープルドンは、係留中の商船「ゴーゴン」で砲声を聞いていた。彼女はRAFの通信センターで働いていた。避難勧告に抵抗していたが、夫の強い主張で、ありあわせのものを抱えて泣く泣く乗船した。夫婦の再会は保証できず、結果として、再会できないものが多かった。残ったものが必ずしも死ぬ、とは限らなかった。制空権、制海権が日本軍に握られている状況では、とどまるより出かける方に危険は多かった。
 船団には、オーストラリアの脱走兵が集団で武器を手にして、脅迫まがいに乗り込んできた。あちこちで小競り合いが起こった。なかでも最大の貨物船、12,500トンの「エンパイア・スター」号には140もの豪州兵が乗船した。この船は、フリーマントルとシンガポール往復の定期船で、主に冷凍肉を運搬していた。乗客用スペースは16名程度だが収容能力は抜群だった。裕福な民間人も乗っていた。かれらの乗用車、召使がぴかぴかに磨き上げたベントレーやシボレーは、港の交通路の邪魔になる、と用済みとなると惜しげもなく海中に放り出された。船長のセルウィン・ケイポンは、乗客の荷物を制限してスペースを空けさせた。引き続き脱走兵が押し寄せてくるので、ケイポンはタラップを引き上げ船を出帆させた。取り残されたものも多かった。
 日本の大本営は、シンガポールはすでに決着がついたと見た。帝国海軍は、次はスマトラ、そして石油地帯のパレンバンへ向かう。小沢治三郎提督は南へ針路をとり、その3隻の巡洋艦と1隻の航空母艦は赤道を越えた。これらには、ホンコンからの二つの歩兵旅団が乗船していた。狙いは、石油地帯から50マイルの下流で、ウェイベルが最近二つの航空基地を建設したバンカ海峡である。ここはシンガポールからバタビアへの最短ルート、まさにカザレット船団の目標地点であった。
 煙霧のなか、水雷除けの浮標(ブイ)が見えず、船団の歩みは遅々としていた。日本機6機による第一波の来襲は何とかしのいだが、続いて爆撃機9機のリレー状態で、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを襲った同じフォーメーションの攻撃を受けた。甚大な被害を受けたものの、エンパイア・スター、ダーバン両艦長の卓越した技量でこれも乗り切った。しかし、船団は分散状態になっていた。また小沢提督が同じ方角に向かっていることも露知らなかった。ゴーゴンはバタビアに寄らず、直接フリーマントルに向かった。入港予定は2月19日だった。英軍将兵はそこからただちにインドに送られ、ビルマ戦線に投入されることになっていた。
 ケイポンは脱走兵を何とか追い出したかったが、かれらは武器を携行していたのでトラブルが予想された。一計を案じ、かれは30名ほどの水兵にみすぼらしい制服を着せ、脱走兵に近寄らせて仲間意識を煽った。巧妙に武器をデッキにおいておくよう説得した。オランダ領東インド(現在のインドネシア)領に入港すると、かれらに隊伍を組ませ行進させた。倉庫の角を曲がると、そこには銃剣をつけたダーバンの海兵隊が待ち構えていた。オーストラリアの労働党政府のジョン・カーティン首相は、ウェイベルに電報を打ち、これら兵士をオーストラリアの承認なく死刑にしてはならない、と訴えた。
 カザレットの少船団は、組織化された船団の最後のものとなった。東京のラジオは、「シンガポールにはダンケルクを許さない」と報じた。まさにそのとおり、制海、制空権のないことにおいてはダンケルク以下だった。エンパイア・スター、ダーバンの足跡を追うシンガポール南東2千平方マイルの海は虐殺の海と化した。1942年のバレンタイン・デーがピークだった。死者のなかには、スプーナー提督、プルフォード空軍少将がいる。二人の乗った水雷艇が座礁してたどりついた島は、風景は見事だったものの、悪疫の島だった。かれらはその地でマラリアに倒れた。約44隻で、約5千名が脱出したが、40隻は沈められ、助かったものは約1250名だった。小型砲艦、「グラスホッパー(いなご)」は日本の捕虜のパイロット6名を護送していた。かれらは日本軍の空襲を職業的なまなざしで観察していた。一段落すると、かれらは負傷者の看護を手伝った。
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