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2010/01/19

Singapore Burning 第五部 (つづき)

29 (上 陸)
 日本軍第5師団、第18師団はボート、船腹の不足で全軍が一丸となって渡河したわけではない。一回で運べるのは4千名程度だった。待ち構えているのは約3千の豪州兵である。山下は「Schwerpunkt」(核心点)としてテイラーの第22旅団の防備地域を選んだ。パーシバルの薄い陣地にまず穴を開け、そこから拡がって行く戦法である。山下はサーチライトの放射、そして野戦電話線が砲撃によって破壊されていたとしても、信号弾が上陸を告げることができるので、それらの反応を懸念していたが、これは二つとも起こらなかった。
 テイラーは水上を渡るパトロール(偵察隊)を出していたので、サーチライトは自らに不利でもあった。上陸部隊とパトロールの遭遇戦はテイラー側の悲劇に終わった。サーチライト部隊の防備は、貧弱だった。開戦前に訪れた従軍記者のモリソンは、この部隊を「自殺部隊」と形容した。前線の歩兵は、日本軍上陸部隊の暗い影が形を整えてくるのをただ見つめるだけで、頼みとする重火器の掩護砲撃はなかった。前方からの「のろし」はジャングル、ゴム林にさえぎられていた。砲兵たちは、ここ1週間というもの、距離、口径測定、信管発破のタイミング、装填、指定域の空中爆裂効果などの演習を繰り返し、準備は充分で、命令だけを待っていたのである。欠けていたのは、電話が不能となったときの取り決めだった。相互連絡不徹底で、オーストラリア砲兵隊はその一部だけが奮戦していた。
 日本軍のシンガポール上陸の最初のヒーローは、工兵隊のボートの舵取りである。乗員である兵は舟のなかでかがんでいたが、舵取りは砲火のなか接岸した。その一人、ヤマモト・キヨイチ一等兵は、迫撃砲弾らしきものでで、腹、胸、右腕を負傷したが、暗闇のなか、兵たちは気がつかなかった。感状によれば、かれは全員が上陸するまで舵を手放さず、そのあと「天皇陛下万歳!」を叫び死んで行ったようだ。テイラーの豪州兵に甚大な犠牲が出たことも疑いない。アライ・ミツオ曹長の回顧によれば、午前1時ころ、自分がボートから飛び降りたとき、「なにやら冷たい踝(くるぶし)を掴んでしまった」と。夥しい屍体が浮かんでいたようだ。
テイラーは第一次大戦の殊勲者ではあったが、陸軍大学で訓練を受けたプロの軍人ではなく、一介の科学者で、その指揮は理論に重きをおくものだった。その命令は、孤立した守備位置の死守というより、明からさまな退却への誘導だった。最後まで戦い抜いたものに褒賞が与えられるわけではなかった。日本兵にとって、殺すか殺されるか、の戦場が、豪州兵にとっては「殺されるか、退却」だった、と第5師団の機関銃兵、オチ・ハルミは語っている。日本軍の下級指揮官、尉官、曹長、伍長たちは夜光塗料つき腕輪になった磁石をみな携えていた。かれらへの命令は簡単なものだった。どんなに迷っても、とにかく南、ないし南東へ向かえ、そして爆撃、砲撃攻めになっているテンガー飛行場へ集結せよ。海岸とテンガーの間には、マングローブのクリーク、泥沼、渓流が横たわっており、そのすぐ南に、テイラーの司令部のあるアマケン村があった。今や、両軍ともに同じ方角に向かって動いていた。暗闇の雨に濡れたジャングルの道を、双方、這いまわっていたのである。不可避的にそこここで遭遇戦が起こった。クラレンス・スパックマン伍長の一斑は、刀を振り回す将校に引率された日本兵の一団と出会い、泥濘のなかの混戦から生還した。
 テレンス・マイクルジョン中尉の小隊は、4基のヴィッカース機関銃がその兵力のすべてだったが、この4基は、周囲の歩兵が撤退すると告げてくる前に、2万発を撃った。日本軍はかれらに対し迫撃砲攻撃を仕かけてきたが、突撃して全滅させようとはせず、包囲陣を敷いていた。逃亡路は沼地だったので、マイクルジョンの兵は、ヴィッカースを解体して運ぶことにした。行く手に日本兵が休憩しており、21歳のマイクルジョンは、自らのレボルバーで戦い、兵士の脱出を掩護したが戦死した。
 1942年2月9日の太陽が昇ってきたころ、テイラー旅団の最大の部分は烏合の衆と化していた。多くのものにはすでに武器がなく、ズボン下にブーツという半端な恰好のものもおり、ほとんどが睡眠不足だった。ヴァーレイの第2/18の全中隊は、シンガポール郊外のブキテマという南の村に着くまで敗走をやめなかった。かれらはその行程の間、ほかのオーストラリア部隊に行き逢わなかった、とのちに主張したが、かれらは、第2/29大隊とテンガー飛行場の特別予備部隊の守備範囲を通り抜けなければならなかった筈である。「みながみな、ヒーローであるとは限らない」、パーシバルは、1918年春のドイツ軍の最後の大攻撃の光景を思い浮かべて記録した。かれはフランスの村で、イギリスの21に及ぶ異なる部隊の「はぐれ」兵士を見ていた。そのときは、落伍兵用の組織ができていたが、テイラー准将はそこまでの準備をしていなかった。つい1ヶ月ほど前、ゲマスの待ち伏せ攻撃で、ベネットのいう「どんちゃん騒ぎ」をやって希望に溢れた師団はもう二度と戻ってはこない。
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