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2009/12/02

Singapore Burning 第五部 (つづき)

27 (シンガポール炎上)
 シンガポールは燃えていた。山下は、英軍が貯蔵タンクの石油をジョホール水道に流し、それを燃やして火の海にすることをもっとも警戒していた。そのため空爆と砲撃でまず石油タンクを狙い、4基を燃やしたのである。英国がドイツ軍の海上からの侵攻に備え、英仏海峡を火の海にする技術を開発した、という噂が山下の懸念の背後にあった。実際にそのような発明はできていなかったが、イギリスは、アメリカの新聞を使って、ドイツにそのように思わせていた。しかし自軍の作戦で燃やした石油の白煙は、航空機や気球による弾着測定を困難にさせ、日本軍の砲撃は盲射ちになってしまった。
 大砲の数からいえば、英軍が若干有利だった。山下は持てる火力のすべてを動員した。日本軍の大砲主力は1890年代のクルップ製で、ルドリング曹長が見たとおり車輪は木製だったが、砲弾は最新のものを使っていた。マレー半島を下(くだ)る55日間の戦闘で、双方がこれほど多数の大砲を準備した戦闘はなかった。兵力は、英軍、約9万、日本軍、約3万と圧倒的にパーシバルが勝っていたが、日本兵3個師団はすべて百戦錬磨の精鋭で、しかも勝利の連続でここまできている。またその背後にはタイからインドシナにかけて、なお5万の動員力を持っていた。パーシバル側には英、豪、印の救急要員、6千名もあり、パーシバルは実戦要員は7万と見積もっていた。
 「すべてを防禦するものは、何ものをも防禦していない」、これはフリードリッヒ大王の言葉である。パーシバルもこの言葉は知っている筈だ。シンガポール島の海岸線延長は72マイルである。山下が北側から攻撃してくることは間違いない。しかし、その主力が東西どちらからくるのか?パーシバルにとっての難問だった。ウェイベルは、水道最狭部の西からくる、と判断したが、それは常識的すぎる。パーシバルは、東から、と決断し、インド第3軍の、イースト・アングリア3個旅団、インド2個旅団を東側に展開させた。インド軍とは名ばかりで、うち三つは英国旅団である。民間人には安堵感を与えた。多数の兵員がハンモックや、カムフラージュした車輌に寝泊りし、野外炊事場で食事を用意した。兵士にとって中隊の司令部ですら遠い存在であり、その世界は仲間うちにかぎられ、10数人の間で食料、飲み物、タバコとジョークを分け合い、まれではあるが、おぞましい恐怖心を共有した。
 コーズウェイの西側には、パーシバルはベネットの第8豪師団をおいた。これに、到着したばかりのジョージ・バランタイン准将の第44インド旅団の3個パンジャブ大隊をつけたが、その兵士たちは未熟だった。オーストラリア兵たちは、マレー半島縦断戦での成功体験もあり、機敏に戦闘準備に入った。しかし、折角構築した防禦陣地を実戦に入る前に放棄して移動するよう命令されたり、不本意な出来事もあった。防衛するつもりだった海軍基地も廃墟とされ、当惑せざるを得なかった。兵士の士気は阻喪されつつあったが、将校のなかにも敗北主義者が出てきた。第27旅団長のダンカン・マクスウェル准将は医学を修めていたが、医者として人間の生命を救う立場から、パーシバルに、シンガポール島で将兵を犬死させてはいけない、とひそかに忠告していた。パーシバルの回顧録にはこの話は出てこない。
 上層部の陰鬱な気分は伝染して行った。しかし、軍民の能天気な連中はそれに気づいていなかったのか、またはそれを無視しようとしていた。かれらにとってのベストの予想は、長期の篭城だったのである。パーシバルは記者会見で、「どのみち、それを望んでも、シンガポールから引き揚げることができようとは思えない」、と言った。ナーバスな笑いが起こった、とモリソンは記録している。食料、飲料、豚肉、米、少なくとも6ヶ月分は確保している、と政府は発表した。小麦はセイロンへ送り返せるほどある、と。コーズウェイのパイプラインが断たれて、本土の給水は望めなくなったが、島内の三つの貯水池は満杯だった。「シンガポールは頑張れる」、総督のシェントン・トマスも放送した。かれはレディ・トマスとインドへ逃げ出した、という噂を消すため、空襲の被災者の後片付けを袖まくりのワイシャツ姿で手伝っている写真を新聞社に撮らせた。ステープルドン夫妻の使用人、中国人の「ボーイ」が街で空爆にあって怪我をした。病院に運ばれたが、夫妻はかれがどこに収容されたのか探るのに手間取った。どこの家庭でも同じだが、かれを日ごろ「ボーイ」とのみ呼んでいたので、その名を知らなかったのである。
 カスリン・ステープルトンは、RAF通信センターでテレ・プリンターを操作していた。基地では、シンガポール防衛の最後のハリケーン中隊のパイロットが前線から戻って休んでいた。スクランブルがかかると、すぐまた出動しなければならない。かれらは疲れきっていた。カスリンにとって尊敬すべき若者たちだった。一般市民はパイロットの活躍を、ロナルド・レーガンほかが演ずる映画、「International Squadron-RAFの外人部隊(邦題:なぐりこみ戦闘機隊)」をアルハンブラ館で見た。映画館の前には色々な人種が行列を作っていた。映画は一時的にせよ、いやなことを忘れさせてくれた。
 噂が広がった。日本軍がパラシュートで上陸してきた、というのである。これはあとで、白煙を見誤ったものとわかった。本土に残置したSOE(秘密情報局)の諜報員のリレー組織を作ったものの、敵の動静観察には、大雑把であまり役に立たなかった。結局、サンパンで水道を渡って実視する偵察に頼ることになった。これで、東方のウビン島に大規模な日本軍の集結が発見された。パーシバルの予測は当たったようだった。そして、オーストラリアの二隊にわかれた斥候が、同時に、西方の日本軍の存在を確認した。
 
 
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