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2009/11/21

Singapore Burning 第四部 (つづき)

25 (ジョホールへ)
 ジョホールの最終的な防衛ラインは、西岸のバトパハ港と東のマーシングを結ぶ、半島を東西に横断する最南の道路である。山下は、東、西、中央の三方面からここに襲いかかってきた。日本が戦前から錫鉱石を積み出していた、東岸のエンダウの港は放棄された。日本軍は海空の優位を利用してパーシバルの懸念していた新たな上陸作戦を発動した。1月26日、ハドソン偵察機は、2隻の巡洋艦、4隻の駆逐艦、水雷艇群に護衛された2隻の輸送船を発見した。
  ハンディキャップは歴然としていたが、プルフォードは持てる戦力、21機のヴィルデビースト、3機のアルバコア、9機のハドソン、15機のバッファロを出撃させた。新しく到着したハリケーン、8機も加わったが、これは中東用の厚い砂防ガラスと、数の多い機銃の重量で脚が遅く、期待に反してゼロ戦の敵にはならなかった。エンダウ近辺の浅瀬は雷撃に不向きで、RAFは、結局数機の犠牲を出して作戦を終わった。英艦、タネットとオーストラリア艦、ヴァンパイアが夜間奇襲を敢行したが、致命傷は与えられなかった。タネットはエンジンに被弾したが、何とかシンガポールに帰港できた。
  アルバート・バーレイ中佐の第2/18大隊は、ジェマルワン北方の待ち伏せの位置についた。バーレイは、ゲマスでの「ブラックジャック」、ゴルガンの活躍に刺激されていた。日本軍は挟撃され、白兵戦が展開された。しかし戦闘の決着がつく前に、バーレイはジェマルワンへの撤退命令を受けた。
  1月27日までに、パーシバル、ヒース、ベネットは、シンガポール要塞への撤退の詳細な時間表を作っていた。2月1日までに、半島とシンガポールを結ぶコーズウェイは爆破される予定だった。バーレイの直属上司、ハロルド・テイラー准将はコーズウェイ近辺の橋頭堡の監督に当たることとなり、東方軍(テイラーの第22オーストラリア旅団の2大隊が基本となる)は、バーレイの指揮下に入った。
  西方軍はあまりうまく行かなかった。バトパハは、第6/15旅団が防衛していた。指揮官は、バーナード・チャーレン准将である。かれは日本軍に背後を脅かされ、西部海岸から10マイルほど下がった、センガワンへ後退する許可を求めた。パーシバルは最終的にこれを承認したが、例によってその決断は遅すぎた。その間、退路を日本軍は材木と有刺鉄線で閉塞した。チャーレンの兵は約3千、車輌は250ほどあり、道路両側を使っても、その列は1マイルほどにもなる。閉塞部周辺のゴム林には機関銃座が待ち構えており、72時間に及ぶ戦闘では、第6ノーフォーク大隊だけで、6人の少尉と1人の大尉を失った。チャーレンの無線はダウンした。マレー義勇航空隊のハリー・デーン空軍大尉のタイガー・モスが、日本機に掴まらぬよう、木々にすれすれの低空で飛び、手書きのメモを入れた筒を投下して戦況を本部に知らせた。日本軍はすでに複葉機など使っていない、眼下の将兵は、デーン機をすぐに友軍機と認めて手を振ってくれた。
  キー准将は、チャーレン部隊を道路ブロックから救出するため、第11師団、ハートフォード・ヨーマンリーのチャールズ・バナム少佐指揮の救援隊を送ることとした。112名の歩兵のトラック、救急車輌2台、ブレン軽機関銃運搬車4台、25ポンド砲牽引車数台で構成されている。しかし行く手にはあらゆる方角からの砲火、また道路ブロックが待ち構えていた。障害物に次々と車輌は破壊ないし停止させられた。バナムは運搬車のエンジンを猛回転させて最後のバリケードを乗り越え、チャーレンの部隊に飛び込んだ。バナムからその道中での日本軍の配置を聞いたチャーレンは、パリットスロンのアンダーソンと同じ立場にあることを知り、同じ結論に達した。負傷兵を残し、車輌と砲を破壊してジャングルをたどるのである。途中、チャーレンは宿営地で部下のソーン中佐を探しに外に出た。帰り道に迷子になった。かれは近衛兵の斥候に捕らえられた。もっとも高位の、最初の英軍捕虜となった。かれに代わって指揮を執ったのは、モリソン中佐である。かれは、1500の兵を海岸に赴かせ、そこから海軍の力を借りてシンガポールへ脱出しよう、とはかった。二人の士官がサンパンを使って司令部と連絡をつけた。揚子江の砲艦、スコーピオン、ドラゴンフライほか、ヨット、ジャンク、あらゆる船を駆使して第二のダンケルク作戦を成功させた。1月31日午前8時15分、アーガイル部隊がバグパイプを演奏しながら渡ったのち、コーズウェイはインド工兵隊によって爆破された。
  中央部では最悪の事態となった。猛将、アーサー・バーストウの第9インド師団のうち、ジョージ・ペインター准将の第22インド旅団がほとんどまるまる消失してしまった。もともとペインターは前線に突出しすぎており、後部のビリー・レイ准将の第8旅団との連絡が途切れた。日本軍はすかさずこのギャップを埋めてしまった。バーストウは自身で、まずレイを叱責し、ペインターに危険を告げるべく、鉄道レールを走るトロッコに乗車して出発した。鉄橋の破壊されたところでトロッコを捨て、橋げたを上りはじめた。将軍の軍帽がきらめいた、かれは撃たれた。フィリップスに告ぐ将官の戦死だった。
  ペインターの逃避行がはじまった。負傷兵は、タミール人のゴム園労働者がゴム園の大きな施療所へ運んでくれた。疲労、飢餓、日本軍の待ち伏せ攻撃で員数はどんどん減って行った。ペインター自身も捕らわれの身となった。2月3日現在、ジョホール海峡を何らかの手段で渡ってシンガポールに戻ったペインター旅団の将兵は、62名だった。
  コーズウェイ破壊後も、多数の将兵が対岸には残っていた。コタバルのバザールには、キー旅団のドグラ兵が現地人として過ごす訓練をしていた。ペナン島の深い森のなかでは、勇気ある中国人が7人のレスター兵をかくまっていた。中央マレーでは、マラリア、黒水熱、脚気などのアーガイル傷病兵、20人ばかりがうなっていたが、少しずつ命を落としていた。民間人も残っていた。スコットランド人のリリエ医師は、スンゲイ・ブローのらい病施設でジャングルに逃れた同胞の面倒を見ていたが、日本軍はらい病に怖れをなして医師には手をつけなかった。パリット・スロンの周辺に、ロビンソン・クルーソーに出てくるベンガンのような、蓬髪、ひげ面の男が現われた。虐殺から生き残ったベン・ハックニー中尉だった。かれは現地人に食糧を貰って生き延びた。もう二度と捕虜になるものか、と。砲兵曹長のベネディクトは、二人の仲間とボートを探しているところを捕まった。今度は捕虜たちは相応に待遇された。砲兵曹長のルドリングも逃避の過程で幸運、不運さまざまな体験をしたが、海峡を目の前にしてやはり捕らえられた。日本兵からは飲み水、食糧が与えられ、傷にも軟膏を塗ってくれた。かれらの大砲も25ポンド砲に似ている、と思ったが、車輪が木製である点が違っていた。夜中じゅうの砲撃でよく眠れなかった。シンガポールは、今や包囲されようとしていた。
  
  
    
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