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2009/11/11

Singapore Burning 第四部 (つづき)

23 (バクリ、ムアール周辺の攻防)
 ホレーショ・ダンカン准将の第45インド旅団の車輌は、イラクで訓練したままの砂漠用の黄色いカムフラージュが塗られたままだった。訓練は中途半端で、まだ10代の兵士が多かった。対峙しなければならないのは、西村中将の近衛師団である。日露戦争以降実戦の経験はなかったが、兵士は身長を以て全国から選抜され、眼鏡をかけたものはほとんどおらず、また最良の装備の優先配分を受けた日本のエリート軍団である。両軍の質的相異は明らかだった。ダンカン旅団は、普通の歩兵3個大隊で構成されている。第7/6ラージプート大隊は、ムアール河口と南方のムアールの街から上流へ9マイルほど、第4/9ジャート大隊は、東の丘陵地帯へ向かって15マイルの川沿いに、それぞれ川を挟んで展開することになった。そして第5/18ガルワール大隊は予備として、旅団司令部と一緒にバクリの街に陣取った。
  西村が展開中のインド部隊を蹴散らすのには24時間もかからなかった。ムアールに対する陽動作戦でまず川の北側のラージプート中隊が孤立した。近衛兵は現地調達のサンパン、そのほかありとあらゆるボート、船舶で川を渡った。残りのラージプート部隊は四散、ジャート大隊長のジョン・ウィリアムズ中佐は、自身で偵察中に日本軍将校に軍刀で首を斬られた。インド旅団の3人の大隊長、ほか英人将校多数が戦死して、インド兵の秩序は乱れた。
  ベネットは、ムアールの日本軍は精々200程度の戦力と踏んでいたが、実際はその10倍以上だった。かれは、ジェームズ・ロバートソン中佐指揮のオーストラリア第2/29大隊を派遣してダンカンの補強とした。マレー情報省の写真家、ヘドレー・メトカーフ、豪陸軍写真班のニュースカメラマン、フランク・バグノルが同行した。1月17日午後、大隊はバクリに到着した。
  夜明け直後、午前6時45分、ゴタンダ・シゲオ大尉指揮下のT95戦車9台がバクリに突入をはかった。スリム川でのシマダ戦車隊の成功に刺激されて志願したのである。ワタナベと同じように歩兵の掩護なしだった。戦車隊は、両側が厚い樹木に覆われた切通しを通る必要があった。待ち構えていたのは、クラリー・ソントン砲兵曹長だった。ソントンは高性能爆弾を戦車群にぶつけ、6台を擱座させた。かれは尻を撃たれたが、脅威が去るまで救急手当所に赴くことを拒否した。かれは即時、DCM(殊勲章)を授与された。メトカーフとバグノルは、日本軍戦車の断末魔の写真をやっとモノにすることができた。そこにはすべてがあった。燃える戦車、脇に横たわっている日本兵の遺骸、数ヤード先に小さな高性能砲のうしろに佇むオーストラリア兵士がいる。
  ロバートソンは、伝令のオートバイの後部にまたがって、ダンカンの招集した会議に向かった。チャールズ・アンダーソン指揮のオーストラリア増援部隊、第2/19大隊が到着したのである。アンダーソンは、1917年、東アフリカで戦った、パーシバルの部下で唯一のジャングル戦経験者だった。また兵士はよく訓練されており、パーシバルは奇跡を期待した。パーシバルのいう「ヒースの退却コンプレックス」はどこかで押し止める必要がある。通信傍受による諜報によれば、ムアールに進撃中の日本軍は、近衛師団の一部少数ではなく、その全軍であるようであった。また新たな上陸作戦によって、ムアール=バクリのラインが切断される危険もあった。北のゲマス、セガマット地区のオーストラリア2個大隊、そして損傷激しいインド6個大隊を南に迎えることは至上命令だった。東部防衛の一部だったアンダーソン大隊の起用はそのための増援だった。
  シンガポールに到着して1週間も経たないデューク准将の第53旅団は主要な手駒だった。将兵の期待していた訓練とか休養の時間は全く与えられなかった。また旅団として一単位として投入されることもなく、大隊ごとにそれぞれ別の持ち場が与えられた。それに、ただちに戦力投入される予定ではなかったため、重火器は携行されず、砲兵たちは手持ち無沙汰の状態におかれた。
  バクリでは、低空飛行の直撃弾が幕僚会議中の司令部に命中し、ほとんど全員が殺傷された。ダンカンと1少佐が無傷に逃げ出したが、ダンカンのショックはおさまらなかった。近衛師団は主要道路を閉鎖し、バクリを南と東から攻めてきた。オートバイで会議にかけつけたロバートソンは爆撃を受け、銃弾よりも転倒したことで致命傷を負い、のち死亡した。
  日本兵が勇敢である、という噂は嘘ではなかった。捕虜になるより死を選ぶ兵は、ときどき死んだ振りをしていた。デズモンド・マルコイ曹長は、ある近衛下士官の死体から、情報将校の欲しがる手紙や身分証を求めてその懐(ふところ)を探ったところ、突然死人が立ち上がって、右手に手榴弾を握り締めた。マルコイは左手を押さえてピンを抜くのをとどめた。手榴弾で殴りかかるのを、左のジャブで応酬した。マルコイの叫び声を聞き、下士官は射殺されたが、その態度は威風堂々たるものだった。
  アンダーソン大隊が戦闘後に敵の遺体を数えたら140だった。味方は戦死10、戦傷15だった。ゲマスに続く大勝だったが、これはピークだった。1月20日の夜明け、アンダーソンは、バクリを引き揚げヨンペンに向かって第45旅団の救援に赴くよう命令を受けた。近衛師団は道路閉鎖により、英軍をサラミソーセージをスライスするように、ずたずたに切っていた。故ロバートソン大佐の第2/29大隊の被害は深刻だった。残ったのは兵200、士官7名だった。将兵はアンダーソンに合流すべく、戦いながら道を拓いて行った。
 
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