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2009/10/20

Singapore Burning -第四部 (つづき)

19 (東海岸の防禦)
 東海岸からの撤退は簡単なものではなかった。オーストラリア地上要員が放棄した東岸のクワンタン飛行場が日本軍の手に渡り、そこを増援軍船団に対する攻撃機の基地にさせるわけには行かなかった。増援のインド旅団は、ボンベイ経由、シンガポールのケッペル港まであと24時間のところまできていた。パーシバルとしては、クワンタン飛行場防衛の必要を認識しながらも、いまクワンタンと飛行場を守っているジョージ・ペインター准将の精鋭ぞろいの第22旅団は、日本軍の新たな上陸が懸念される西海岸に持って行きたかった。これが失われるとすれば、訓練不足の増援部隊ではとても埋め合わせはできない。
 クワンタンは、コタバルとシンガポールとのちょうど中間地点であり、中部マレーの東海岸(南シナ海)と、西岸(インド洋)のクアラルンプール、ポートスェッテンハムを結ぶ、唯一の東西横断道路の基点である。ここからシンガポールから北へ90マイルのエンダウまで、ジャングルばかりで東海岸を南下する道はない。ペインターは旅団司令部をクワンタン飛行場においていたが、撤退するにあたり、コタバルでキー准将に協力した、アーサー・カミング中佐の3個中隊を残した。カミングは、ここで同じ敵、佗美部隊ともう一度まみえることになる。カミングは、2個中隊を飛行場周辺に展開させ、アメリカ人「ポム」・ポメロイ大尉が指揮するD中隊に脱出路の狭い出口を守らせた。
  ペインター旅団の大部分は、弾雨のなか、ポメロイの陣を通過した。日本兵は毛布をつかって鉄条網を乗り越え、迫撃砲を花火のように打ち上げ、狂乱しながら押し寄せてきた。残留したカミング隊は退路を阻まれることを顧みず、敵を引き寄せることを仕事と観念した。小康状態に、カミングは戦況を視察した。まわりには日本兵の死体が散乱していた。気持ちのよい夜、持ち場と道路の間は椰子の木の林だった。椰子の実がいくつか転がっている、と見たのは、鉄条網にとりつく日本兵の頭だった。7人ばかりが銃剣で突撃してきた。レボルバーで応戦したが、カミングは腹を二箇所刺された。弾薬が尽きてきた。シーク兵、アルベル・シンがまだ5箱、弾薬が残っている装甲車を取りに行った。カミングとシンは、装甲車で点在している味方に、西方へ撤退することを告げてまわった。途中で今度はシンが両腿を貫通する銃弾を受けたが、シンは車のコントロールを失わず、かえってスピードを上げ、危地を脱した。1台のプレン軽機運搬車と、もう一つ装甲車が見えた。ポメロイの持ち場だった。ポメロイは、後衛の最後の到着で安心した。カミングはのちにヴィクトリア十字章を授与されたが、このときは意識朦朧としており、ペインターと作戦の協議ができる状態にはなかった。ペインターは、ヒースとパーシバルの厳命のもと、これ以上兵力を損耗しない決断をくだした。
  安全圏の旅団司令部にもどった第2連隊の英人士官のひとりが、ラッパ手を加えた落伍兵の捜索隊を出す提案をした。捜索隊は司令部から6マイルほど隔たった破壊された橋のたもとで何度もラッパを吹いた。応えるものは、小鳥と遠くの飛行機の爆音だけだった。翌日、パタン人士官のメール・カーンとその40人ほどの兵が現われた。かれらは、疲労困憊の揚句、帰着断念の寸前、ラッパの音を聞き息を吹き返した。
 増援軍船団の到着時間まで飛行場を持ちこたえる、という役割を、ペインターは完璧に遂行した。しかし、英軍は、マレーにおける最良のインド大隊の一つを犠牲にした。シーク第2連隊、700のうち、残ったのは220名程度だった。かれらは、国王や、国家のためというより、連隊のために戦った。コタバルで感状をもらった侘美部隊は大損害を被った。シーク部隊の戦傷者は救急列車でシンガポールに搬送され、残ったものは48時間の、クアラルンプール在留民間人が作ったリゾート地、ザ・ギャップでの休養が許された。しかし、民間人は一様に不安に襲われていた。その不安には根拠があった。山下の軍はスリム川の防衛線突破を目論んでいたのである。
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