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2009/10/13

Singapore Burning - 第四部 (つづき)

17 (後方撹乱「ステイ・ビハインド」小隊)
 パーシバルにとって、作戦の継続性という観点からすれば、ウェイベルの着任は必ずしも歓迎すべき事柄ではなかったが、良い知らせがあった。第18師団が寄道ばかりの豪華船の旅を続けている間、ダフ・クーパーの要請によって、一旅団が急遽、モンバサからシンガポールへ直行することになったのである。なお嬉しいことに、別の船団が、50機のハリケーン戦闘機を、熟練パイロットを乗せて送られてくるということだ。このハリケーンの擁護のもと、半島からの撤退作戦を完了し、第18師団と無傷のオーストラリア兵で半島最南端のジョホール州を死守すれば反撃は夢ではない。
 イギリス軍の半島からの撤退作戦には前例がある。1810年、対ナポレオン戦におけるウェリントンのイベリア半島からの撤退である。戦史として英国の将官はみなこれを研究する。当時はイギリスには制海権があったこと、航空戦を考える必要がなかったことなど相異はあるが、ゲリラ戦という言葉がこの戦いで発明されたように、神出鬼没の特殊部隊が大活躍をした。パーシバルも、ステイ・ビハインド(敵の後方に残置)して敵を撹乱する小隊の編成に取りかかった。
 アーガイルのロマンチスト、アンガス・ローズ少佐を隊長とし、ゴードン・ベネットの6大隊から50人のオーストラリア志願兵が選ばれた。全員、ポート・スェッテンハムからボートに乗り日本軍の背後にまわることになった。隊は二つの分隊にわかれ、それぞれ十分な数の自動小銃、ブレン、トムソン軽機関銃、ライフル、火薬、手榴弾を装備した。また身軽に行動するため、全員、バタ社製のホッケー用、ズックの運動靴を履いた。定員外に、6名の主に現地ゴム園経営者の義勇隊員が加わった。マレー語を話すので、住民から日本軍の動向を聞き取る要員である。一行はスンゲイ・トンの河口からランチに分乗して奥地へ向かった。12月27日午前、北へ向かう2台の日本軍救急車が通ったがこれはやり過ごした。将官旗を翻すキャブを先頭にトラック、軽トラックが続いた。ローズの初弾に続き、銃撃戦が始まった。自動車隊はその半分を失った。日本の少将、准将の2名が斃れた筈だが、日本側の発表はなかった。ローズの隊の死傷は皆無だった。
 ローズは、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス生き残りの水兵とともに、海兵隊(ロイヤル・ネイビー)分隊として独自のゲリラ小隊を持つことになった。いささか特異な経歴の、ゴードン・ハイランダースのアイバン・ライオン大尉が副官となった。ライオン大尉は、ジョージ6世の王妃、エリザベスの実家、ボウズ=ライオン家の縁戚につらなる。5年前からマレーで防諜の仕事をしていた。ヨットでインドシナの島めぐりをしていたとき、フランスの流刑の島の総督の娘、ガブリエル・ブービエと知り合い、結婚した。SOE(特別作戦部)のウォーレン大佐がローズに紹介したのである。
 ローズは、ロイヤル・ネイビーがアメリカ製のユーレカ警備艇5隻の引渡しを受けたことで、自らの西海岸における襲撃について大きな希望を抱いた。しかし、船は到着しなかった。シンガポールからポート・スェッテンハムへ白昼の回航途中で日本空軍の攻撃で3隻が沈没し、2隻は座礁した。同じころローズとオーストラリア兵を最初の出撃のとき運んだ船が港で沈められた。ライオンは意気消沈し原隊に戻ろうと考えたが、ウェーレンにとめられた。
 SOEは、もう一つ「ステイ・ビハインド」を組成することを考えた。指揮官は、101特別訓練学校の主任教官だったフレディ・スペンサー・チャップマン少佐である。チャップマンはウォーレンと、クアラルンプールの、ヒース大将の第3インド軍団の司令部に車を駆った。ヒースは好意的で、日本軍は決して不敗ではない、と主張した。最終的に45名の兵士、中国人2名、インド人1名のチームとなり、これを8つの班に分けた。時間の余裕はあまりなかったが、特別訓練学校で1週間訓練できた。ジャングルのなかの「かくれんぼ」戦争で、「将校とその他」と兵員を分類することに意味はない。全員、将校に昇進した。チャップマンは、「お願いだから自分のことを、サー、と呼ぶなよ」と、部下のジョン・サーティンに告げた。14歳のときラッパ手として入営して以来、軍隊一筋に生きてきたサーティンにとって、「サーティン中尉」と呼ばれることはこの上なく難しいことだった。
 隊員はタミール人に変装した。背が高すぎて中国人や、マレー人を装えなかった。マレー共産党は非合法化されていた。1941年7月、独ソ開戦以前、共産党はストライキなどで戦争遂行を妨害していた。12月19日、日本軍のコタバル上陸を見てイギリスはプライドを捨てた。中国人共産党員を訓練し、地方でゲリラ活動をさせることが合意された。共産党リーダーは、「長年われわれは対英国闘争のために組織を作ってきたが、今は英国とともに日本と戦う」と宣言した。
 チャップマンはサーティンとマレー語のわかる義勇兵曹長と偵察に赴いた。エンジンの故障したフェリーを手で漕ぎながらペラク川を渡った。しばらくして突然、日本の自転車部隊が現われた。三々五々並走しながら、かれらはまるで「フットボール見物に出かける」ようにおしゃべりをしていた。日本歩兵の主力の装備は、38式、有坂銃で、1905年から陸軍で採用されているモーゼル銃である。軽機関銃も、南部96型で、30連発、バナナの形をしているので、弾詰まりをときどき起こした。装備の数、性能から見れば英軍が有利であった。
 
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