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2009/10/10

Singapore Burning - 第四部 (つづき)

16 (シンガポールの防禦体制)
 シンガポールの満月は、爆撃機を手控えさせた。最初の爆撃ほど大規模なものはなく、2週間ばかり小康状態が続いた。クリスマス、年末にかけての最悪のニュースは香港の陥落だった。灯火管制のもと、在留英国人はレストラン、クラブ、家庭でクリスマス・イブ、大晦日を過ごした。新年の到来を告げるように、美幌航空隊のネル数機が飛来してセンバワン航空基地周辺の中国人、インド人を殺傷した。海軍基地港湾長のケネス・アトキンソンは、妻帯者用の宿舎の大晦日のパーティに出ていたが、テラスから数マイル先の爆撃と高射砲戦がよく見えた。
 マレー沖海戦に間に合わなかったモーブレイ・ガーデンは、そのとき2万2千フィートの上空にいた。マーシング基地のレーダーからの連絡で日本機出現の警告を受け急上昇した。眼下に敵機の影を認めたがすぐ見失った。時計は丁度真夜中だった。妙な場所で新年を迎えたものだ、ガーデンは思った。
 元日、ダフ・クーパーは議長として戦争委員会を招集した。クーパーは日ごろ、総督のサー・シェントン・トマスが責任者である民間防衛体制に不満を持っていた。クーパー派のストレーツ・タイムズ紙の編集者、ジョージ・シーブリッジはトマス批判の記事を書いていた。委員会では両者は目立った対立を人目に曝さなかったが、クーパーは、レパルスの生き残り、テナントもと艦長に委ねて、チャーチルに手紙を送った。「トマスは、防空壕も塹壕も、鉄兜も防毒マスクも用意していない。準備している難民宿舎も、焼夷弾を受けたらひとたまりもない、」などと誹謗していた。かれはパーシバルの経歴も誤解しており、「かれはもとの職業、学校の教師をしていた方が良い」などとも書いていた。
 クーパーは、初めてオーストラリアに出張し、同国人の活発な気質を気に入っていたが、委員会の代表、頑固なヴィヴィアン・ボーデン上級勲爵士に手こずっていた。ボーデンは、アラン・ブルックと同じようにシンガポールには悲観的で、英空軍の状態には「悲愴なもの」がある、と報告していた。神経の参りかけていたブルック=ポッパムに代わって、サー・ヘンリー・ポーノル中将が発令されたことにクーパーは喜んだ。しかしそれもつかの間、ビルマ防衛のため、インド派遣軍の司令官に最近着任していた、サー・アーチボルド・ウェイベル大将が、42年1月はじめ、連合軍極東総司令官に任命されたため、ポーノルはその参謀長として、ABDA(米英蘭豪)連合軍総司令部に行ってしまった。
 クリスマスから新年にかけて、ワシントンで、チャーチルとルーズベルトが会談しており、その結果、ソ連のリトビノフ、中国の宋子文も交えて署名した「国際連合協定」に基づいて連合軍が発足したのである。ウェイベルの司令部は、ジャワの比較的涼しいバタビアの東、レンバンのグランド・ホテルにおかれた。ウェイベルは58歳、ボーア戦争に従軍、1915年、イープルでは左目を失った。その後のパレスチナの戦い、今次大戦では、北東アフリカでイタリア軍を敗った常勝将軍である。武人であると同時に文人であり、パレスチナで参謀長をつとめたときの上司、アレンビー将軍の伝記とパレスチナ戦記を書いた。また自身、詩人でもあり、かれのまとめたアンソロジーは半世紀の間、版を重ねた。
 サムライの伝統もまた同じく文武の達人でなくてはならない。山下大将も詩を愛した。山下は、新年までに最悪の事態は去った、と思いはじめていた。「成功はまだ問題だが、義務の半分は果たした。わが国の未来は大山の上にある如く安泰である。できるだけ敵を殺さず計画を達したい」と、日記に書いた。
 
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