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2009/10/03

Singapore Burning ー 第四部 (つづき)

14 (北部の激戦、ペナンの放棄)
 オートバイで先頭にいたのはアサイ・ハジメ中尉だった。日本のオートバイ隊は、英国流の伝令要員ではなく、ドイツ式の偵察ないし電撃要員だった。アサイの目的は、橋の破壊の阻止だった。アサイはそのあと戦死を遂げたが、山下の署名により死後褒賞を受けた。
 英軍は道路橋の破壊に一つ成功した。ゴムの木の下で仮眠していた300ばかりのインド兵がその音で起こされ、疫病神がきた、と鳩の群のように飛び起きて逃げ出した。マレー=ライオン自身がピストルでそれを押しとどめた。かれの師団の崩壊は続いたが、もっとましな部隊もあった。
 セルビーとそのグルカ兵は立派に後衛の役割をこなした。日本軍は最初は徒歩だったが、そのあと装備をくくりつけた自転車隊が続いた。山下は、マレーに6千台の自転車を持ち込んだ。ほかに1500台のオートバイがあった、そして英軍が撤退時に破壊しそこなった車輌を、日本軍は「チャーチルの支給品」と呼んで存分に利用した。
 アロールスター鉄橋で自転車部隊の尖兵となったのは独立工兵第15連隊長の横山与助中佐である。かれは50歳にとどく年齢だったが、壊れた一連の橋をまたたく間に修復することで有名となった。マレー州当局の配慮が仇となった。日本軍による橋の破壊を慮って、当局は予め補修用の木材その他を橋の傍に積んでおいたのである。英軍はそれを第五列(スパイ)の仕業と思い込んでいた。
 セルビーのグルカ部隊にはグルンへの撤退命令が出た。田んぼの土手道を腰まで水に漬かりながら、25マイルを睡眠不足のまま、降り注ぐ雨のなかを行軍しなければならなかった。120名の兵隊が、グルンに着いたとき、隊伍としては27名になっていた。グルンは、一番広いところでも幅4マイルの、護りの兵にとっては隘路となる地形で、海岸に向かっては約1300メートルのケダー・ピークが聳えており、パーシバルは「北部マレーの天然要害」の一つと呼んでいた。しかし防衛線は全く築かれておらず、集合したサレー、レスターの兵士は狂気のように塹壕を掘らなければならなかった。
 街にほど近い十字路で激戦が起こった。サレーのスティーブン・アボット中尉は、援軍として現われた第6旅団の司令官、ビリー・レイ准将の反撃に感動した。レイの50名ばかりの部隊は、2台のブレン軽機関銃牽引車が先導した。アボットの中隊も27名中、15名が戦死ないし戦傷を被った。
 佐伯捜索隊を救援した岡部支隊は、すさまじい士気でグルンに侵入し、サレー大隊と第6旅団の司令本部を襲撃し、朝食会議中の将官が殺害された。たまたまレイ准将は、床下の貯蔵庫にかくれて助かった。かれは日本軍が動くのを待って姿を現わした。最初に出会った英軍は、70名ほどのレスター大隊だった。ジョージ・チッピントンとエドガー・ニューランドの二人の中尉に率いられていた。レイにとってこの兵員は、翼下の最後の歩兵だった。かれは部隊主力をジャングルに展開させた。ブレン銃の奪い合いの戦いとなったが、援軍もなく、また敗走に移った。 アボットたちは頑張った。孤立した対戦車砲のメンバーと混成部隊を作り、グルンの街の商店のなかのバリケードで、対戦車砲と、手榴弾で戦車に抵抗した。日本軍は爆撃機との連携プレーでこの最後の防衛線を破った。
 12月13日、フィリップス艦隊の沈没に数分遅れで到着した、バトル・オブ・ブリテンの勇士、ティム・ヴィゴースの出番だった。ヴィゴースは4機のオーストラリアのパイロット操縦のバッファロを引率して北へ向かった。目的はペナン島防禦である。島の首都ジョージ・タウンでは、日本の空爆で、ほかに例を見ないほどの民間人の犠牲が出ていた。日本機は爆弾を投下してから引き返し、機銃掃射を行った。中国人商店街は火に包まれていた。消防署は焼け落ち、警察官は逃亡し、略奪が始まっていた。ペナン上空の雲海から、25機ほどのやや時代遅れの97型陸攻が現われた。ヴィゴースは果敢にその編隊に突っ込んで行ったが、命中弾を受け、パラシュートで脱出した。かれは仮死状態でペナン山脈の山頂に落下した。
 東洋の真珠と呼ばれるペナン島は、ため息の出るほど美しい南の島で、ドロシー・ラムーアの映画の世界と形容されていた。またかねてから強力な一大要塞と喧伝されていたが、実際には何らの工事はされておらず、2基の6インチ砲台と、ジョージ・タウン入り口を警戒するサーチライトがあるだけだった。しかも開戦後、駐留兵は、砲台の警備兵を除いて内陸へ移動させられ、兵舎もがら空きとなっていた。いまやペナンの防衛手段はなくなり、英軍はペナンの放棄を決意した。英国海兵隊(ロイヤル・マリン)のコッキー・ウォーレン大佐とジム・ギャビン少佐が、12名のチームと、大量の爆薬とともにやってきた。かれらは日本軍の利用しそうなものすべてを破壊するつもりで、砲台、電力基地を爆破し、路上に散乱している死体を、伝染病予防のため火葬にした。しかし、錫と石油の在庫を手つかずにしてしまい、放送局、ペナン・ラジオを無傷に残したことが最大のミスとなった。日本軍は占領後早速ここから英語で、「ハローシンガポール?こちらはペナン。わたしたちの爆撃はいかがでしたか?」と放送した。
 英軍は、在留ヨーロッパ人を全員避難させることにした。大東亜共栄圏を標榜し、アジア人解放を叫ぶ日本人だから、アジア人には危険はないだろう、と考えたのだろうが、のちに入城した日本軍の、現地の反日中国人に対する仕打ちには容赦がなかった。避難は、女こども、そして入院中の傷病兵が優先された。山中で、マレー人親子に発見され命が助かったヴィゴースもその一人だった。最初放置されていたことに気がつかなかったアジア人、とくに中産階級は、間もなく白人の逃亡を知り、これは大問題となった。軍部を代表する、戦争委員会の委員長を主宰することとなったダフ・クーパーと、民間人代表の総督、シェントン・トマスとの間に、この問題をめぐって大反目が起こった。総督は、自らの義務は、すべてのマレー人のためにある、と思っており、多くの藩領が入り混じっている複合社会マレーのインフラストラクチャーの破壊は、社会の崩壊につながるものと見ていた。11歳年下のクーパーは、トマスの考えは年寄りの繰言であり、戦争の要請、時代の変化を理解しない意見と反駁した。
 トリビューン紙のペナン版編集長のウィリアム・パターソンと、寝たきりの二人の姉妹を持つ地元の医師1名を除いて、ヨーロッパ人全員はフェリーで避難した。ウォーレンは最後の船に乗った。船のあかりが港に張ってある大きなポスターを照らした。「来るなら来てみよ!準備は万全、わが防衛兵器は強力である!」とあった。港の出口に1隻の逃がしそこなったフェリーがつながれていた。アレクサンダー中尉が船尾の12ポンド砲を発射した。フェリーは沈みはじめた。燃えているジャンクの間を縫って最後の避難船は大海に出て行った。これから真の要塞、シンガポールに向かうのだ。
 
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