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2009/08/12

Singapore Burning - 第二部 (つづき)

9 (形勢悪化)
 不面目ではあるが、航空司令デヴィスは、コタバル基地撤退を決意した。飛行能力あるハドソン機5機は積めるだけの人員と資材を積載し、水浸しの滑走路を飛び立った。残された5機のうち2機は修理すれば飛べるが、オーストラリア人の地上作業兵は銃弾のなかでの作業を嫌がった。デヴィスは、佗美部隊の歩兵の接近によって基地を放棄するのであり、8回の空爆に耐えたことで自らを慰めた。デヴィス自身は60名の兵士と、陸路、南方のクワンタンへ向かった。一方クワンタン基地のRAAFハドソン隊では、一度の空襲で6機が破壊された。基地施設そのものに被害はなかったが、航空機すべてはシンガポールに撤退した。前夜コタバルから飛来したハドソン機によって、日本軍の爆撃情報を伝えられたときから、クワンタンの士気は阻喪していた。コタバルと同様に戦闘機の掩護が不足していること、高射砲も十分でないことから、懸念を持ったのは地上作業兵だけではなかった。また、もともとクワンタンの無線、電話設備は極めてお粗末だった。より北部(西岸)のバターワース基地は、タイ南部から発進してくる数多くのゼロ戦とオスカー(1式戦闘機「隼」)によく抵抗していた。英連邦パイロットは、依然、アジア人が「メッサーシュミット」級の戦闘機を製造できるなどと信じたくなかったが、12月9日、シンゴラ空爆に向かった6機のブレンハイム機のうち3機が撃墜された。しかし、シンゴラに急降下爆撃を行った生粋の航空士官、アーサー・スカーフのような勇敢な軍人もいた。スカーフはゼロ戦の銃弾を受けて傷だらけになったが、アロールスター基地の病院近くの水田へうまく胴体着陸した。妻が臨月まで看護婦として勤めていたその病院で、かれは息を引き取った。
 マレーでは、国内に内応者がいるのではないか、と疑心暗鬼の状態になっていた。たとえば地上からバナナや椰子の葉、あるいは白い布などで、飛行場や司令部などの在り処を頭上の日本機に連絡しているのではないか、など。そのため無実の現地人が捕らえられ、処刑されたりした。日本人自身がマレー人ないし中国人になりすまし、親日派の組織工作、電線切断の破壊工作などを行っていた例もある。
 RAFのパトリック・ヒーナン大尉は、攻撃を誘導した日本のスパイとして逮捕された。日本軍のスパイをした英軍将校がいた、という噂はあったが、確認されたのは半世紀のちのことだった。かれは秘密の軍事法廷で死刑宣告を受け、射殺されたようである。ヒーナンは、しばしば無届で休暇を取り、タイへ遊びに行っていた。紅灯の巷に出入りしているうちにマレー=タイ国境で仕事をしている英国特殊作戦局や情報部などの縄張り争いに巻き込まれた感がある。
 12月9日夕刻までには、コタバル北方のRAF基地は敵の手に落ちようとしていた。日中のキー准将の反攻は失敗に終わり、かれは別の防禦陣への撤退許可を得た。モンスーンのため水かさの増した川、湿地帯そして大雨のなかで、佗美支隊とキー准将、アーサー・カミング中佐の「第2シーク大隊」などとの死闘が続く。オーストラリア地上作業兵の突然の撤退に動転したハイデラバード連隊では、前進命令を出した司令のクライブ・ヘンドリックス中佐が味方の銃弾で射殺されたらしい。一方、コタバル撤退の後衛を務めたクローズ大尉の山砲隊は、キーが、「コタバルの英雄」と呼んだほどの奮戦をした。脱出の突破口を開きあぐねたカミングは、一旦兵を分散させたが、二日後、部隊を糾合させるのに成功した。
 
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