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2009/08/10

Singapore Burning - 第二部 血戦の浜、コタバル

7 (コタバル上陸開始)
 アメリカは日本の外交暗号の解読に成功し、解読機を英国に二つ提供した。英国は、一つをロンドン、もう一つをシンガポールにおいた。解読情報は、アメリカではマジック、イギリスではウルトラと呼ばれた。1941年12月2日、ブルック=ポッパムは、バンコクの日本大使が、タイ政府内の親日派が日本のコタバル上陸を促している、と東京に伝えた情報を受け取った。11月25日、山下奉文はサイゴンを出発し、海南島を経由して、第25軍の司令部要員とともに上陸用輸送船、龍城丸に乗船した。
 12月5日、ブルック=ポッパムはようやくマタドール作戦実施の許可を得たが、日本軍がクラ地峡上陸の明確な意図を持っていることの確認が条件となっていた。もし情報が誤っていたら?・・もしアメリカが中立を守って、イギリスだけが本来回避したい戦争に引き入れられてしまったら?・・折からの悪天候もあって、かれは作戦実施の決断を逡巡した。
 12月6日正午過ぎ、オーストラリアのハドソン機が、軍艦、輸送船70隻ほどの日本船団を発見した。偵察機は燃料が続かず、そのまま船団を見失った。そのあと船団の捜索に赴いたRAF第205飛行中隊のカタリナ飛行艇は未帰還となった。士官ベッデルほか7名の乗員は、英米の対日戦の最初の犠牲者となった。中国戦線で活躍した、日本のキ27戦闘機に撃墜されたのである。午後3時45分、日本艦の1隻が再発見された。甲板上はカーキ色の軍服の兵士でいっぱいだった。別の機が巡洋艦から砲撃を受けたが、とくに被害はなかった。いまや何が起こっているか、はっきりし、全部隊が非常体制に入ったが、パーシバルは、日本船隊の行動は、タイに対するデモンストレーションである可能性もあると、日本との戦争は極力回避するという公式方針にしたがい、何らか行動を取ることは差し控えた。その日夕刻、すでに日本駆逐艦4隻がクラ地峡沖に到着し、半島を南下しているという報告を得た。パーシバルは、マタドールの機会を逸したことを知った。
 8日未明、シンガポールは空襲に見舞われた。灯火管制はまだ徹底されておらず、日本機は悠々と行動した。市民の多くは、これを演習と思っていた。空襲部隊は、サイゴンを離陸した柴田弥五郎少佐率いる海軍の美幌航空隊である。ドックに入渠中のプリンス・オブ・ウェールズも対空砲で応戦したが、あまり効果はなかった。アジア人はこの空襲で、イギリスの力に疑問を持ちはじめた。日本側にも、作戦の大胆さにくらべて軍事的成果はなかった。
 淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸に分乗した菊兵団の佗美浩少将指揮下の6千名の支隊が、コタバル上陸を開始した。風波高く、上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。迎え撃つのは、インド人主体の第3/17ドグラ大隊のキー准将である。キーは、かねて航空基地対岸のケランタン河口中州地点が敵軍上陸の適地とみて、二重の有刺鉄線、地雷、トーチカで防備していた。先遣の和田中隊、100名の兵士は、80名が斃された。至近距離にあるコタバル基地のハドソン機は発着を繰り返し、上陸用舟艇と停泊中の輸送船を攻撃した。そのなかで、急降下爆撃でコントロールを失ったレイトン・ジョーンズ中尉が最初の犠牲となった。別の遭難機のドーウィン副操縦士は気を失って漂流しているところを、日本軍に救助された。

8 (海の203高地)
 コタバル上陸を、日本のジャーナリストの一人は「海の203高地」と形容した。犠牲者の数の相異はあるにしても、日露戦争の203高地の戦いと、激戦の程度、また牽制作戦であったことが共通している。鉄条網と地雷の破壊に、西欧の軍隊はすでにバンガロール爆薬筒(火薬の詰まった金属筒をつなげて遠方から操作する)を使用していたが、日本軍はシャベルで砂地を掘って前進したので損耗を重ねた。船団を護衛する巡洋艦川内ほかが艦砲射撃で掩護を始めた。狙いは正確だった。トーチカ内の守備兵は砂塵、しぶきなどで目をやられた。日本軍が化学兵器を使用していたのかどうか確証はなかった。12月8日の夜明け、戦闘が6時間ほど経過すると、日本兵の相当数が上陸に成功していることが判明した。キー准将は、カミング中佐指揮の、やはり英印の第2/12国境連隊の支援を要請した。午前5時、コタバル航空司令のデヴィスは、一旦ハドソン機の燃料再注入、装備の点検をして以後の空爆の態勢を整えた。クワンタン、アロールスター航空基地のオーストラリア空軍(RAAF)のハドソン機、RAFのブレンハイム機、ヴィルデビースト複葉機、バッファロ戦闘機2機など40機が新たに加わった。デヴィスのまず放った偵察機は、タイのシンゴラ、パタニ港に向かう日本艦隊を発見した。マタドール作戦が消えたので、日本軍はタイに無血上陸することが可能だった。
 南部タイの偵察をより詳細に行うため、ミッチェル中尉操縦のビューフォート偵察機が派遣された。シンゴラ、パタニ飛行場には日本の戦闘機が駐機していた。うち6機がまもなくミッチェルを追ってきた。RAFが初めてゼロ戦に遭遇した歴史的瞬間だった。ゼロ戦の上昇力、操縦機能は噂にたがわず、ミッチェル機は被弾した。ビューフォートは燃えてしまったが、撮影した航空写真は救われてシンガポールに送られた。司令部は日本軍のタイ上陸を確認した。かつてプルフォードの大航空ショーに参加した航空機は今やコタバルに向かった。日本の上陸用舟艇は装甲されており、操船も巧みで空からの攻撃も激戦となった。その猛攻に退却する日本兵も出た。RAFはほとんど無傷だったが、RAAFの対艦船攻撃では犠牲も出た。
 日本がこの12時間の間に、真珠湾ほか世界の7ヶ所で開戦していたことをシンガポールはまだ知らず、一時、コタバルの日本軍が撃退された、というニュースで楽観的になっていた。たしかに日本は甚大な犠牲を払っていたが、パーシバルはそのムードを引き締めた。英国側でこれまで撃墜された4機はすべて対空砲火の犠牲だったが、12月8日の昼前、コタバル上空では空中戦がはじまった。日本側には少数のゼロ戦、暗号名オスカー(一式戦闘機「隼」)、ネイト(固定脚の旧式戦闘機、キ27)だった。日本は、コタバル、クワンタンの半島東部の飛行場のほか、西部のタイ国境に接するアロールスターとサンゲイ・パタニ、バターワース、ペナン島の計6ヶ所の航空基地を攻撃し、続く48時間、爆撃、銃撃を浴びせた。北部では、英軍の手持ち110機が半分以下の50機になってしまった。また、整備兵の手違いのため、発進機に銃弾が装備されていないことでパイロットといざこざがあったり、味方のインド国内軍(ハイデラバード連隊)の部隊を日本軍と見誤って撤退命令が出されたり、混乱がみられた。シンガポールからハドソン航空中隊をコタバル、クワンタンに転出させ、航続距離を延ばして日本の攻撃を水際で防ぐ、という戦略はすでに遅きに失していた。
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