--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/08/06

Singapore Burning - 第一部 (つづき)

3 (兵力の増強)
 1940年11月、サー・ロバート・ブルック=ポッパム空軍大将がマレー、ビルマ、香港、ボルネオにおける陸・空軍の総司令官としてシンガポールに着任した。史上はじめて英空軍(RAF)の将官が、数千人の兵士の指揮を執ることとなった。ブルック=ポッパムは陸軍に入り、ボーア戦争に参加した。ライト兄弟が空を飛んでまもなく飛行機操縦の訓練を受けた第一世代の航空士官で、RAF創設者の一人である。
 1941年2月、大規模なオーストラリア帝国陸軍(AIF)兵士がシンガポールに到着した。第8師団2個旅団のうちの第22旅団で、初めての海外派遣である。埠頭には総督のサー・トマス・シェントン夫妻が出迎え、マンチェスター連隊の軍楽隊が「ワルツイング・マチルダ」を演奏した。師団は全員志願兵で、第8師団は、志願兵4個師団ののうちの一つである。3師団はすべて中東戦線に投入されていた。第8師団長は、第一次大戦のガリポリ上陸、フランダース戦線で、殊勲賞と数多くの感状を手にした戦士、ゴードン・ベネット少将である。ベネットは、民兵出身者として最高位に昇りつめ、日ごろ、陸軍大学出身者で、実戦を知らずに参謀本部で指図するだけで勲章を貰う職業軍人たちを厳しく批判していた。師団長への道は遠かったが、ベネット嫌いの上司二人が飛行機事故で死亡したことでお鉢がまわってきたのである。師団は、本来、ほかの3師団と同様、中東(エジプト)行きが予定されており、インド人部隊の転属待ちで一時的にマレーへ駐屯することになっていた。チャーチルは、日本がオーストラリアそのものの脅威になるとは思っていなかった。しかし、オーストラリアでは労働党が力を増してきており、自国軍隊は、「黄禍」を水際で撃退するため、効果を考えて展開されるべきである、という声が強まった。オーストラリア兵は総じて身体も大きく、肉もたくさん食べ、スポーツ好きで陽気だが粗野なところがある。ベネット自身、オーストラリア兵一人は、日本兵10人に匹敵する、と豪語していた。北アフリカ戦線ではロンメルの軍団に痛打を浴びせ、「帝国の突撃隊」といった評価を得ていた。シンガポールでもおおむね好感を以て迎えられた。
 インドシナのフランス軍は、タイと国境で小競り合いを起こし、日本がこれを調停した。デクーは日本軍の南部仏印進駐を拒否できず、日本は首都サイゴン周辺に航空基地を設けた。
 イギリスはギリシャ、クレタ島の東地中海で、イタリア軍の救援に向かったドイツ軍に苦労させられていた。ドイツ空軍の急降下爆撃は英海軍に打撃を与え、ここでも近代戦における空軍の優位が証明された。北アフリカで盛名を挙げたオーストラリアの第6師団も、ギリシャとクレタ島では甚大な被害を蒙った。
 シンガポールでは、スワミナジャン女医が、英軍の悲劇を喜んでいた。インドでは、イギリスの気力も衰え、チャンドラ・ボースを監獄より解放し、自宅軟禁の措置とした。ボースは、ラジオ・ベルリンを通じて、ロンメルの捕虜のインド兵による「インド連隊」の創設を宣言し、ヒトラーの新秩序を賞賛した。ベネット師団の中東行きは中止となり、逆にオーストラリア第27旅団が増強されることになった。ベネット麾下の兵力は5千名となった。
 アメリカは中国援助を増大させていた。日本政府は、米英中蘭のABCD網に包囲されつつあることに不満を訴えている、と駐日英国大使クレーギーは本省に報告した。

4 (日本はどうしていたか?) 
 アメリカの石油禁輸処置で、日本では木炭自動車が走ることになった。1940年の東京オリンピック用のスタディアムは解体され、その鋼材は長崎の造船所に送られた。日本は、反西欧、復古主義を標榜する半世紀後のイスラム世界に似たムードに包まれてきた。日露戦争の勝利は、西欧の技術を吸収した和魂洋才の成果で、これまで日本は、美術、絵画、文学の分野でも急速に西欧化していた。キリスト教も普及していた。しかし、西欧、とくに英米は、日本人を人種的に平等なものとは認めず、植民地とした貧しい南アジアの人々と大きく異なっているものとはみなかった。
 1900年頃から、アメリカは、中国人にくらべて日本人の移民を奨励したが、1920年、カリフォルニア人口の2%を占める日本人が、同州の農地の10%を支配するに至った。ここにきて対日警戒信号がともり、ハーストの新聞は「黄禍」を書き立てた。1924年、排日移民法が成立した。日本国内では国家主義が高まり、特別高等警察(特高)や憲兵が危険思想の統制を行いはじめた。しかし日本では、ドイツやソ連の如く膨大な政治犯が捕らえられたわけではなく、ゲシュタポ、NKVD(スターリンの秘密警察)のような機関があったわけではない。アジアの欧米植民地を、日本の指導による大東亜共栄権におきかえるという大義については、日本の左翼の一部も賛同していた。憧れのアメリカ文明も、ジャズ・エイジの堕落の側面で語られ、青少年は武道に熱中した。野球はもっとも大衆に好まれたが、英語の用語は禁止された。1937年、日中紛争勃発以来、日本人は戦時の意識を持ちはじめた。南京陥落では提灯行列が行われ、人々は芝公園にできた肉弾三勇士の記念碑を訪れた。
 かつてワシントンの日本大使館付駐在武官だった山本五十六提督が、対米英戦に反対していたことはよく知られている。裕仁天皇自身も戦争に反対、ないし運命に委ねる交錯した心理状態だった。天皇は君臨していたが、統治はしていなかった。海軍もおおむね開戦には反対だった。閣僚のなかで最強硬だったのは東条英機陸軍大将である。かれは仏印南部への派兵を主張して危機を招いた。戦争の瀬戸際に立たされたが、開戦するとすればどういう戦争をするのか?1941年6月、ソ連に侵入したヒトラーは、日本に対しシベリア攻撃を呼びかけた。しかし日本は、その前にソ連と中立条約を結んでいた。条約締結当事者の松岡洋右外相は、スターリンから、「われわれはアジア人同士だ、日本は南を目指せ」と肩を叩かれていた。ノモンハンで赤軍に痛めつけられた日本は、ソ連との戦争は避け、体力の衰えたオランダ領スマトラの石油、英領マレーのゴムを狙うことにした。台湾にある陸軍研究所では、すでに南方攻略の研究が進んでいた。九州と海南島でマレーの上陸演習が行われることになった。南方では中国のように馬匹はうまく使えず、自動車、自転車を活用する方針となった。参謀の辻政信陸軍大佐は、「これだけ読めば戦(いくさ)は勝てる」という簡便なパンフレットを刊行し、兵士に読ませた。戦争の大義名分の解説とともに、現地事情、衛生問題などに実用的なガイドとなった。
 1941年9月6日、御前会議が開かれ、10月上旬まで外交交渉が不調ならば、米英と開戦する、と正式決定した。ささやかな会議への寄与として、天皇は、明治天皇の御製を引用した。
 「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」
 
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
Comment

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。