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2009/08/04

Singapore Burning - 宝 島

宝 島
  
 マレー半島を感嘆符に見立てると、シンガポールは最下部の点(ドット)にあたり、その位置は赤道から85マイルほど北にある。ジョホールのサルタンからその名前を取った水道を隔てて、アジア大陸の南端から切り離されている。その名は、マレー語で「獅子の島」という意味を持つ。50ばかりの島々から成り、面積240平方マイルほどで、英海軍基地のあるポーツマスの南のワイト島よりいささか小さい程度である。南シナ海とインド洋を結ぶ水門であり、貿易には最適の場所にある。16世紀、ポルトガルの商人は、ここで、インド、中国、カンボジア、シャムから来る船舶を見ている。これらの船は、しばしばマングローブの沼地に潜む海賊の餌食にもなった。しかし、「砲艦の時代」とよばれる近代史にあって、シンガポールは、戦争の目的物となったことはほとんどない。
 1819年1月、サー・トマス・ラッフルズがここに寄港した。かれは、東インド会社で功績を挙げ、スマトラでの英国の拠点、ベンクーレンの準知事に任命されていた。ナポレオン戦争前後、オランダがそのほとんどを支配していたマレー半島で、イギリス(東インド会社)は、ペナンを藩王から獲得し、メラカ(マラッカ)の貿易権をオランダから譲渡されていたが、メラカは沈泥が堆積し、大型船舶は沖合いに停泊しなければならなかった。
 ワーテルローでのナポレオンの敗北後4年ほど経って、オランダは東南アジアで日の出の勢いにあった。ラッフルズは小艦隊を率いて調査航海に乗り出した。かれへの特命は、マレー半島の先で、会社用語の「仕事場」、貿易拠点の適地を設けることだった。当時のシンガポールは、ときどき海賊行為にも手を出すこともあっただろうマレー人の漁師、500人ばかりが住む小漁村だった。力ずくで占領することは容易だったが、オランダを刺激するわけにも行かない、「目的は領土ではなく、貿易である」とするラッフルズは、ここに仕事場をかまえる許可を、土地の領主(ジョホールのサルタンの臣下)から入手した。ラッフルズは、かつて、フランス、オランダ連合軍を破って、ジャワ島の占拠に主役を演じたこともあり、軍事力行使の方法を熟知していた。かれはシンガポールに砲塔と要塞を築きたかった。しかしそのために割く時間の余裕もなく、兵力の増強も必要だったので、一旦駐屯地のあるペナンに帰った。
 1822年10月、かれがシンガポールに戻ってきたとき、人口は1万人になっていた。しかし、後事を託した、マドラス工兵隊のウィリアム・ファルカール少佐は、ラッフルズの命じた街づくり、砦の建設に手抜きをしていた。中国の阿片貿易に従事している英国富商の在庫を守る必要があったのである。ファルカールは首になった。ラッフルズは、ここに「諸国の艦船へ門戸を開く自由港」を開設するためのさまざまな仕事に専心した。子どもたちを疫病で亡くしたり、乗船の火災で、自ら編纂したインドネシア語の辞書や、記録した博物の資料を焼失するなどの不幸にも襲われた。1824年帰国。その頃、英国とオランダの間で、シンガポールとベンクーレンの交換が正式に協定された。1826年、ラッフルズは脳腫瘍で死去した。45歳だった。かれはロンドン動物園の設立に奔走し、初代園長に任命されていた。シンガポールが「東方の中心、国の誇りになる」、との予言を残した。
 シンガポールの発展には時間がかかった。中国貿易での東インド会社の独占的地位は失われつつあったし、香港、またマラッカ海峡対岸のオランダ、新しくアジアに進出したフランスの仏領インドシナと競争しなければならなかった。1869年、スエズ運河開通と、蒸気船の発達によって、マレー産の茶と錫のヨーロッパへの販売が容易になってきた。半世紀後、自動車産業の勃興により、輸出の主力はゴムに取って代わられた。ゴムは、ブラジル原産の種苗が、キュー・ガーデン(英国王立植物園)を経由して輸入され、シンガポール植物園で育てられたのである。
 1914年までには、英国はマレー半島のすべてを支配していた。シンガポールとペナンの海峡租界以外はマレー州となり、形式的には各地の藩王が主権者となっていたが、慣習法とイスラム法の解釈を除いては、実質的に英国の政治顧問が統治した。ゴム農園、鉱山の拡大とともに中国南部からの移民が激増し、シンガポールでは、中国人がマレー人を数の上で凌駕した。
 英国は、アジアの新興国、日本と手を結び、1902年、日英同盟を締結した。日本はロシアを警戒し、イギリスはドイツを意識していた。1904年2月、日本は満洲をめぐってロシアと戦端を開き、1906年、日本が勝利した。日露戦争において、イギリス海軍は、ロシアのバルチック艦隊が日本遠征の冒頭に起こした英国漁船誤爆事件で、日本側に立って問題を解決し、その協力姿勢を見せた。第一次大戦でも日英同盟は英国に有利に作用した。日本艦隊は、太平洋でドイツ艦隊に打撃を加え、その植民地の島々を制圧した。青島攻略では、英陸軍インド人部隊の支援を得た。
 もう一つ特筆すべき日本の貢献がある。
 シンガポールのイギリス駐屯軍は、欧州、中東戦線に動員され、残っていたのは、居留白人の義勇隊と、イスラム教徒主体のインド人で組成する、第5現地歩兵連隊だけだった。連隊の任務の一つに、座礁させたドイツ軽巡洋艦、エムデンの水兵を含む、300人ほどのドイツ兵捕虜の監視があった。ドイツ人は、インド兵が、ドイツの友邦、オスマン・トルコに好感を抱いていることに気がついた。1915年2月15日、中国人の旧正月の祭日、連隊はパレードを行ったが、そのときどこからともなく、連隊が行き先不明の戦場に移動する、という噂が広まった。相手がトルコ軍であれば、トルコの太守(カリフ)はマホメットの後継者であるので、インド軍は戦うわけには行かない。ここで、連隊の半数が反乱に踏み切った。反乱者は、まず捕虜収容所を解放した。騒擾は規模を大きくし、総督府は連合軍に救援を要請した。これに応えたのが、巡洋艦、音羽、対馬を派遣した日本である。ほかに、フランス、ロシアも協力して反乱は鎮圧された。
 大戦後、東南アジアにおける英国の主な脅威は日本となった。英国は、香港の南に軍事基地をかまえる必要にせまられ、それにはシンガポールをおいてほかに適地はなかった。「シンガポール要塞」が、日英同盟に取って代わることとなった。しかし、戦時中、海軍予算を野放図に費った海相、チャーチルも戦後は財布の紐を絞った。1926年、海軍本部の要請もあって、ボールドウィン内閣は極東基地建設に踏み切ったが、ジャン・スマッツは、北方海域で戦争が起きないかぎり、日本がシンガポールに攻撃を仕かけることはあり得ない、また攻撃されたときはどのみち、本国からの救援は間に合わないので無意味である、とこれに反対した。
 ケッペル港に軍港をかまえることは商業発展を阻害する、またジョホール海峡沿岸では、コーズウェイ(土手道、半島との連絡道路)建設との関連で航行不能になる、などの理由で、軍港は、結局、泥沼の整備工事が必要なセンバワンに建設されることになった。
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