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2009/05/17

Alliance - 2    (つづき)

Ⅱ    四人目の男
 ルーズベルトとチャーチルの最初のサミットのお膳立てをしたのハリー・ホプキンスである。かれは3年というものホワイトハウスに住み込んでいた。そのレゾン・デートルは「大統領の胸のうちを理解する、感じる、予想する、しばしば推測する‐そして通常正しく推測する」という点にあった。かれは「同盟」の修理工として、風通しをよくするために、また不統一きわまるルーズベルトの官僚たちに秩序を持ち込むべく休みなしに働いた。しかし1937年に胃の三分の二を摘出しており、常に病気がちだった。
 1940年末から翌年にかけて、チャーチルの救援要請に対して、ルーズベルトは個人的特使としてホプキンスを英国に派遣した。ホプキンスはチャーチルとの信頼関係を築くことに成功した。7月、ホプキンスの二回目の訪問時には、閣議の席での同席も許された。7月19日、チェカーズのチャーチルの別荘に誘われて懇談中に、ソ連大使のイワン・マイスキーがチャーチルを訪ねてきた。マイスキーは、スターリンからの、イギリスのフランス上陸を促す緊急メッセージを携えていた。チャーチルはそビエトの苦境に深い同情を示しながらも、いまは実際的ではない、と断った。チャーチルは応接室にマイスキーを案内し、ホプキンスを紹介した。
 チェカーズで会ったお客の重要性を認識したマイスキーは、次の週の昼食のアポイントを取った。この機会に第二戦線確立の協議に持って行くつもりだった。ホプキンスは注意深くマイスキーの話を聞き、「ソ連に対する明白な同情」を示した。「合衆国は目下交戦国ではない、したがって第二戦線についてあなたがたを助けることはできないが、物資の供給は別問題です。何が良いのか教えてください」、とホプキンスは言った。マイスキーは、「あなたご自身でモスクワに来られませんか?そしてソ連政府から直接お聞きになったら?」と応えた。
 ルーズベルトはかれのモスクワ行きを承認した。ホプキンスはカタリナ水上機に乗って、アルハンゲリスク経由、モスクワに向かった。ちょうどその頃、百万の赤軍がキエフとスモレンスクで釘付けとなっていた。ミンスクは30万の犠牲を払った上陥落した。ドイツ軍はレニングラードに進軍していた。機中から広大な森林を見下ろしながら、ホプキンスは、常勝のドイツ国防軍や空軍といえどもこの巨大な国を支配することはできまい、という印象を深くした。
 クレムリンでかれはスターリンと会った。あとはモロトフと通訳がいるだけだった。ナチスは国家間の最小の倫理基準を破り、「現代社会の反動勢力」となった、この点で米ソの見方は一致している、とスターリンは発言した。スターリンの話し方は簡潔で、ワシントンとロンドンの議論と違って、会話がビジネスライクに進むことに感心した。ホプキンスは、できることは何でもやるつもりです、と述べた。合衆国が参戦するか、という微妙な問題について、スターリンは、今後ホプキンスをチャネルとすることにした。ホプキンスは、質問に対し、ヒトラーがアメリカの利権をどれだけ侵害するかによる、と答えた。ただし、日本の問題を別にすれば・・。かれはスターリンが東京と敵対関係にならぬよう警戒していることを知っていた。しかし、ヒトラーの侵入を予言した大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲが、スターリンに、東京はソ連を攻撃するつもりがない、と伝えていたことまでは知らなかった。
 疲れきったホプキンスは、スカパ・フロー基地のプリンス・オブ・ウェールズに戻り、18時間眠り続けた。船は大西洋横断の旅に出た。乗っているチャーチルはスターリンのお土産のキャビアを大いに喜んだ。
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