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2009/07/15

Unnecessary War -第12章 身の毛のよだつ収穫

 戦争が始まったら・・・勝者も敗者も一様に、人間の悲惨と辛苦の、身の毛のよだつ収穫の落穂を拾うことになるのだ。
 -ネビル・チェンバレン   1939年7月31日

  1940年6月18日、チャーチルは、かれの演説のうち、有名な一つを行った。「英帝国および英連邦1000年の計のため、頑張り抜かねばならない」。
第一次大戦、第二次大戦の主要国の死者
                 第一次       第二次
ロシア(ソ連)         1.8 百万    10.7 百万
ドイツ              2.0         5.5
フランス            1.375       2.12
ハプスブルグ帝国      1.1          -
英国、自治領         0.921       0.491
イタリア            0.460       0.301
米国              0.116       0.417
第一次大戦の数字には、数百万のインフルエンザによる死者を含まない。
第二次大戦の数字には、ヒトラー、スターリンの攻撃による、東欧、中欧、バルト諸国の死者を含まない。

勝者と敗者
 ダンケルク撤退のあと、フランスの降伏が切迫した1940年6月10日、ムソリーニは勝利の配当を得るべく参戦した。秋、イタリア軍は、エジプトとギリシャに侵入したが、すぐに泥沼にはまった。ヒトラーは救援のため、バルカン半島と北アフリカに進出した。1941年、ヨーロッパの西はピレネーまで、南はクレタ島まで、ヒトラーに占領された。これはしかしヒトラーの基本計画に基づくものではなく、ヒトラーの全く望まなかった英国との戦争、同様に、ヒトラーの反対した、ムソリーニのエジプト侵入の結果だった。
 1941年夏、ヒトラー軍はソ連の奥深く入り込み、1918年11月11日にカイザーの軍が進んだところまで占領した。そのあたりがピークだった。ソ連侵入の6ヶ月後、東方でヒトラーは立ち止まり、アメリカが宣戦布告するにおよんでその運命が定まった。

アメリカ 戦争の最後の参加者、合衆国は、空軍、海軍力でだれも及ばぬ地上最強軍として現われた。人口比でいえば、40万の死者と、もっとも犠牲が少なかった。真珠湾とアリューシャン列島を除いて、領土は侵されていない。アメリカは、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、フィリピンを解放した。ミッドウェー、ノルマンディ、硫黄島、バルジの戦いは伝説となった。アメリカ人にとって、第二次大戦は、「善の戦い」であり、西欧の指導権は英仏からアメリカに移り、20世紀はアメリカの世紀となった。
ソ連 ロシアは数百万の兵士と民間人を失い、大破壊を被ったが、スターリンは、史上最強のツアーリとして現われ出た。赤軍は、ベルリン、ウィーン、プラハを治め、スターリンに忠誠な共産党は、パリとローマで力を得た。スターリンは、1949年、戦争中はアメリカの同盟国であった中国を毛沢東の軍隊に屈服させた。同じ年、米国から盗んだ技術で、ソ連の科学者は原爆を爆発させた。ヨーロッパのほとんどの国と国民にとって、戦争は、勝利というより災厄だった。
英国 1942年のエル・アラメインの戦いまで、イギリスは、ノルウェー、フランス、ギリシャ、クレタ、リビアでの対独戦にすべて敗れた。40万を失い、勝利は引き合わず、二度と大国に戻れなくなった。チャーチルは、帝国の保持、社会主義を追い詰める、ヨーロッパからの敵対勢力の排除、という三つの大義に献身した。1945年7月、この三つすべてを失い、かれが勝利に導いた国民から解任された。
 1946年、英帝国の崩壊が始まった。1947年には、帝国の王冠、インドが離れた。イギリス開戦の原因だったポーランドは、他の九つのキリスト教国とアルバニアとともに、今はスターリンの死守するところとなった。国民はマーシャル援助で食いつないだ。1956年、スエズ危機では、ナセル打倒にエジプトに入った英国に、アイゼンハワーが出て行くよう指示をした。
フランス フランスは4年間占領された。ヴィシー時代は幅広いコラボラシオン(協力)の時代だった。インドシナは日本軍に侵入された。戦争が終わったとき、シリアとレバノンは去っていた。1954年、ディエンビエンフーで敗れ、ベトナムから出て行った。FALNのテロで、アルジェリアからも撤退した。
デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダ ナチの4年の支配に耐えた。オランダ領東インドは、1941年、日本に降った。その後、スカルノという名の、日本軍協力者が管財人となった。
ポーランド 戦争保証を信用したため、1939年9月、ナチスとソビエトの虐殺に抵抗し、数十万が死んだ。将校団が、カチンの森で、スターリンのNKVDに惨殺された。5年間ナチに占領され、トレブリンカ、アウシュビッツなどの恐怖の現場となった。1944年のワルシャワ蜂起で、赤軍はポーランド国内軍を支援することなく、結局、国防軍とSSによって全滅させられた。
ドイツ 戦争は占領されることで終わった。連合軍の絨毯爆撃と赤軍の報復で荒廃しつくし、数百万の民間人が殺された。1300から1500万人が父祖の地を追われ、その過程で、200万が虐殺、凌辱された。共産化した、中欧、東欧諸国では、少数派となったドイツ人が「民族浄化」の対象となり、現在では、戦前より民族的にはずっと純潔となっている。
イタリア 英米軍の爆撃、侵入を受けた。ムソリーニは共産主義パルティザンに処刑された。戦争が終わる前に、ムソリーニの新ローマ帝国は滅亡した。
リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト諸国  1940年6月のヒトラーとの協定からの戦利品としてスターリンの手中に収められた。三小国の指導的文化人、政治家、宗教家、知識人は、収容所群島の労働と死のキャンプのなかで、永久に姿を消した。
チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニア、東ドイツ 国民は、チャーチルとルーズベルトによってスターリンに割譲された、新ソビエト帝国の臣民として終戦を迎えた。その後半世紀、秘密警察の支配下で暴虐を被った。

ヒトラーのポグロム
 ヨーロッパのユダヤ人たちに対して犯した、表現し得べくもない犯罪の人道上の全責任はヒトラーとその仲間にある。かれらはその責任を取らされた。しかしホロコーストは不可避だったのだろうか?ユダヤ人排斥は、すでにマイン・カンプに記述があり、1935年、ニュルンベルグ法でユダヤ人の差別化がされることになった。ミュンヘンの6週間後、水晶の夜事件が起こった。それ以前からドイツのユダヤ人はその半数ほどが出国していたが、事件のあと、残ったもののうち半分くらいが逃げ出した。幸いなことに、1939年9月1日以前は、カーテンは閉ざされていなかった。1939年1月、政権掌握6周年の記念演説で、ヒトラーは、国際ユダヤの金融資本が世界戦争の脅威を煽っている、と非難した。
 しかし、ヨーロッパ・ユダヤ人の強制移住と絶滅が始まったのは、1941年6月22日、独ソ戦勃発以降のことである。1942年2月、悪名高いワンゼー会議のあと、3月7日、ゲッベルスの日記に初めて「最終的解決」という言葉が記されている。このような経過をたどると、ユダヤ人の殲滅は、戦争目的というものではなく、戦争のおぞましい一つの結果だった。チャーチルも、自著「世界の危機」(ザ・ワールド・クライシス)のなかで、「恐ろしいイフが堆積していた」と綴っている。イギリスの戦争保証がなければ対独宣戦はない、ヒトラーはフランスを攻めない、とすると、ムソリーニのフランスないしギリシャ侵入はない、対英宣戦もない。西側で戦争がなければ、ヨーロッパのユダヤ人は、ドイツ=ポーランド戦争または独ソ戦があっても、生き残っていただろう。
 大戦が始まったために、ヒトラーは、ヨーロッパとバルカンのユダヤ人を人質に取ることができた。しかし、連合軍もソビエトも、ヒトラーのこの人質たちに潜む運命を問題にすることはなかった。1943年、カサブランカ会談で、チャーチルとルーズベルトは、戦争目的を「無条件降伏」である、と言明し、1944年、ケベックでは、ドイツの全工業力を抹殺するモーゲンソー・プランを承認した。ドイツ人にとって降伏は生存の放棄を意味した。かれらの人質の絶滅は、自らの絶滅の代価をあがなうものとなったのである。

あり得たことども
  振り返ってみれば、ポーランド人には、英仏の保証には実力が伴っていなかった、と真実を告げるべきだったろうか?そしてベックも、35万のドイツ人の住むダンチッヒの固執が戦争に価するか、と考えただろうか?ダンチッヒは戦争に価したか?ポーランドは?答はノー、ダンチッヒ、とかポーランドのために戦ってはならなかった。それは人類史上、例を見ない悪魔、ヒトラーを倒すための戦いであった。このような怪物 が世界を支配することは、数千万の生命を含む、あらゆる犠牲を払って阻止しなければならない。善の戦争は、ナチズム、ファシズムに対する十字軍だったのだ。イギリスは帝国を失ったとしても、それは至高の大義に殉ずることなのだ。
 ニーアル・ファーがソンは書いている。「1940年、チャーチルが首相になったとき、英国の対抗馬は、天皇裕仁の大東亜共栄圏であり、ヒトラーの千年帝国であり、ムソリーニの新ローマ帝国であった。・・・これら帝国との死闘が英帝国の崩壊につながった。これら抑圧的帝国が存続することを考えれば、どんなに犠牲を払ったとしても、それは正しいことをしたのだ」。
 しかし、イギリスは好んで殉教者を演じたのか?それともそれは膨大な規模の、しくじりだったのか?ムソリーニについては、英国は多年、ドゥーチェに言い寄り、エチオピア、リビア、エリトリアの権利を認めていた。一時、ヒトラーのフランス侵略に対抗することで一致していた。宣戦布告をしたのもイタリア側からだった。日本は過去、同盟国だった。1930年代、日本の満洲侵入で、ドイツ、日本の二正面の脅威を避ける意味で、チェンバレンは、日本との和解を模索した。攻撃は日本が最初だった。そしてアメリカが日本を潰した。日本帝国の満洲、中国、北朝鮮、インドシナは、スターリンとその相続人の帝国に組み込まれた。毛沢東、金日成、ホーチミン、ポルポトの支配におかれ、かれらによる犠牲者数は帝国主義日本の犠牲者をはるかに上回っている。
 イギリスは不可欠ではあったが、脇役だった。ヴェアマハト(国防軍)を打倒したのは赤軍であり、フランスのDデイは、ヒトラーのロシア侵入の3年後のことだった。連合軍のなかで、英軍の役割は20-25%と推定されている。
 イギリスが対独宣戦をせず、ドイツがダンチッヒの返還を受けたとしても、1940年にそうしたように、ヒトラーはフランスを攻め、ユーゴスラビア、ギリシャ、北アフリカに侵入したかも知れない。しかし、それには理由があっただろうか?英仏がポーランドに保証を与えず、軍備増強して、ヒトラーの動きを静観していたとしても、何か失うものがあったのだろうか?ヒトラーがスターリンのソ連を滅ぼしたあと、西方へ矛先を向けたとして、ユダヤ人、ジプシーたち、スラブ人、キリスト教徒たちに、もっと悪い結果をもたらしただろうか?
 勝利の3年後、チャーチルは、「数億の民の努力と犠牲による大義の勝利のあとも、平和と安全の道をわれわれは見つけていない。より邪悪な危険にさらされている」、と書いている。({The Gathering Storm」)「より邪悪な危険」とはスターリニズムのことで、スターリンの大量殺戮の犠牲者はヒトラーのそれを超えている。ヒトラーの世界支配は挫いた。その勝利はまことに高いものについた。しかし、ヒトラーを止めるには、戦争をするよりほかの手段はなかったのか。われわれはその問いかけをする必要がある。ヒトラーは「世界を支配するため」、どこの時点で英帝国を破壊しようと決意したのか?ドイツのような中規模の大きさと人口の国が、どうすれば世界を征服できるのか?ヒトラーの本当の野心はどこにあったのだろうか?


 
 
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