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2009/07/13

Unnecessary War -第11章 「不必要な戦争」

  戦争では何も得られない、何も救われない、何も終わらせない・・・
  戦争には勝者はいない、すべてが敗者なのだ。
  -ネビル・チェンバレン   1939

  わたしの唯一の懸念は、どこかの悪(わる)が、平和会議を提案してくることだ。
  -アドルフ・ヒトラー   1939
  


  ポーランドを救う道に望みがあるとすれば、それは赤軍の協力である。こうして、1919年、チャーチルが「ペスト菌」と罵ったボルシェビズムに対する、6ヶ月にわたる求愛が始まった。しかしチェンバレンは、次のような問題に直面することとなった。
ダンチッヒと回廊は、ドイツにとって、フランスのアルザス、ロレーヌであり、イギリスは何らここに決定的利害を持っていない。ヒトラーが政権を取った直後、1933年4月、チャーチルも議会で、回廊問題の解決を主張している。チェンバレン自身、ロシアとスターリンに深い不信感を持っている。ロシアとドイツの間に位置する国々は、ドイツ軍より、赤軍を恐れていた。モスクワは連合の条件として、バルト三国の保護国化と、ドイツ軍と戦うためにポーランドとルーマニアに侵入することを求めた。これに同意するヨーロッパの国はない。ヒトラーがポーランドを攻撃したとき、モスクワが参戦するのであれば、同様に、ソビエトがドイツに攻撃を受けた場合、英国が参戦しなければならない。スターリンは、完全な双方向協定を要求した。
 ズデーテンランドでは、少なくとも、住民がドイツ復帰を望んだ。しかし、バルト諸国の数百万は、テロ体制に組み込まれることとなる。条件が同意されたとき、ソ連の参戦は疑わしいにもかかわらず、ヒトラーが狙っている周辺弱小国を侵略することの正当性をスターリンに与えてしまう。 ボルシェビズムは、キリスト教世界、西側文明の破壊者として登場してきた。スターリンのために一人でも英国兵が死ねるだろうか?ここに大きなジレンマがあった。
 ヒトラー=スターリン協定の5ヶ月前、チャーチルは、スターリンのロシアは東欧諸国の頼りになる存在である、ソ連の平和の大義に対する真摯な態度と、ナチの黒海への進撃に抵抗する意思は、ベルリンの狂気に脅威を受けている東方諸国を激励する感情と共有されている、と自国に確証した。

スターリンの求愛 
 スターリンの獲得競争はヒトラーが勝った。一皮向けば、独ソ二国は国家やイデオロギーのためなら平気で国民を裏切る、似たもの同士だった。リッベントロップ=モロトフ協定で、ヒトラーはスターリンに、フィンランド、エストニア、ラトビア、東ポーランド、ベッサラビア、のちにリトアニア、北ブコビナを譲り、スターリンはヒトラーに、食糧と原料を売ることになった。英仏は、モロトフとヴォロシーロフ相手に数ヶ月も交渉していた。リッベントロップとモロトフは、24時間で協定を仕上げた。ラトビアの港について、小さな小競り合いがあった程度だった。
 1939年8月23日のヒトラー=スターリン協定は世界を揺るがせた。ポーランドは包囲された。イギリスはいまさらポーランドを支援する意味がない。ヒトラーはイギリスが降りると思っていた。「ヤツらは虫けらだ、・・ミュンヘンで見たよ」、ヒトラーは言った。驚いたことに、チェンバレンは、対抗して、ベックと相互安全保障条約を結んだ。ヒトラーは8月26日に予定していたポーランド攻撃を、前日、延期した。ヒトラーはスターリンとの協定について、ムソリーニには無断だった。ムソリーニは鋼鉄の条約からの脱退を宣言した。イタリア人は、1914年と同じことをしようとしている、ヒトラーはいきまいた。

平和の最後の週
 歴史上最大の流血をみた戦争へのカウントダウンが始まった。イギリスとの戦争を何とかして回避したいヒトラーのダンチッヒの要請を、満たす方法をチェンバレンとハリファックスは模索していた。8月30日、リッベントロップの、ポーランド全権を1名、24時間以内にベルリンに派遣し、ダンチッヒ返還について協議すること、という最終要請を受諾するよう、イギリスはポーランドに圧力をかけた。返事は「ノー!」だった。
 ポーランドはチェコの二の舞を警戒したのだ。多民族国家のチェコは、ズデーテンランド返還をきっかけに解体された。ポーランドも、ドイツ人、バルト人、ウクライナ人などの多民族国家である。回廊とシレジアのドイツ人、ウクライナ人などが騒ぎだしたら収拾がつかなくなる。これが拒絶の背景だった。ベック大佐は「ベルリン行きのバスに乗り遅れ、自国の4度目の分割を招いた」。フォッシュ元帥が予言したように、次の戦争は、ポーランド回廊をめぐって発生することとなる。この戦争の道義的責任は、ただ一人、ヒトラーに負わされた。

戦争の別の選択肢?
 しかしこの戦争は、ヒトラーだけの戦争ではなかった。チェンバレンの戦争であり、チャーチルの戦争であった。英国は、その時点、その場所、その理由で戦うべきだったのだろうか?キッシンジャーは、「ドイツのチェコ占領以来、英国世論はそれ以上の譲歩を許さなくなった。第二次大戦は時間の問題となった」、と論じている。
 しかしあらゆる戦争は、起こる前には不可避ではない。欧州戦争が時間の問題となったのは、ヒトラーのチェコ占領から、ではなく、イギリスのポーランドに対する戦争保証から、である。この保証なかりせば、孤立したポーランドはダンチッヒ問題で交渉に応じ、600万の国民を救っただろう。保証がなければ、9月3日の英国の対独宣戦もなく、1940年のドイツのフランス侵入もなかっただろう。ヒトラーの西方での戦いは不可避なものではなかった。「ポーランドの脅威のあと、ヒトラーがイギリスを攻撃する、というのは幻想だっただろう。マイン・カンプでも、ヒトラーはロシアに向かうことを明らかにしていた。イギリスは、アンネセサリー・ウォーに引きずり込まれ、40万の犠牲を出し、帝国を破産、崩壊させたのである。(ロイ・デンマン)」
たとえポーランドを裏切り、チェンバレン内閣が倒れても、イギリスは保証の実行をすべきではなかった。平和のため、できるかぎりの努力を傾注したが、8月の最後の日、戦争に身を委ねてしまった。イギリスとの戦争を絶望的に回避しようとしたヒトラーは、ベルリン駐在大使のネビル・ヘンダーソンから英国の最後通告を聞いて沈黙を続けたのち、リッベントロップに、「これは何だね?」と訊ねた。リッベントロップの答は、「フランスもまもなく同じことをするでしょう」、というものだった。街で通告を聞いた市民たちは、みじろぎもせず、突っ立ったままだった。
 9月2日、ドイツ軍がポーランド国境を越えたとき、ポーランドは公式に英国に宣戦布告を求め、西方からの攻撃を要請したが、全く反応がなかった。このときになってもチェンバレンは、ヒトラーも交えた国際会議の可能性を模索していた。しかしかれの不決断を見て、トーリー党議員、閣僚が造反の動きを見せた。9月3日、イギリスはドイツに宣戦した。1939年9月、稼動可能な英国陸軍兵力は4、5個師団にすぎなかった。

ポーランド見棄てらる
 イギリスからは、大砲も銃弾も借款も来なかった。ポーランド人は連合軍の救援を待ちながら、最初の電撃戦を蒙った。フランス軍は、いくつかの街に入ったが、すぐ撤退してマジノ線の内側に引きこもってしまった。ポーランド人は、自分たちが、ヒトラーにブラフ(こけおどし)をかけるポーカーチップにさせられたことに気がついた。ブラフはコール(勝負)された。ポーランドはだまされ、見棄てられた。西方で攻撃が始まったのはその5年後のことだった。それもアメリカ軍の先導によるもので、かれらはエルベで停まり、ポーランド人は5年のナチスの支配、その後45年のソビエトの暴虐支配を受けることになった。
 連合軍がジーグフリード・ラインを突破すれば決定的勝利を収められた、という説があるが、これは全く根拠がない。そもそもそういった計画がなかったのだ。9月17日、ソ連がポーランド攻撃を開始したとき、イギリスはロシアに宣戦布告をしなかった。戦争保証は、ドイツの攻撃のみに対するものだった。チャーチルはソ連攻撃のプラス面しかみなかった。「ヒトラーの東への道は閉ざされた」、と叫んだ。ポーランド人は、イギリス、フランス人と違って、ヒトラー、スターリン双方を拒絶した。チェコ、オーストリア人と違って、戦いを選び、かれらが誤って頼りにした国民よりずっと道義的に振舞った。
 スターリンとポーランドを分け合ったヒトラーは、宣戦布告をした西の国々に向かった。1940年5月10日、低地諸国を通ってアルデンヌに至る電撃戦を開始した。3週間で英軍は追い払われ、6週間でフランスは降った。国防軍はピレネーに達した。

第一の受益者
 1939年3月当時、大粛清と収容所群島の悪評で、ソ連は西欧諸国から孤立し、さらにドイツ、日本と、西、東から脅威を受けていた。スターリンは、ヒトラーの、武力によらない、オーストリア併合、ズデーテンランドの切り離し、ボヘミア、モラビアの保護国化、スロバキアの同盟化、メメルの回収、そしてポーランドへの動きを見ていた。ポーランドの次はこちらだ。ところが3月、英仏はポーランのために戦うという。英国トーリー党は、ボルシェビズムの保証人になってくれたのだ。そしてしばらくして、ルーマニアにも保証を出した。ポーランドまたはルーマニアを通って、ドイツがロシアに攻めて来ようとすると、その前に英仏がドイツに宣戦布告してくれることになる。ナチ・ドイツと英仏は体力を損耗し、三国での共産革命の土壌を育ててくれる。スターリンの安堵感と喜びは容易に想像できる。
 英仏からは同盟を打診する使節がやってきた。しかし、スターリンはすでに利益を享受している。そしてイギリスと組んでも、バルト諸国とポーランドの半分は手に入らない。帝政ロシアはプロシアとポーランドを山分けしたことがあったではないか?ヒトラー=スターリン協定は、世界中のコミュニストを驚かせた。しかしスターリンは馬鹿ではない、この協定は、六つのキリスト教国を共産化し、対独戦争への赤軍の力を2年間たくわえることに役立った。
 英国が戦争保証をしなければ、ソ連の運命は、フランスのそれと同じものになっただろう。高級幹部の追放で赤軍は弱体化していただろう。共産主義は、その後50年生き延びることなく、1940年には消えていたかもしれない。ロシア、中国、朝鮮、ベトナム、キューバの数千万の虐殺はなかっただろう。1940年代の戦争は、ヨーロッパでは独ソ戦争だけだったかもしれない、史上最大の数千万の死を齎した戦争はなかっただろう。


 

   
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