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2009/05/16

Alliance - 2    第1回のサミット

 ニューファンドランド プラセンシア湾  
 1941年8月9-12日
ーついに・・われわれはいっしょになった。   ルーズベルト


Ⅰ   歩み
 1941年8月、ルーズベルトは母親を喪ったばかりでもあり、健康状態は良くなかった。インフルエンザ、静脈不全、腸疾患、心臓肥大による高血圧、に見舞われ、痔の下血による鉄分不足もあり、ホワイトハウスに閉じこもりがちだった。しかし、近東で勝ち続けロシアに押し寄せるナチスにどう立ち向かうか、イギリス代表と秘密の軍事協議が行われていた。50隻の駆逐艦が提供されることになり、交戦国への輸出を制限する中立法も緩和された。英国の戦費は枯渇しはじめ、1282隻の商船がドイツの潜水艦に沈められた。アメリカの議会はレンドリース(武器貸与)法を可決しており、1941年5月、ルーズベルトは「無期限国家非常事態」を宣言していた。それでもかれは議会に参戦を求めてはいなかった。
 1940年再選時の共和党の相手、ウェンデル・ウィルキーは、孤立主義者(イソレーショニスト)として全力で戦ったがルーズベルトに敗れた。しかし、反戦論者は、ヘンリー・フォード、チャールズ・リンドバーグ、セオドア・ルーズベルト・ジュニアなどと広汎な連携を組み、ハースト系新聞と、シカゴ・トリビューンなどが参戦反対の空気を煽り立てた。
 イギリスは、米国内で密かにプロパガンダを企てた。英国安全保障共同行動(BSC)というプログラムである。偽のアメリカの対独戦争計画をでっち上げ、「FDR(ルーズベルト)の戦争計画」として大々的に新聞に載せ、ヒトラーに対米宣戦をさせるつもりだったが、ヒトラーはその手に乗らなかった。
 アメリカは地球の反対側でもうひとつ問題を抱えていた。1937年、日本は中国と全面戦争を開始したが、東京は注意深くこれを「事変」と呼び、アメリカの対日輸出の中断を回避した。アメリカもこの虚構につき合った。ニューイングランドで教育を受けた蒋介石夫人は、アメリカのラジオ放送を通じて援助を呼びかけ続けたが、アメリカは常にイギリスを優先した。石油の禁輸処置が東京を平手打ちにした。合衆国内の日本資産は凍結された。しかし国務省は、新しい首相の東条大将はもう少し物分りが良いかも知れぬ、と交渉を続けていた。
 8月4日、サングラスをかけた大統領はロングアイランドの魚釣りに出る様子で、ヨットのポトマック号から観衆に向かって手を振った。かまえたシガレット・ホルダーが大統領であることを教えていたが、これは替え玉の水兵だった。ルーズベルト本人は、重巡洋艦オーガスタに乗って大西洋に向かっていたのである。400キロの船旅ののち、オーガスタはニューファンドランドのプラセンシア湾に入った。
 ウィンストン・チャーチルは、英国のもっとも華麗な戦艦、プリンス・オブ・ウェールズで大西洋を横断した。かれにとって首相就任以来もっとも重要な旅になった。英国の将来を決める国のリーダーに会うのである。「好きになってもらえるかな」、かれはルーズベルトに与える自分の印象に気を遣った。
 レンドリースによる援助物資はイギリスの必要度にまだまだ足りなかった。また条件も厳しく、アメリカ側にも援助は輸出を阻害する、という批判があり、双方に不満が残っていた。
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