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2009/07/12

Unnecessary War ー第10章 エイプリル・フール

  ポーランド回廊のために、英国歩兵の骨を埋めさせる危険を冒すなど、イギリス政府が考えるわけもない。
 -オーステン・チェンバレン   1925

 ポーランドに対するイギリスの戦争保証は、ヒトラーに衝撃を与えた。4月3日、参謀長、カイテル将軍は、ヒトラーの命を受け、ポーランド侵入のための白作戦を発動した。ヒトラーは、ポーランドをソ連に対する自らの衛星国に位置づけるつもりであり、ダンチッヒ問題を軍事力で解決する意思はなかった。英独両国は、たがいに戦うことを望まなかったにもかかわらず、戦争に導かれることになった。偽情報と、誤れるヒトラーの意思についての判断が、英国をパニックに陥しいれて、戦争保証を発行させた。誤れるイギリスの動機と意向に対する判断が、ヒトラーに対ポーランド、そして今や英仏に対する戦争に向かわせることになった。
 ヒトラーのチェコ占領を見て、ムソリーニはアルバニアに兵を進めた。次はギリシャか?ルーマニアか?フランスは、ルーマニアがナチスの次の目標である、という情報を入手した。ダラディエは、フランスは、ルーマニアとギリシャに戦争保証を与える、と通告した。平和愛好の首相(チェンバレン)は、今やナチス・ドイツに脅威を感ずる東方諸国に保証を与えることに躍起になりだした。たとえば:
ー3月23日、オランダ、ベルギーないしスイスにドイツが攻撃すれば、軍事介入する、と宣言。
ー3月31日、ポーランドに戦争保証を発行。
ー4月13日、ルーマニアとギリシャに戦争保証を発行。
-5月12日、トルコと英土相互援助条約を調印。
 1939年4月、英国は徴兵しておらず、フランスに送り込める兵力が2個師団だったことを考えると、以上の戦争保証の経緯には、まことに驚くべきものがある。
 4月24日、ヒトラーは、英独海軍協定とポーランドとの不可侵条約の解約を宣言した。これは、ポーランドに対する、「ダンチッヒをドイツに返還し、ドイツと共同でスターリンに対抗する道を選ばず、わが国に刃向かう英国と結んだ、友情と同盟の申し出を拒んだ代償を払って貰うことになるだろう」、というメッセージにほかならなかった。

思い違い
 4月3日、尊大で、チェーンスモーカー、女たらしのポーランド外相、ジョゼフ・ベックと会談したチェンバレンは、ポーランド同盟の思い違いに気づき、後悔し始めた。チェンバレンとハリファックスがベックに、ルーマニアに対する戦争保証に参加をよびかけたが、ベックは拒否した。それは、ドイツとハンガリーの同盟を生み、ポーランドを脅かす、ポーランド人はトランシルバ二アのために死にたくない。
 4月6日、イギリスとポーランドの代表たちは相互の安全保障に関する条件を確認しあった。その後イギリスに起こったことの責任は、望まぬ戦争に導いたチェンバレンと、すすんで戦争を模索したチャーチルにある。チェンバレンは、ポーランド問題で、保証が意味のないことを知りながら発行した、チェコの場合より悪い。少なくともチェコ人には、イギリスはズデーテンのためには戦わない、と話をした。しかし、ポーランド人は英国を信じて国を失い、半世紀にわたるナチとソビエトの野蛮な支配を許すことになった。ワルシャワは破壊されたが、プラハはほとんどそのまま生き残った。第二次大戦中、ポーランド人の死者は650万、チェコ人は10万程度である。チェンバレンの戦争保証は、ヒトラーを妨害する目的だけのもので、英国は、ポーランドはダンチッヒを返還するのが筋と考えていた。
 4月28日、ヒトラーは、ポーランド問題の解決に関して宣言した。ドイツとポーランドは好むと好まざるにかかわらず隣人同士である。ドイツは常にポーランドの海へのアクセス要望を理解している。しかし東プロシアへの通路としてドイツの回廊への要請は正当である。ヒトラーは解決のための提案から、注意深く、対ソ・ブロックにポーランドを巻き込むような文言を削除していた。5月5日、ベック大佐は、議会演説でヒトラーの提案を拒絶した。それでもドイツの論調はまだ穏健だった。ベルリンの仏大使が、ドイツ人は、英仏がダンチッヒ問題でポーランドを説得することを根気強く待っている、と報告したように、ダンチッヒ問題は、欧州戦争に価しなかったのである。しかし、何も起こらなかった。戦争保証は、戦争を保証してしまったのだ。
 
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