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2009/07/06

Unnecessary War -第8章 ミュンヘン

 ドイツがチェコスロバキアを侵略しようとしたとき、地図を見れば、わが国またはフランスが、どうにもしようがないことがわかる筈だ。
 -ネビル・チェンバレン   1938年3月

 世界平和を保全するために、わが国民が犠牲になる、というなら率先してそうします。しかしみなさん、もしそうでないなら、神頼みしかありませんね。
 -チェコ大使、ジャン・マサリク  チェンバレンとハリファックスに、
                  1938年  


 1938年9月30日、ヒトラーの私邸で会談を終えた首相(チェンバレン)はミュンヘンからヘストン飛行場に戻ってきた。1枚の紙を手にしていた、「取ってきたぞ!これを取ってきたぞ!かれのサインがあるぞ」。ミュンヘン協定は3文節からなる。「われわれ、ドイツ総統にして首相、及び英国首相は・・昨夕の協定と英独海軍協定を、両国民がたがいに再び戦火を交えぬことの象徴として認識することとした」。
 ジョージ六世の指図で、かれは直接バッキンガム宮殿に赴いた。沿道には大群衆が待ち構えており、9マイルの道のりに1時間半を要した。宮殿では、夫妻で国王とともにバルコニーにのぼり、歓呼の声に応えた。平民として史上初のことだった。
 フランス首相、エドゥアール・ダラディエが、ル・ブールジェ飛行場に着いたとき、大勢が取り巻いていた。ヒトラーに降参したこと、同盟国チェコを裏切ったことで石をぶつけられるのか、と警戒したが、人々はヒーローとしてかれを迎えたのだ。太平洋の向う側で、FDRはチェンバレン出立前に激励の電報を打ったが、この栄光の仲間入りをしたかった。国務次官のサムナー・ウェルズは、名誉は、フランクリン・ルーズベルトにも与えられるべきだ、と放送した。カイザーは亡命先のオランダで、破局は回避された、チェンバレンには神が宿った、とその幸福感を現わした。カンタベリー大僧正は、次の日曜日に、全国の国教会、聖堂で感謝のミサを行うことを決めた。
 お祭騒ぎに加わらなかったものたちもいる。デイリー・テレグラフは、「ディズレーリは、英国には二つの宝物、その艦隊と名声がある、と言った。われわれは、艦隊がまだ残っていることを幸いとしなければならぬ」、と書いた。ダフ・クーパーは海軍大臣を辞任した。議会で、チェンバレンのことを「平和のプリンス」と呼ぶのを聞いて、チャーチルは、「ネビルがベツレヘムで生まれたとは、初めて聞いたよ」、と呟いた。「ヨーロッパの均衡は破られた、これはその第一歩だ」、と予言した。チェンバレンは、真に、「今の世の平和」を持ち帰ったとは思ってなかったようだ。バッキンガムへの徒次、ハリファックスに、「これが続くのは3ヶ月だろう」、と洩らしていた。

勝利者 
 ヒトラーはオーストリア人として、ベルサイユ条約から生れたチェコスロバキアを軽蔑し、電撃戦を仕かけて力で奪うつもりだった。ミュンヘンはその機会を失わせた。ズデーテンランドはチェンバレンからの貰いものとなり、チェンバレンがヒーローとなった。平和を望んでいたドイツ人も喜んだ。
 ミュンヘンは、外交の大きな敗北と言われているが、戦略上も大失敗だった。ズデーテンランドの譲渡は、プラハのマジノ線とも称される山岳地帯の一大要塞の喪失となる。チェコの40個師団の装備はヨーロッパ最強といわれていた。ドイツは同数の師団を完全装備でき、かつ巨大なチェコの兵器産業を手に入れた。差引きざっと80個師団の敵味方の「入れ替え」は、フランス陸軍兵力に匹敵する。
 もと参謀総長、ルートビッヒ・ベック、その後任のフランツ・ハルダー、ウィルヘルム・カナリス提督、その他将官たちは、チェコ、フランス、そして恐らくはロシア、イギリスとの戦争になることを警戒して、ヒトラー、ヒムラー、ゲーリング、ゲッベルスを逮捕する計画を練っていた。チェンバレンの訪独で、計画は中止された。ミュンヘンはヒトラーに、機甲部隊の増強、西の防壁強化の時間を与えた。
 今日、チェンバレンを擁護するものはほとんどいない。宥和政策(アピーズメント)は、悲惨な戦争を導いた臆病な降伏の代名詞となっている。しかし、1938年秋、なぜイギリスは宥和したのか?

なぜミュンヘン?
 チェンバレンはなぜミュンヘンに赴いたのか?この答は1919年にさかのぼらねばならない。パリ会議で、ボヘミアとモラビアに住む325万のドイツ人は、トマス・マサリクとエドゥワード・ベネシュの治める新チェコスロバキアに編入された。ウィルソンは、3百万のドイツ人をなぜチェコ統治下においたのかと問われ、「なぜ、マサリクは何も言わなかったよ!」と憮然とした。チェコスロバキアは、まさに民族自決原則違反の権化のような国だった。47%のチェコ人がもっとも多く、ドイツ人、ハンガリー人、スロバキア人、ポーランド人、ルテ二ア人で人口の半分を構成していたが、これら民族には、プラハの政権に自分たちが譲られることについて相談なしだった。その後、ドイツ人、ハンガリー人社会からは国会で主張が容れられないことについて、国際連盟に対して、たびたび苦情が寄せられていた。ベネシュは国際社会に二枚舌を使っていた。スイス連邦のように、民族ごとの地域の自治を許していれば、混乱は避けられていただろう。
 フランスは、ラインランドを併合するか、緩衝国として独立させたかったが、ウィルソンとロイド・ジョージに拒否された。かわりに、米英仏同盟が提案されたが、米上院が否決した。伝統的同盟国ロシアは共産国になってしまった。孤立したフランスは、小国のルーマニア、ユーゴスラビア、チェコスロバキアと提携した。こうしてフランスはチェコ防衛の一翼を担うこととなった。しかし、チェコをめぐって仏独戦争が始まれば、英国が支援に加わる筈だ。
 ズデーテン危機が起こると、チェンバレンは、外交的に、ドイツのしこりをほぐし、仏独戦争を防止しなければならない、という信念を持った。70万のイギリス兵と、仲良しだった従兄弟のノーマンを亡くした1914-18年の戦争を繰り返してはならない。なぜ、イギリスは、フランスに任せて、ズデーテンを諦めるよう、フランスにチェコを説得させなかったのか?こうして、ネビル・チェンバレンは、1938年9月、ドイツを3回訪れた。ベルヒテスガーデン、バート・ゴーデスベルグ、そしてミュンヘン、と。

ベネシュ、ヒトラーを侮辱
 何がヒトラーを怒らせたのか?引き金を引いたのは、アンシュルスの2ヶ月後の、ドイツがチェコスロバキアを襲うという噂だった。これは真実ではなかったが、ベネシュが動員をかけたことは事実で、これが噂の源泉となった。ロンドンはベルリンに、攻撃があれば座視しない、と警告を送り、パリとモスクワは、プラハとの約束を更新した。ヒトラーは、自らに責めなく、にわかに危機に陥った。
 ドイツ将官は、英国の武官をチェコ国境に案内して、戦争準備のないことを示した。攻勢がなかったことで、チェコ人は、ヒトラーを後退させたことを自慢した。ベネシュがヒトラーを侮辱したことはたしかだった。ヒトラーのプライドは傷ついたが、かれはそれを飲み込んだ。ヒトラーはチェコスロバキア、とくにベネシュへの報復を決意した。かれはチェコ侵入の「緑」作戦の発動を命令した。1938年5月の、ベネシュの偽の危機は、シュシュニクの軽率な国民投票に匹敵する愚策だった。

なぜヒトラーに「ノー」と言わなかったのか? 
 なぜチェンバレンはヒトラーの要求を断らなかったのか?なぜ英国は、チェコ人を見捨てず、戦うことを選ばなかったのか?
  まず、かれにとっては、ズデーテンのドイツ人が第三帝国に属しようがしまいがどちらでも良かったのである。3百万の不幸なドイツ人がチェコ人に治められている、という問題が、イギリスの戦争に価するとは思っていなかった。また、イギリス人の多くは、正義はドイツ側にあり、と思っていた。民族自決原則どおりならばそうなる筈である。フランス人は違う考え方をした。かれらには現実政治(リアル・ポリティーク)が大事だった。ドイツ人はできるだけ分断してしまう、フランスの安全保障はそこにあった。ドイツからの自由を望む民族には自決の原則を与える、しかしドイツ人には与えない。
 今、ヒトラーはウィルソンの歌を歌い始めた。パリでチェコ人とポーランド人に与えられたと同じ権利はズデーテンのドイツ人に与えられるべきだ。ミュンヘンは、国民の間の不公平を是正するもので、啓(ひら)かれたイギリス人エリートの勝利となったのである。
 もう一つ、英国の軍事力は不足しており、かつチェコスロバキアを救済する戦略がなかった。チェンバレンはそれを知っていた。チャーチルは主戦論を主張したが、ジョン・ルカッチは、チャーチルの認識は誤っている、とみていた。1938年10月に戦端を開くことは、道徳的に正しくても、実際的には間違いだった。スターリンが、チェコ側に立って戦う、という判断も間違っていた、とルカッチは1948年に書いている。チャーチルは、チェコ軍の装備、士気も過大評価していた。

ミュンヘン問題でのFDR(ルーズベルト)の立ち位置 
  イギリスがヒトラーに対抗したとき、アメリカは頼りになったか?ミュンヘンの当時、ルーズベルトは、「ヨーロッパで戦争が始まったとき、合衆国の確実な援助が期待できると思っていたら大間違いである・・ヒトラーに対する仏英陣営にアメリカが加わるというのは、100%ウソである」、と述べて迷妄を冷ました。
 英国に武力なく、フランスに意思なく、アメリカ、オーストラリア、カナダ、南アフリカの支援がなければ、英仏はドイツに勝てない。また戦争目的は何なのだろう?80%のズデーテンランド・ドイツ人の意向に反して、もとに戻すのが目的なのだろうか?それはベルサイユの愚行の再現にほかならない。
 チェンバレンにはもう一つ、ミュンヘン行きの目的があった。それは、ベルサイユの不正を正して、ドイツを列強の地位に戻して、平和のパートナーにすることだった。「アピーズメント」は、勝利者の雅量、と誤りを修正する意思の現われでもあったのである。

フランスはなぜ戦わなかったのか?
 フランスの東側の同盟国は、戦略的な資産から、致命的な負債に転じてしまった。ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアには、ドイツがアルザスに攻め込んできたときに援助して貰う手はずだった。今やドイツに対して、逆にかれらを防禦するため、戦争に引きずり込まれることになってしまった。もう一つジレンマがある。イギリスの支援は、フランスが防衛戦を戦うときだけ有効である、という取り決めになっていた。フランスが東方諸国支援に開戦すると、イギリスの援助は得られない、マジノ線に引きこもってドイツの攻撃を待てば、東方同盟国は見捨てざるを得ない。フランスの同盟戦略はまさにナンセンスだった。現在は間違っていたとされる、対独宥和は、広く支持されていたのである。しかしいくつかの問題点はあった。
 その1、ドイツの回復は、国民投票によったとしても、ビスマルクとカイザーの作り上げたドイツに戻すことになる。その2、ドイツの旧領回復は、チェコスロバキアとポーランドの領土切断となる。ズデーテンとダンチッヒを還せ、とだれがどう説得するのか?その3、今のドイツの統治者が、エーベルトでも、ストレーゼマンでも、ブリューニングでもなく、ヒトラーであること。ドイツの回復は保証しよう、しかし、それは力を伴うものであってはならない。それゆえ、チェンバレンは、ズデーテンランドの、平和手段による帰属を交渉すべくミュンヘンに赴くことを買ってでたのである。

チャーチルの選択肢  
 ミュンヘン問題のとき、チャーチルは冷や飯を食って閣外にいたが、議会にはいた。そしてその声は、イギリスのみならず、ドイツ、世界にも響いていた。民族自決なんてとんでもない、ズデーテンランドを諦めさせるより、イギリスは戦うべきだ。兵力不足はどうするのだ?この問いに対するチャーチルの答は、スターリンと結べ、だった。
 過去西側の政治家で、チャーチルほどボルシェビズムの悪口を言ったものはいない。スイスからドイツを通ってレーニンを封印列車でロシアに送った、ドイツ参謀部の行為を、チャーチルは、ペスト菌の輸送、と罵った。レーニンの死後、スターリンは、ウクライナの集団餓死、政敵の拷問、公開裁判、処刑、粛清で悪名を馳せた。ヒトラー打倒のために赤軍をヨーロッパに入れる、チェンバレンをぞっとさせる考えだった。かれは、選べと言われれば、共産主義者より、ナチやファシストを選ぶだろう。ヒトラーの犠牲者が数百人であったのに対し、スターリンによって粛清された者は、ウクライナから太平洋までの強制収容所内部で数百万単位にのぼっていた。一旦ヨーロッパに赤軍が入り込むや、絶対出て行かないだろう、そして自由は奪われる。チャーチルが、1944ないし45年になって気がついたことを、チェンバレンは明確に認識していた。チェンバレンの戦略が正しかったとすれば、ズデーテンランド問題でイギリスが戦争の外に立ったミュンヘンが、どうして災厄といえるのか?なぜチェンバレンには味方がいないのか?

ゴーデスベルグ会談
  チェンバレンはその9月、ズデーテンランドの平和的移譲実現のために3回、ドイツを訪れた。最初のベルヒテスガーデンの訪問では、ヒトラーの希望を聞き、本国閣議の了解を取るため、一旦帰国した。首尾よく承認を取りつけ、ヒトラーに伝達すべくゴーデスベルグの会談に臨んだところ、ヒトラーは前回の要請を撤回した。かれはズデーテンランドの即時占領を言いだした。閣議は拒絶した。フランスも、チェコも拒絶した。チェンバレンは、ホレース・ウィルソンを使いに立てて、ヒトラーにはっきりとメッセージを伝えた。
 ドイツがチェコスロバキアを攻撃すれば、フランス政府は防衛義務を発動する。英国はフランスを支援する。ヒトラーは見たこともないほど取り乱して、「それだけの話か!本当にチェコ人をやっつけてやるぞ、ベネシュにはもう我慢できない!」、と怒鳴った。その夜、ヒトラーは、スポーツパラストで大演説を行って、自らの外交実績を誇り、世界を侮蔑した。ダフ・クーパー海軍相は艦隊動員令を発した。フランスとチェコスロバキアは動員を命じた。両国の兵力はドイツの2倍となる。
 一つのエピソードがある。ドイツ機甲化師団がウィルヘルム・シュトラッセを行進しているとき、通行人は一人としてこれに歓呼をしなかった。スポーツパラストのおべっか使いたちの喝采は、ドイツ国民の本当の心情を表すものではなかった。ヒトラーは、「まだ戦争には時期尚早だ」、と呟いた。
 9月28日、チェンバレンが下院で、戦争準備の報告をしていると、メモが入って中断された。目を通してかれは言った、「ヘル・ヒトラーは、ただいま動員を24時間延期し、ムソリーニ、ダラディエ氏とともに、わたしとミュンヘンで会うことに同意されました」。
 チェンバレンは、イギリスの卵を全部、一つのバスケットに入れてヒトラーに進呈してしまった。しかしヒトラーは、チェコ人を叩き潰し、ベネシュに復讐する喜びを自分から奪ったチェンバレンを呪っていた。チェンバレンはヒトラーの引立て役になってしまった。チャーチルは、「戦わずして大敗北を喫した。歴史の大きな一里塚になった。これは終わりでなく、始まりなのだ」、と言った。

アピーズメント(宥和)の失敗
  1933年以前、ドイツがまだ民主主義であったころに、ボールドウィン=チェンバレン流の、ドイツの正当な要求を満たす政策を取っていれば、うまく行っていただろう。連合国の雅量で、手の中の絵札を外しておけばヒトラーもナチスも政権を取れなかったろう。ドイツ人は、いまそれができるのは、ヒトラーとドイツ人が怖れられているからだ、と思っている。ヒトラーは、ミュンヘンで勝てる、と思っていた。
 ドイツ国民は、フランスがスペイン共和政府側についた場合、フランコに味方して戦うか?戦うまい。同じように、フランス人もチェコ人のために戦うはずがない。フランスが戦わなければ、イギリスも戦わない。これがヒトラーの計算だった。チェコスロバキア陸軍がいくら強くても、英仏に見放されたら、戦えとは命令できない。
 オーストリアとズデーテンランドで、ヒトラーは1千万のドイツ人を帝国の手中にした。しかし、ミュンヘンが、第2次世界大戦に直接につながったのかは謎である。6ヶ月後、6年にわたる死闘に、誤れるときに、誤れる場所で、誤れる理由で、英国を引き込んだ一つの決意から、第2次大戦のカースス・ベリ(戦争原因)が生じた。この決意は、英国史上最大の失敗であったことが証明されることになる。

 
 

 
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