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2009/06/29

Unnecessary War -第4章 「役立たぬ巡洋艦の群れ」

 遥かなる、わが海軍溶解の声・・・
 -キプリング   1897


 1921年、その戦略的状況は衰えたとはいえ、英国はまだトップの力を持っていた。ドイツは敗れ、ロシアも消えた。アメリカは、食糧、武器弾薬、融資で連合軍を支えたが、ベルサイユを拒否、国際連盟参加を拒絶し中立に戻ってしまった。しかしアジアには、もっとも強力な同盟国、日本があった。1902年以来の日英同盟は、戦時中にその価値を発揮した。日本は中国と太平洋でドイツを追い詰め、その海軍はアンザック(豪州、ニュージーランド)の軍隊を戦場まで護衛した。日本が敵側についていたら、勝利は得られなかったかも知れない。

友を選ぶ
 1921年、ロイド・ジョージの難問は、日英同盟を継続すべきや否やだった。国際連盟の規約は古い形の国際同盟を違反とみなしており、更新は、アメリカとの関係を複雑にする。アメリカは日英同盟の解消を迫っていた。この問題は英国史上、国家戦略決定の最重要事項の一つとなった。
 賛否両論があった。チャーチルは自身英米混血でもあり、英語国の国民の運命に感傷的だった。カナダはアメリカを支持し、ロイド・ジョージ、カーゾン卿、外務省、参謀本部、オーストラリア、ニュージーランドは更新に賛成だった。日本が同盟国でなくなると、イギリスの戦力はアジアでは第3位になる。日本が英帝国植民地に敵対行為を取ってもアメリカはそれらの救援はしないだろう。オランダとフランスも日本から保護しきれない植民地をアジアに抱えていたので、同盟の更新を希望していた。東京のイギリス大使は、更新を拒否すれば、日本は恨みを持ち、報復政策を取るだろう、と警告した。
 ロイド・ジョージは、日本を西欧のキャンプから追い出すと、ドイツないしロシアと結ぶのではないか、と怖れた。チャーチルが、「日本と結んでアメリカと対峙するほど致命的な政策はあるまい」、というと、ロイド・ジョージは、「アメリカの思うままにされるのも致命的な政策ではないのか」、と反論した。
  オーストラリアの辛口の首相、W.H.「ビリー」・ヒューズは、決定的な質問を口にした。「われわれの帝国は、われわれ自身の国益のために、われわれ自身で政策を決めてきた。そいつをこれからはどこか、ヨソさんの力に頼ろうというのですか?」。
 英米同盟締結の提案があればそれに乗ろう、という結論になった。しかし、アメリカは独立戦争以来外国と同盟しない国だからそれはあるまい。アメリカの海兵隊が、香港のために戦うことなどあり得ない。英米条約に調印するのであれば、日英同盟は破棄しよう、とこちらからアメリカに申し入れることになった。悲惨なことではあったが、イギリスは合衆国の歓心を買うことを選んだのである。

はらはらさせる愚策
 日英同盟の解消、ワシントン軍縮会議への出席を議題とする英連邦会議の席で、ビリー・ヒューズは、「日英同盟をワシントン会議で肩代わりさせようというのですか?」と質問した。1921年11月から1922年まで軍縮会議は行われた。イギリス代表のバルフォアは、親米論者なので、結論は決まっていた。25年続いた日英同盟は終わり、英米仏日の4ヶ国条約がこれに代わった。この条約には何の義務遵守強制条項がなかった。「ウィスキーを捨てて水を頼んだ」、と日本代表が言った。英国も同じことをしたのである。
 アメリカの外交勝利は英帝国の災厄につながった。オーストラリア、ニュージーランドは戦略拠点ではなく、お荷物になった。アジアで英国は、敵対的なソビエト、外国人嫌いの中国、苦々しげな日本と相い対することとなった。そしてアメリカは極東の英帝国防衛に何の保障もしないのである。日英同盟は、日本を列強とつなぐタイだった。その解消は極東の安定に致命的な打撃を与える。ワシントンの海軍協定がその埋め合わせをする、という考えはお笑い種であった。日本は一人前扱いされなくなり、自ら行儀よくする必要がなくなった。1930年には、「疎外感と脆弱感にとらわれて、日本は、帝国主義的将軍と提督たちの一派に率いられる」ことになった。

ロールス・ロイス - ロールス・ロイス - フォード
 ワシントン会議の初日、国務長官のチャールズ・エヴァンス・ヒューズは、世界の大海軍を潰して行く考えを展開した。もっとも影響を被るのはイギリスである。1918年11月、イギリスの戦艦は61隻で、アメリカとフランスの合計より大きく、日本とイタリアの合計の2倍であった。巡洋艦は120、駆逐艦は466で、それでも帝国の防衛には不足と考えていた。1921年まで、5年間、戦艦の製造は中止していた。フランクリン・D・ルーズベルトは海軍次官として、米海軍を世界一とするべく頑張って、講和以降、91隻の駆逐艦と10隻の巡洋艦を進水させた。
 ヒューズは10年間の艦船ホリデー(製造中止)を主張した。主要艦船を5-5-3の比率となるべく、上限は、米英で50万トン、日本は30万トンに制限された。イギリスは657隻、150万トンの軍艦を廃棄することになった。日本は、ロールス・ロイスーロールス・ロイスに対するフォードだ、と国家的屈辱に見舞われた。日本をなだめるため、イギリスはシンガポール以北の領有地の武装はしない、アメリカは、フィリピン、グアム、ウェイクないしアリューシャンのこれ以上の武装はしないことに同意した。
 中国周辺海域は、日本の池となった。日本は対英60%の海軍力だが、日本の行動範囲は西太平洋だけである、対して英国は世界中を守らなければならないのである。
 イギリスは、なぜアメリカに屈服したのだろうか?以下理由をあげてみる。
1)自らアメリカの母国である、という神話による「とくべつな関係」への考慮。しかし、歴史的に米英が反目しあった事実はかなりあったし、アメリカには数千万のイギリス系ならざる、アイルランド、ドイツ、イタリア、東欧系の民族がいることも見過ごしている。
2)対外債務の問題。債務は戦前の14倍になった。アメリカの意に反して海軍増強に走れば、借款の即時返済を迫られる。アメリカは帝国を担保に取っていたのである。
3)ウィルソン主義。大戦の惨禍は世界主義、平和主義の風潮を生み出した。古い軍国主義、海軍主義はさよならだ、今は国際連盟の時代になったのだ、と。
 チャーチルは、大蔵大臣となって、1920年代中の「10年ルール」に固執し続けた。日本との戦争など考えられない、太平洋はワシントン条約で守られている、というのがかれの持論だった。「くだらぬ巡洋艦も不要だ、どのみち役立たずだ」、かれは5-5-3の軍縮を巡洋艦にも適用しようとした。かれは軍事支出の緊縮に務め、1932年までの10年間で、防衛予算は3分の1以上削減された。イギリスの海軍力は、チャールズ二世の暗黒時代以来、相対的にもっとも弱くなった、とニアル・ファーガソンは述べている。

スティムソン・ドクトリン
 日本の満洲侵入は部分的に自衛が目的だった。日本は中国のナショナリズムと、ソ連が背後にいる毛沢東の共産主義の脅威にさらされていた。しかし、満洲への侵入は国際連盟規約と1928年のケロッグ=ブリアン条約の違反となるものだった。しかしそれはイギリスの権利を侵害するものではなかった。日英同盟が存続していれば、1904年の、モロッコとスエズの利権を相互に認め合った英仏和親にならって、イギリスが北部中国の日本の権益を、日本が南部中国のイギリスの優位を認め合うこともできただろう。しかし古いリアルポリティックの方法は放棄されていた。国際連盟規約上、違反国に対しては行動が必要だったが、メンバーの二大国、英仏はいずれも強制力を欠いていた。
 イギリスは同盟関係断絶という愚行の結果に直面することとなった。ワシントン会議の造艦制限、チャーチルの10年ルールによってロイヤル・ネイビーは萎縮していた。アメリカはそのときどうしていたか?大統領のフーバーは、日本の満洲への動きは自衛であり、アメリカに脅威となるものではないと考えていたが、国務長官のヘンリー・スティムソンは好戦的だった。スティムソンが、軍事力使用すれすれの手段で日本を威嚇すべきだ、と意見を述べたとき、大統領は、それは戦争になる、とたしなめた。
 日本の満洲権益を認めた、ルート=高平協定を調印したもと国務長官のエリフ・ルートは、短剣を心臓に突きつけられた日本に対して、われわれに反対する権利はない、とスティムソンに告げた。ルートは、「戦争の嫌いなリアリスト」、スティムソンは、「平和のためには戦争を辞さない平和主義者」、と歴史家のチャールズ・キャラン・タンシルは評している。スティムソンは、海外紛争への非介入は時代遅れだ、との「スティムソン・ドクトリン」の提唱者だった。パリ条約で認められない手段での政治的変更は認められない、中国の領土的統一‐決して実現したことのない理想だったが‐擁護にイギリスの義務はない、と当初主張した英国外務省を説き伏せて、スティムソンは自分の見方を押しつけた。スティムソンはこうして英米を対日戦争への道に引きずり込んだのである。
 1933年、連盟の日本非難の決議にイギリスは賛成し、日本は脱退した。ドイツはヒトラーが掌握し、イギリスはドイツ、日本の二正面戦争の危険に直面した。アメリカは孤立主義で、イギリスの利権には無関心だった。日本との和解にもっとも熱心だったのは、新しい大蔵大臣、ネビル・チェンバレンだった。ヨーロッパで紛争が起こったとき、日本が友好的なのか、敵対的なのかによって、帰趨が決まる。かれの予言は後日当たることになった。1931年には、英海軍、空軍はいちじるしい衰退を示し、アジアの植民地は奪われ放題になりそうだった。日本を止められるのは、その歓心を買うために日本との同盟を犠牲にした相手、アメリカだけだったが、アメリカはその点に興味を持たなかった。
 チャーチルは自らの愚行を悔やんだ。1948年、かれは軍縮を提案したアメリカを恨んでいるが、自分自身、アメリカといっしょになって、余剰の軍艦を沈没させた。これが英国史上最大の軍事的敗北、シンガポールの降伏につながった。イギリス、オーストラリア、インド軍、8万の軍隊は、事実上戦わずして、その半分の軍勢の日本軍に降ったのである。
 
 
 
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