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2009/06/11

Alliance - 22 旅の終わり

この長い物語もいよいよ最終章となりました。「しめくくり」でもあり、原著の雰囲気がよくわかりますので、分量になりますが、この第22章は「要約」ではなく、「全訳」しました。

 ポツダム
 1945年7月12日ー8月2日
ーソビエト連邦は常に約束を守る、極端な必要に迫られないかぎり。    スターリン

 1945年7月17日、同盟国の最後となったサミットが、ベルリン郊外、バーベルスベルクにほど近いソ連占領地区内の、チューダー様式を模したツエツイーリエンホーフ・パレスの会議室で開かれた。午後5時、宮殿の会議室の別々のドアから、チャーチル、スターリン、トルーマンが現われた。かれらはワイン・レッドのテーブル・クロスのかかった円卓のまわりに、赤いフフラシ天で上部まで詰め物をされた木製の椅子に腰掛けた。前方には、芝生のなかを湖に向かってスロープを描いて建てられた、176室ある建物が見えた。網戸のない窓からは、蚊の群が唸りながら飛び込んできた。庭には、赤軍が赤いゼラニウムで大きな星を象っていた。警護は主に緑の軍帽を被った中央アジアの国境警備隊が担当していた。スマートな制服の婦人交通警官もいて、チャーチルが葉巻の灰を上着に落とし放しにした原因となった、とアンドレイ・グロムイコは語った。
 代表団は、湖のまわりや、森のなかの堅固なヴィラに滞在した。戦争の最後の段階で、ドイツの首都は破壊しつくされたが、バーベルスベルクは比較的痛手を蒙っていなかった。ほとんどの家にはまだグランド・ピアノが置いてあった。

 ヒトラーが自殺し、第三帝国が降伏してから10週間、ビッグスリーの関係はがたついたままだった。サン・フランシスコ会議では、国連行動に関する拒否権第一号として、大国に対して主張される反論は、かりに口頭のものですら抑止されなければならない、とソビエトは主張した。チャーチルは西側が、スターリンに対してより強く出ることを求めた。英国総選挙が近づくにつれて、戦争目的の諸原則が無視されて行くことの危険を認識していた。かれはクレムリンに、会議が、「クリミアで友好的に解決されたものと信じていた事柄が障壁となっている」、と書き送った。
 スターリンにあてて、春にチャーチルは20項目の「気持ちの発露」という書面で、ポーランドと、ユーゴスラビア問題についてのロンドンとモスクワの見解の相異について縷々所見を述べた。ユーゴでは、「チトーが完全な独裁者となり、[そして]自己の主な忠節の対象はソビエト連邦である」と宣言している。共産国家群と英語圏諸国の分裂は、「世界をこまかく引き裂いて」しまう、と警告した。「わが友スターリンよ、どうか、あなたが些少なことだろうと思われる事柄でも、英語圏の民主主義がその生活のシンボルと考える事柄について、あなたがたとの考え方の差異を過小評価しないでください、お願いです」。同時にかれは、英国統合計画局員に、ソ連との仮定の「全面戦争」に関する報告書を準備するよう指示した。「あり得ぬ作戦」の目的は、「ロシアに合衆国と英国の意思を押しつけ」、「ポーランド問題で公明正大な取引」を行うためのものだった。敵対行動は7月1日に開始予定となっていた。イギリスの幕僚長たちは、軍事的に実行不可能としてこれを却下した。
 トルーマンに書簡をしたため、チャーチルは、ソビエト国境に沿った「鉄のカーテン」の比喩の内容を変えた。かれは、「ソビエト指導者が、われわれの兵力が溶解したとき、ヨーロッパ全土で覇権を確立するために時間稼ぎをしているのではないか」と懸念を表明した。アイゼンハワーには、ドイツの航空機を破壊したが「いつか、大変に必要になるときが来る」のではないか、と憂慮を示した。イーデンへのメモでは、米軍撤退が、国内で英軍の動員解除の圧力となる一方、赤軍がバルト海からアドリア海まで、数百個師団を擁している危険に力点を置いた。
 トルーマンがモロトフに予言したように、ワシントンの空気も変化してきた。5月8日のドイツ降伏の4日のち、ソ連に対するレンドリースは中断された。スターリンはこの状況を「不幸なこと、野蛮ですらある」、ときめつけた。しかしこの措置はすぐに撤回され、役所の手違いの所為にされた。ワシントンはスターリンに、その対日参戦計画を取り止めさせたかったが、その理由は説明したくなかった。したがってその計画は、1945年9月までは生きることになった。
 スターリンは、その年のあとになってソ連の復興融資の話を持ち出したが、まだこの問題については話が出なかった。モスクワが、それぞれが影響力を持つその他各国の体制をビッグスリーが承認しよう、と提案したとき、大統領は、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアでは「表現の自由の権利に基づく人々の民主的要素に一致しない政府ができているのを見て、心がかき乱されている」、と返答した。
 しかしトルーマンは、まだそれとは知らずに、チャーチルに一つの衝撃を与えることになった。5月26日、大統領の使者がチェカーズを訪れ、チャーチルと午後11時から午前4時30分まで会談した。トルーマンは適材といえぬ使者を選んでしまったのだ。-それは親ソ、反英の元モスクワ大使、ジョセフ・デーヴィスだったのだ。この人選は、愛想の良いホワイトハウスの報道官、スティーヴ・アーリーの推薦によるもので、アーリーは、デーヴィスが役員をしている会社に入社する予定になっていた。チャーチルがソビエトの勢力が浸透することへの警戒の仕方は、まるでヒトラーの同志といわぬばかりであった、とデーヴィスは言っている。イーデンは、かれのことを「生まれながらの融和主義者、アメリカを紛争に巻き込ませぬためならば、ヨーロッパのすべてをロシアに捧げかねない、多分わが国を除いては」、と短評した。
 デーヴィスは、三巨頭会談にチャーチルが参加する以前に、大統領は、スターリンと二国会談を行いたいとしている、と言った。首相は二国間の取引を懸念した。-トルーマンが自らの優先順位をそれほどはっきり示したことに腹を立てるのみだった。三人が同時に、同じ条件で席に着かぬかぎり、自分はサミットに参加しない、とトルーマンに警告した。5月27日、ホワイトハウスあての長い電報で、ソビエトは徹頭徹尾「かれらが武力解放した犠牲国家すべてに、警察政府の方j法を適用している」、と指摘した。「英国とソビエトロシアは二つの外国勢力にすぎない、というアメリカの考え方に直ちに賛成するわけには行かない。18ヶ国のなかの6ヶ国については、戦争を原因とする紛争が調停されなければならない」、とチャーチルは続けた。「英国と米国が掲げて勝利した、偉大な大義と諸原則は、単にバランス・オブ・パワーをめざしただけのものではない。それは事実上、世界を救済するものなのだ」。
 チャーチルと同じく、トルーマンもアメリカで、ヤルタ以降の出来事に憂慮を深めていた。しかし、世論形成者と幕僚の一部には、依然モスクワの協力が不可欠、と信じるものたちがいた。-有力評論家、ウォルター・リップマンは、大使のハリマンがモスクワを批判する概要報告の席を途中で蹴った。空気を改善するため、トルーマンは、ホプキンスをモスクワに派遣し、スターリンに面談させることにした。ハリマンとボーレンがこのことを伝えにジョージタウンの自宅を訪れたとき、補佐官はやせ衰えてベッドに伏せていた。新大統領はクレムリンと「公明正大な理解」を深めたい、としている、しかしヤルタで決められたことの遂行方法を模索している。補佐官には「米国は、協定以外のことを期待しているわけではないし、そういったことを約束したつもりもないが、ソ連の行動は検証する」と、スターリンにはっきりと伝えて欲しい。論点を明らかにするために、ホプキンスに外交手腕を発揮して貰いたい、野球のバットだろうが何だろうが、適当と思うものを使ってよろしい。ルイーズが夫の看護のために同行した。彼女はソビエトの将軍たちへのヒットとなった。彼女が強制的に貰った贈り物のほとんどすべては、アメリカ側の規定によって返還させられた。
 ハリマン、ボーレンが同席し、10日間にわたり、ホプキンスはスターリンと6回面談した。かれは、トルーマンは世論の支持なく協力を継続して行くことが難しい立場にある、というところから話を始めた。問題の根幹に触れて、一般の関心は「ポーランド問題についてその解決に手をくだせないところの困惑感」にある、と述べた。
 スターリンは丁重だった。-かれはボーレンに一度、ホプキンスは「心から」話をする初めて会ったアメリカ人である、と語ったことがある。しかし、打ち解けた、非公式な趣きのある話し合いの裏にも、かれの態度は固く、テヘランやヤルタで示した弁舌の手管が展開された。一度、かれはこう言った。ソビエト連邦は常に約束を守る。そして一段と声を低めて付言した、「極端な必要に迫られないかぎり」。
 通訳のパブロフは、このあとの方の言葉をすぐには訳さなかった。
 「何かもうちょっとおっしゃったようですよ」とボーレンが言った。パブロフはもぐもぐと、限定句を通訳した。
 スターリンは一連の不満を並べ立てた。アルゼンチンは、ドイツにまったく宣戦布告をしていないのに国連参加が許されていること。レンドリースの一時的中断について。フランスを賠償委員会に加えるべきだ、という主張について。ソ連はドイツ艦隊の3分の1の分配にも預かれそうにない、という見通しについて。ホプキンスはそれぞれに答えた。しかし、肝心のポーランド問題は長引き、6月6日の最終会談まで持ち越されてしまった。
 ホプキンスは、この問題は「ソ連との間で解決できるか、能力が試される象徴的なもの」と言った。かれはアメリカ人が必要と考える自由の諸項目を羅列したースターリンがこれを認めれば協定はできあがる。「それら原則は一般的であり、ソビエト政府としても反論はしない」、とスターリンは答えた。しかしその適用は平時に限る、したがってある種の限定が必要である。ホプキンスは合意が目に見えてきた、と思った。しかし、スターリンの但し書きは、言質を与えていないことを意味する。いずれにしても、いつもどおり、西側はかれに約束を守らせる手段を見出せなかったのである。
 ワルシャワ政府の構成について、スターリンは、18から20名の閣僚中、4、5名は米英の指名する人物に席を与えても良い、と言った。ミコワイチクは、ほかの二人のロンドン在住ポーランド人、5人の非共産主義者とともに、新政府の協議においてその名が挙げられた。ホプキンスがモスクワ訪問後に逮捕された16人の非共産主義者の問題に言及すると、スターリンは硬化した。かれらは国が解放されたとき、赤軍兵士を背中から射殺したのだ、と言った。だからかれらは裁判にかけられるー連合軍は、破壊行為を行った人間を逮捕しなかったのですか?ホプキンスはチャーチルにメッセージを送った。自分は「力のかぎり、これらの人々を獄から解放しようと尽くしました」、しかし、より重要なことはミコワイチクとほかのポーランド人を、モスクワ会談に引き出すことである、とつけ加えた。 
 大国が国際連合のなかで活動する場合の論議においても、拒否権を行使できるようにすべきである、とソ連が固執した問題を提示したことで、補佐官はかなり点数を稼ぐことになった。「これはどういうことだね、モロトフ?」とスターリンが聞いた。外相は、大国はどんなことでも議論の最初からこの権利を持つということですよ、と答えた。「意味ないね」、スターリンは答えた。サン・フランシスコのグロムイコは、妥協せよ、という指示を得た。そして、国連憲章は採択されることになった。それがモスクワの基本条件だったとしても、ルーズベルトの考えと矛盾してはいなかった。かれはこの機構が真の意味で民主的だとは考えていなかった。言い換えれば、小国は列強によって支配される、と考えていたのである。
 またホプキンスは、ソビエトの極東戦争参加の確定日の情報を得たー8月8日ーヤルタの諸条件が確認されるかぎり、この日となる。スターリンは、ソ連は自国の復興に多忙となるので、中国ではアメリカが主役になると見ている、と言った。言葉に表さなかったが、かれの主要目的は、この広大な国家を脆弱な隣人として放置しておきたかったのである。共産主義者に権力を与えることよりも、欠点だらけの国民党体制を永続させた方が、この目的の達成には都合が良さそうだった。
 5月1日の夜、同盟国のお客に、スターリンは最後のクレムリンの宴会を用意した。その前の話し合いの例にならい、それは抑制的なものだった。40人のお客がいたが、ウォッカのボトルは早々に引き上げられた。食後、ホプキンスはまたもや16人のポーランド人の話を持ち出した。スターリンは立場を変えなかった。アメリカ人は降りた。14人が刑務所にいた。何人かは拘禁中に死に、ほかのものは一旦釈放されたあと、再逮捕されたー西に逃げたものもいた。ハリマンは、「ハリーは一番の仕事をやりました」と報告した。しかし、かれは、多分スターリンは失われてしまった大義について、そこに絞ってアメリカ人がかれこれ主張することに当惑しているだろう、と思った。「原則の問題としての自由ポーランド、というわれわれの関心を、スターリンが理解していない、また今後も理解することはないだろう」と思います、とハリマンはワシントンに書き送った。「かれは行動においてとにかくリアリストで、われわれが、抽象的な大義といったものを尊重することは理解できないのだと思います」。
 予期していたことは一応獲得した、と判断して、トルーマンとチャーチルは、7月初め、非共産主義者が加わったあと、ワルシャワの暫定政府を承認した。16人のポーランド人問題の状況を聞いて、ミコワイチクは用心してモスクワへ行き、連立内閣の話をすることにした。チャーチルは、「ドアを開けておくのだよ、チャンスを逃さないように」、と忠告した。クラーク・カーとハリマンに厳しく見守られて、ルブリン指導者たちとの最初の接触はうまく行った。ミコワイチクはワルシャワ新政府の副首相兼農業大臣に就任することになった。しかし、ソビエトを背後にする勢力、またそこを通じてモスクワは、警察と軍を掌握した。米国務省は、のちにルブリン委員会の首領を20年にわたる共産党のスパイである、と断じた。
 回顧録でチャーチルは、それ以上のことをしようとしても難しかった、しかし同時に、「われわれは、自由選挙でポーランド国民が意思の表明ができるよう、現実的な、公平な試みを続けてきた」とはいえる、と書いた。ワルシャワ行きのためモスクワを離れたミコワイチクはハリマンに、成功するチャンスがどれだけのものか、深い疑念を語った。「もうあなたとお会いできないかも知れません」。かれは米国で亡命中に人生を終えた。
 ホプキンスはベルリン経由帰国した。ベルリンで、妻は赤軍将校連と腕を組んで写真におさまった。まわりを囲んで笑っているほかのロシア人たちと同じように幸せそうな夫が写っている。補佐官は、ジューコフ元帥、ヴィシンスキーと昼食をともにした。ヴィシンスキーはソビエト地区の政務を担当していた。元検事(ヴィシンスキー)が、連合国の協力について楽観的な見通しの話を始めると、ホプキンスはコーヒーをすすりながら、ため息をついて答えた。「ルーズベル大統領が生きていて今日を見られないのが残念です。かれなら物事はもっと簡単なのですよ」。
 帰国の空路でボーレンと話しながら、ホプキンスはモスクワとの本当の意味での協力の可能性に疑問があることを口に出した。自由についての見解の相異は凶と出そうだ。しかし依然、目下の最大優先項目は、ドイツ軍国主義の復活を許さないことである、と思っていた。アメリカに戻り、かれは政府の仕事から辞任した。トルーマンは次回サミットへの参加を促したが、かれは断った。「だんだん快方へ向かって行くので、決意は正しかったのだと思います」、とかれはハリマンに書き送った。「わたしは、ニューヨークの婦人服業界の無任所会長の仕事に就きました・・・サラリーはなかなか良く、仕事はきつ過ぎないです。それから一つ本を書くので忙しくなりそうです。そんなこんなでやることは一杯あるのです」。かれはオクスフォードから名誉学位を授与された。トルーマンからは殊勲賞(DSM)を贈られた。これは「全世界を通じての軍事作戦上の計り知れぬ諸問題に対する、類稀なる洞察力」と、「戦争努力に対する私心なき、勇気ある、客観的貢献」に対する「卓越せる価値」を理由とするものだった。夏をメイン州で過ごし、ボーレンにワシントン、モスクワとロンドンの三者関係を促進するものはすべてやらなければならない、と伝えた。そして病院に戻った。
 

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