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2009/06/10

Alliance - 21 スプリングスに死す

 スエズ運河、ワシントン、ロンドン、ウォーム・スプリングス
 1945年2月13日ー4月12日

 ルーズベルトは巡洋艦、クインシーで帰国の途次、スエズ運河上のビター湖でイブン・サウド王に会った。中東に権益を持つイギリスが神経を尖らせていたが、さきのワシントンでの英米石油協議では、サウディ王国においては米国企業が主要な役割を果たすという協定が成立していた。2月5日にはチャーチルとクインシーで昼食を摂った。チャーチルは、大統領が「静かで、はかなく」見えた。かれを見るのはこれが最後だ。われわれは心をこめて別れを告げた、と記録している。ホプキンスの容態も悪化し、船旅は無理になった。
 米国爆撃機は東京を襲っており、硫黄島では6週間の激戦があった。7700の米兵が戦死し、日本軍はその倍以上が死んだ。北方では、モンゴメリーがブレーメンに迫っていた。赤軍はバルト海とウイーンの双方に達した。
 軍事的な朗報にかかわらず、ヤルタの空気はすぐに消えてしまった。モスクワに向かった、16人のポーランド人の非共産党員が失踪してしまった。ポーランドで破壊的な選挙が行われようとしていることで危険が見えてきた。それはチェンバレンがチェコスバキアを抹消したことの二の舞になる?スターリンはゲームのレベルを上げてきた。サンフランシスコのポーランド代表はルブリン・グループだけで構成する、と言ってきたのだ。ルーズベルトとチャーチルはスターリンに長い抗議電報を送った。
 ポーランド問題で英米は協調したが、軍事的戦略には考え方にギャップがあった。チャーチルは次第に「ソ連は自由世界にとって致命的に危険になる」と懸念を膨らませ、できるだけ新しい戦線を東方に広げ、赤軍のベルリンへの入城競争を阻止すべきだ、という信念を持っていたが、アイゼンハワーはベルリンの分割が決まっている以上、連合軍が首都へ入っても自分たちの地域でなければ撤退せざるを得ない、軍をずっと南のエルベ川方面へ向かわせ、そこで赤軍と邂逅しよう、と主張した。
 戦略論争の最中に、スイスの首都、ベルンで、アメリカOSS(戦略諜報局)長官のアレン・ダレスがドイツと秘密取引をしている、と素っ破抜かれた。これは、西側がヒトラーに対し、全力を挙げて赤軍を攻撃するにまかせる協定をするのではないか、という古くからのソビエトの疑惑を復活させた。モロトフは厳重な抗議の書簡を寄越し、スターリンも、ドイツの敵はロシアだけになってしまった、と書いてきた。ルーズベルトには衝撃を与えた。戦後は、自分の想像していたほど愉快なものではなさそうだ、と認めた。しかし、日本についてはクレムリンは誠実で、4月5日、モロトフは中立条約の終了を日本に通告した。4ヶ月後、百万の兵士がシベリア国境を越えることになった。
 3月23日の閣議のあと、ルーズベルトは倒れた。ウォーム・スプリングスの山荘で休養をとることにした。秘書のルーシー・ラザファード、従姉妹のマーガレット・サックリー、ポーリー・デラノ、そしてかれの肖像画を書いていた男勝りのロシア系の画家が集まっていた。モーゲンソーが訪ねてきて、ドイツ問題でくどくどと喋った。大統領は、100%きみに賛成、と言った。モーゲンソーが帰ると嬉しそうだった。
 翌4月12日、目覚めたとき、ルーズベルトは頭痛と寝違いを感じた。1時15分、画家に肖像を書かせていたルーズベルトは前のめりになって、何か探しているような格好をした。デイジー(サックリー)が、煙草を探しているの?と聞いた。「頭のうしろがものすごく痛いんだ」。医者が呼ばれた。患者は脳出血を起こしていた。午後3時55分、フランクリン・ルーズベルトは死亡した。翌日、その名は、アメリカ人戦没者のリストに載せられた。 
 ホワイトハウスの葬儀は4月14日午後4時に行われた。ハイドパークで、庭園の墓に柩が沈められた。喇叭手が吹奏した。ウェスト・ポイントの士官候補生がライフルで3回、斉射した。ファラがそのたびに吠えた。 
 重慶では、蒋介石が「ルーズベルトはときどき共産主義者を甘やかせたが、防ぐこともしていた」、と言った。パリでは、ド・ゴールが国民の服喪週間を決め、トルーマンに弔電を打った。ベルリンでは、ヒトラーが「永遠の一大戦争犯罪人の運命が果てた」と言った。東京のラジオは、「偉大な人材の喪失」とアナウンスした。
 新大統領、ハリー・トルーマンは、もともと小間物商人で、カンザスシティの親玉、トム・ペンダーガストの徒党で名を挙げ、上院の選挙に勝ち、酒とポーカー好きの陽気な議員仲間に入っていた。大統領となったとき、「月と星とすべての惑星が、わたしに降りかかってきたような気分」だった、と話している。第一次大戦のとき、フランスで軍務についたが、それ以外海外に出たことはなく、外交は全く未経験だった。ホワイトハウスの葬儀の翌日、ホプキンスと2時間話をした。一層青ざめ、細くなった補佐官は、ほかの二人のリーダーの印象を語った。自分はやめるつもり、と告げたが、トルーマンは、健康の許す限りやめないで欲しい、と頼んだ。初めて秘密文書に目を通したトルーマンは、スターリンのメッセージに潜む敵対的な感覚に驚いた。ワシントンでは度重なる会議が開かれたが、姿勢は強硬になりつつあった。とくにハリマンが厳しかった。あたかもルーズベルトの死が、自由な発言を解禁したような形になった。海軍長官のジェームズ・フォレスタルは、ソ連とのイデオロギーの戦いに警告を発した。 
 モロトフがやってきた。トルーマンは、ルーズベルトとヤルタで協定したモスクワの対日参戦を支持する、と述べた。合衆国は、ポーランドについて、できるだけのことをすると発言したが、米国世論の重要性も強調した。ポーランドでは協定が成立した、あとはスターリン元帥がその言葉どおり実行されることだけが残っている、と続けた。声音が高くなっていた。「わたしは生涯で、そのような話し方をされたことがない」、モロトフは抗議した。かれが極東問題に転じようとすると、「それで全部です。どうかわたしの見解を元帥にお取次ぎください」、とトルーマンはさえぎった。モロトフはスターリンに、ルーズベルトの政策は破棄された、と伝えた。その日、トルーマンははじめて原子爆弾の概要説明を受けた。3日後ドイツで、米軍と赤軍はソ連占領地区で初めて顔を合わせた。協定どおり、祝賀行事のあと米軍は引き揚げた。
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