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2009/05/15

Aliance - プロローグ テヘランの晩餐

  1943年11月29日
ー同盟国の利点は、唯一、持った方がましだということだ。   ウィンストン・チャーチル


 1941年8月から1945年8月までの4年にわたるこの物語は、映画的手法で、ほぼその真ん中のエピソード、ビッグ・スリー(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)が初めて顔を合わせたテヘラン会談の一場面から始まる。
 豪勢なロシア料理の晩餐会の席上、スターリンは意識してチャーチルを挑発し続ける。チャーチルは我慢していた。スターリンは、ヨーロッパ西側での第二戦線開設の英国側の遅延に、大いに不満を持っていたのである。英国はドイツに対する隠れた愛着があるのではないか、「柔軟和平」を持ちかけるつもりだろう、とスターリンが言及したときでもチャーチルは抑制した。
 1940年に首相となったチャーチルは、ルーズベルトの友情を得るために心血を注いだ。一方、ルーズベルトの目的は、スターリンの信頼獲得にあり、この疑り深い独裁者に、自分のことをいささかなりともイギリス寄りと目されるような言動は絶対に取るまい、と心に決めていた。チャーチルから提案のあった英米二国の予備会談を断ったルーズベルトは、テヘランのソ連公使館を訪れて、スターリンと二人だけで会っていた。1940年、独ソが手を握ったため、ヒトラーと単独で戦う羽目に陥ったことのあるチャーチルとしては、このことが面白い筈はない。
 晩餐の終わりに、ルーズベルトの首席補佐官、ハリー・ホプキンスがソビエト軍のために乾杯をした。それに応えてスターリンは、ドイツ軍の参謀将校の話をした。少なくとも5万人、いや10万人の高級将校を即決で射殺しなければならない、と述べた。
 チャーチルは切れた。「その考えは英国の正義の感覚に合わない。ナチであろうがなかろうが、だれでもその場で銃殺隊の的になって良いわけはない」。スターリンは、「5万人は殺されなければならない」ともう一度呟いた。チャーチルは、「わが国の名誉がそんな侮辱で汚されるくらいなら、この場でわたしを射殺してくれ」と大声を出した。ルーズベルトは軽口でことを収めようとした。「こんな風にいえませんかね、5万人の戦争犯罪人を処刑するかわりに、もっと少ない数、たとえば4万9千人を・・」。
 チャーチルはゆっくりと部屋を出て行った。何年振りかで、だれかがスターリンを見限った瞬間だった。隣の部屋で、かれは背中にだれかの手を感じた。振り返るとスターリンと外務大臣のモロトフがいた。かれらは大きく笑って、これはただの冗談だよ、と言った。チャーチルは、クレムリンとの決別が戦争遂行にどういう影響を及ぼすかを知っていた。かれはテーブルに戻った。
 「わたしの片側には巨大なロシアの熊がいた。反対側には大きなアメリカ・バッファローが居た。その間にみすぼらしいイギリスのドンキーが坐っていた。それがただ一人・・帰り道を知っていたのだ」とチャーチルは記録した。
 三人は、戦うことと同時に、あとに続く平和の枠組みを作ろうとしていた。前大戦と違って、一回かぎりの講和会議で結論は出ず、その過程には5年を要した。戦争に勝つために隠されていた相違点が、新たな世界が姿を見せるにつれて表に現われだした。戦後60年が経過した。三巨頭がいかにして同盟を組み、それを活用し、またそれを維持できなかったか、については、高いレベルでの国際政治の第一級の研究課題となるのである。
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