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2009/06/06

Alliance - 20 ヤルタ

 マルタ、クリミア
 1945年1月30日ー2月15日
ーそれがわたしのできるベストのことだ。   ルーズベルト


Ⅰ 到 着
 2月2日午前、ルーズベルトの乗艦した重巡洋艦、クウィンシーが、マルタ島のヴァレッタに入港した。スピットファイアが空に舞い、英国軍楽隊が「スター・スパングルド・バナー(米国国家)」を演奏した。イギリス巡洋艦、オリオンが通り過ぎるとき、ルーズベルトは艦上のチャーチルをみつけた。リーダー二人はたがいに手を振った。
 二人の到着前、二国の幕僚長たちは戦争計画会議を数度開催していた。ライン川進撃の日程が討議され、勝利の日付を6月20日とすることが合意されたが、ソ連が4月中旬に早めることも考えられた。イギリスは日程を早めようとしたが、アメリカはより広汎な戦線からの接近を主張し激論となった。
 ルーズベルトはマルタでのイギリスとの会談にあまり積極的ではなかった。チャーチルはサミットでの議案、日程を予め米英で決めておきたかったのだが、ルーズベルトはそれを回避した。イーデンは、ルーズベルトがイギリスの頭越しにスターリンと決める場面がないか懸念した。ルーズベルトは、ほかの連中と同じように、スターリンを出し抜けると思っていた。ヤルタで、かれはスターリンの国際連合に関する同意と、極東におけるソ連参戦の確約を望んでいた。
 スターリンがヤルタにやってきた目的ははっきりしていた。ロシアを列強の一員と位置づけることの証明と、ドイツからみたび攻撃を受けないことの保証のため、東欧で赤軍が征服した地域を安全保障地帯として維持することの確認である。
 しかし同盟国のなかで英国の国力は最低であり、アメリカ人もロシア人も、将来は自分たちの帆に順風が吹くと感じていた。チャーチルは自分の持ち物にしがみつく「過去の人」という様相にあった。

Ⅱ 2月2-3日
 2月2日の夜、25機の飛行機が、700人に及ぶ米英人を乗せて、地中海、エーゲ海、黒海の上空を越えてクリミア半島のサキ飛行場に到着した。ルーズベルトは衰弱して、病人に見えた。飛行場からヤルタまで128キロの渓谷、山道のドライブがあった。ルーズベルトは破壊された建物、燃え尽きた列車や残骸となった戦車など、戦争の惨禍を初めて目にした。チェホフとの連想で有名な保養地のヤルタは、ドイツ軍が撤退する前の戦闘で徹底的な被害を蒙った。NKVDの4個連隊がこの街を警備し、高射砲陣地が設置され、160機の戦闘機が配備されていた。
 ルーズベルト一行は、リバディア・パレスに陣取った。以前の皇帝たちのサマーハウスで、マーク・トウェインが訪れたこともある。ルーズベルトは1階のスウィート、ルーズベルトとハリマンの娘たち、カトリーンとアンナは相部屋に入った。マーシャルは皇帝の寝室、キング提督は皇后の部屋を占領した。アンナは部屋で南京虫をみつけた。
 イギリス人は、海岸を下った皇太子用のゴシックとモロッコの混合風の建物に入った。サラ・チャーチルは母親に、「-朝7時半ころに寝室の脇の廊下を見ると、三人の元帥が一杯のバケツの水に行列を作っているのです・・」と手紙に書いた。ここでも南京虫が出没した。
 スターリンは、ラスプーチンを暗殺した男が所有していたヴィラに落ち着いた。本格的な庭園のなかに建物があり、邸の部屋数は20くらいだった。これら三つの邸のうしろには雪を頂いた山々が聳えており風を防いでいた。黒海が前方に広がり、街は、林、葡萄畑、果樹園、砂利浜に囲まれていた。
 朝、昼、晩とキャビアが出た。写真班として同行したホプキンスの息子は、何とかパントマイムで、朝食に卵料理を好むということを伝えることができた。翌朝、1ダースの目玉焼きが届けられ、キャビアが一皿添えられていた。
 
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