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2009/06/05

Alliance - 19 赤いブルース

 ロンドン、ワシントン、モスクワ、アテネ、パリ、重慶
 1944年11月ー1945年1月
ーこの前のときと同じように,全ては、すぐばらばらになるだろう。   チャーチル


 太平洋はうまく進んでいた。米軍はフィリピンを奪回し、日本海軍はレイテ湾でまた敗北した。ルーズベルトの健康悪化は、自分の生命と戦後の構想造りとどちらが早いか、という様相を呈してきた。
 ロンドン在住ポーランド人の超タカ派、スターリンの冷酷さ、西側の支持の欠如の狭間にあって、ミコワイチクは辞職した。その秋、モスクワの米大使館代理大使、ジョージ・ケナンが書いたように、ソ連は中欧、東欧で抜きん出た力をつけ、西側が「協力」と呼んだ曖昧な政策をとり始めた。ケナンは、古風な言い方で「第一にテイキング、第二にギビングである」と言った。「ロシアがそれをやろう、と思ったら、だれもかれらのテイキングを止められない、それをやらない、と決めたら、だれもかれらのギビングを押しつけられない」。しかし、あるときスターリンはギビングを行った。精強なギリシャ共産軍が、ロンドンが支持する政府から権力奪取を試みたとき、モスクワは援助を当てにするな、と通告した。ギリシャはソ連にとって限界部分であり、ルーマニアに支配権が認められるかぎり、ギリシャ共産党を犠牲にしても構わなかった。アテネでは市街戦がはじまり、左翼勢力が浸透した。イギリスはイタリアから増援部隊を送った。共産主義を阻むため西側が戦った唯一の出来事となった。チャーチルが巡洋艦、アジャックスに乗って現地に赴き、アテネ大主教、ゲオルギス・パパンドレウ首相、エラス共産党代表を一堂に集めて騒擾を調停した。
 こういった事態は、アメリカの姿勢とはほど遠いものだった。イギリスの帝国主義傾向、チャーチルの好戦性、勢力圏という概念、これらの過去の懸念が復活した。新しいアメリカの国務長官、ステティニアスはイーデンに、ポーランドとギリシャの問題が合衆国国民を憤慨させている、と告げた。12月、ドイツ軍25万がアルデンヌで大反撃を開始した。連合軍はライン方面への移動に遅れていた。クリスマスになってドイツへ向かっての進軍が再開した。東部では、赤軍は着実にドイツ国境に向かっていた。
 ド・ゴールは1960年代末まで、自身が続けた政策のとおり、ワシントンとモスクワの間で独自の勢力を維持するつもりだった。かれはドイツで占領地区を手に入れ、有利な国境を獲得する土台も得た。西部戦線の最後の戦闘に、仏軍8個師団が軍備をして参加することも合意された。年末、かれはモスクワを訪れた。戦後、ヨーロッパの小国は、ソ連の支配を避けるため、またフランスのまわりに集まってくるだろう、イギリスは島国だし、アメリカは遠い、と思っていた。示された友好条約案は気に障るものだった。一旦蹴ったド・ゴールは二度目の案に署名した。
 1945年1月、ポーランドでは、資産分割、土地の分配で農民の支持を得たため、ルブリン委員会が自らを暫定政府と宣言した。スターリンは即座にこれを承認した。国境変更で、ソ連は約18万平方キロの領土と1千万の人口を新たにポーランドから獲得し、ポーランドは面積約7万平方キロ、人口1千5百万の人口の地域を得た。圧倒的多数はドイツ人であり、その多くは西へ逃れた。ヨーロッパが経験した最大級の人口移動だった。
 モスクワは、バルト三国を併合し、フィンランドを奴隷状態においた。ブルガリア、ルーマニアはソ連圏に入り、ハンガリー、チェコスロバキアも危うかった。チトーはユーゴスラビアをまとめつつあり、アルバニアも解放戦線が権力を握った。オーストリアでは、テヘランで決まった中立が守られた。ドイツとの併合を大歓迎した国、というよりも、ヒトラーの最初の犠牲者という形で扱われることになった。
 ルーズベルトは、戦闘が終了次第、できるだけ早く兵士を復員させるという方針だった。チャーチルは、米軍が撤退して、フランスがまだまともな軍隊を編成していないで、ロシアの鼻先でだれが西ドイツを守るのですか?と疑問を呈した。「前回と同じように、すべてがばらばらになるでしょう」。クレムリンと波風を立てない、これがルーズベルトの望みだった。
 ダンバートン・オークスでは結論が出ぬまま終了した。グロムイコは、紛争問題の決定における全員一致の原則に固執した。米国務省は、全員一致原則はクレムリンの軍門に降ることだ、と警告した。ステティニアスは、早期の結論の必要性を強調した。この緊張と先行き不透明の空気が明らかに、次のビッグスリー・サミットを必要とさせた。地中海、エルサレム、と場所の候補が上がったが、飛行機嫌いのスターリンはクリミア半島にこだわった。それはビッグスリーとしては二度目の会談だったが、最後のものとなった。背後には、冷たい戦争の輪郭がかなりはっきりしてきた現実があった・
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