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2009/06/04

Alliance - 18 パーセンテージ

 モスクワ
 1944年10月9-18日
ー合衆国は自分の権利ばかり主張し過ぎる。   スターリン


 1944年10月9日深夜、チャーチルはクレムリンにいて、よからぬことを企んでいた。暗号名、トルストイと名づけたスターリンとの二国会談に臨んでいたのである。かれは、戦後も英国は地中海のリーダーにならなければならない、という信念を持っており、スターリンもこのことは認めていた。アメリカ人の反感を買わぬため、あからさまに、「勢力圏の分割」という言葉は使わないものの、イーデン、モロトフを交え、東欧、バルカンでの対ソ、力関係のバランスをパーセンテージで示す交渉を行っていた。
 ルーマニアはソ連90%、ギリシャは英国90%、あたりは双方で問題がなかったが、チャーチルがブルガリアにロシア、75、ハンガリー5分5分と書いた紙をみせると、スターリンは、少し吟味してから青鉛筆でチェックマークをつけて戻した。チャーチルは受け取らず長い沈黙が続いた。チャーチルが口を開いた。「何百万もの人々の運命をこんなに無雑作に決めてしまっていいでしょうかね?燃やしましょうか?」「いや持っていてください」、スターリンは答えた。問題は、イーデンとモロトフに乗っ取られた。ユーゴ、ハンガリー、ブルガリアをめぐって際限のないパーセンテージの話が続いた。
 米大使のハリマンは、クレムリンの夕食会で、チャーチルの思惑に気づいた。10月12日午前、チャーチルを訪れたが、かれはベッドでスターリンあてに手紙を書いているところだった。チャーチルが内容を読み上げると、ハリマンは、その構想にルーズベルトは確実に異議をとなえるだろう、と発言した。イーデンが入ってきた。イーデンはパーセンテージが書かれてはならない、と言った。
 ワルシャワ蜂起は1週間前にドイツ軍に降伏して終わった。チャーチルはこの機会にポーランド問題も解決しようと、ミコワイチクをモスクワへ呼んだ。ソ連政府の迎賓館でミコワイチク一行は、スターリン、モロトフ、チャーチル、イーデン、ハリマンと会った。ミコワイチクは、ロンドンにある内閣は、戦前の領域を回復し、東欧における原料供給と文化のセンターにならねばならない、と主張した。ルブリン・グループを意識して、自分の目的は「ポーランドとロシアの協定の作成であり、ロシアと外国人の影響下にある一握りのポーランド人との協定の作成ではない」と言った。
 カーゾン・ラインがテヘランにおける既定事実として押し付けられた。ルーズベルトと会ったとき、ルーズベルトがこのラインを支持しない、と自分に話していたことを想い起こして、ミコワイチクはチャーチルとハリマンを見た。モロトフを否定して貰いたかったのだ。ハリマンは下を向いた、チャーチルが静かに、「わたしがそれを確認します」、と言った。「あなたがたはテヘランでわたしたちの運命を決めた」、ポーランドのリーダーは反抗した。「ポーランドはテヘランで救われたのです」、チャーチルが答えた。
 10月11日、イギリス大使館でスターリンが夕食を共にしたことは、英国の社交的大成功だった。晩餐は英国式だった。スターリンが、どうしてもわからないのは、西洋人はなぜウィスキーを水で薄めて飲むのか、ということだった。チャーチルは「われわれ三大民主国家が、自由、人間の尊厳、そして幸福という高邁な理想を実現したのだ」と話をした。ソ連とポーランドの良い雰囲気を重要視するのはそのためである。ポーランドはカソリック国であることを考えれば、ヴァチカンとの関係が紛糾しないような状況が必要である、と付言した。スターリンが質問した。「ローマ法王は何個師団お持ちですかね?」
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