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2009/05/31

Alliance - 14 ( つづき)

Ⅳ 12月1日
 ルーズベルトはスターリンとまだ親密な関係が築かれていない、と思っていた。それにはチャーチルを虐めることが有益だった。チャーチルのジョン・ブルかたぎ、葉巻、癖、がからかいの対象になった。スターリンはいっしょになって笑った。ルーズベルトは独裁者を「アンクル・ジョー」と呼んだ。スターリンもときどき冗談をとばすようになった。ドイツの分割案にさまざまな意見が出た。チャーチルは、とにかく諸悪の根源はプロシア、その陸軍と参謀本部にあると。ルーズベルトは五つの自治地域と、二つの国連監督地域(ハンブルク、キールの北部港湾地域と、ルール、ザールの工業地域)にわける案を出した。チャーチルはこれを「こまかすぎる」と言った。要はプロシアを孤立させることだ。スターリンは、ドイツ人は北も南も同じだ。オーストリアとハンガリーは切り離す、そしてドイツ民族はばらばらにして散らすのが良い、と言った。オーバーロードのあと、西側連合軍がどのように侵攻して行こうが、赤軍の進撃は、ヒトラーが斃れたあとのドイツの形を決めるのに、強力な地歩を占めている、ということをスターリンは知っていた。
 次の問題、それはもっと深刻だった。ポーランド‐チャーチルは東端をモスクワに広大な土地をもたらすカーゾン・ライン、代償としてポーランドにドイツ領土を提供するオーデル川とする案を提出した。スターリンは、温暖なバルト海の港、ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)を「ドイツの首根っこ」として抑えたい、と言った。
 基本的にルーズベルトは東欧問題に無関心だった。しかし、合衆国には、ポーランド系、バルト三国系の有権者がいるので、綺麗ごとの宣言は出しておこう、という態度だった。バルト諸国問題では戦争をしない、とルーズベルトはスターリンに保証した。1942年の国境問題に関する厳格な方向は忘れ去られ、大西洋憲章には全く触れられなかった。
 共同声明が4日後発表された。またもやそれは、ソ連の現実を無視して、「世界中の人々が暴虐に支配されることなく、その多様な欲求と自らの意識にしたがって自由な生活を送ることができるような社会」を目標としていた。ソ連の新聞には、同盟に対する論調に変化が現われた。新聞はテヘランにおける「歴史的な決定」を歓迎した。セルジオ・ベリアは、父親が、スターリンがゲームに勝ったと言った、とつたえたことを覚えている。スターリンは、オーバーロードの決行日と南仏上陸の約束を手にした。ポーランドでそこそこの領土をソ連が確保する基本的な了解を獲得した。そしてほかの二人の指導者の弱点と、見解の違いを知ることができた。
 1943年の終わり頃、NKVD(ソ連秘密警察)は、赤軍占領地域で、93万1千人を逮捕した。そしてソビエト国家に有害とみなされる少数民族の大量浄化(クレンジング)を開始した。イランから空路での出発をホプキンスと待ちながら、リーヒ提督は言った。「ねえ、ハリー、良い友だちを持ったもんだ、としかいえないね」。
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