--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/05/22

Alliance - 7      人民委員(モロトフ)の訪問

 モスクワ、ロンドン、ワシントン
 1942年5-6月
ーロシア人をイコール・パートナーとして仲間に入れずに、イギリス人とわれわれだけで世界をまとめて行くのは無理である。     ホプキンス

 
 ホプキンス、ハリマン、ビーヴァーブルック、そしてイーデン、みなモスクワへ行った。今度はスターリンが西側に使節を出す番だ。1942年5月20日、モロトフはスカンディナヴィア半島をソ連爆撃機で横切り、スコットランド経由、汽車でロンドンへ向かった。この車中で、かれはイギリスのスパイとして抱き込まれたという説がある‐これは後年のスターリンの死によって救われたのだといえる。かれは政権の仲間のなかでは高い教育を受けていたが、いささかどもりで、無表情、冷たい眼をしていた。
 モロトフの大きな懸案事項は二つ、第二戦線開設問題と国境問題である。スターリンはバルバロッサ作戦以前の国境と、フィンランド、ルーマニアの赤軍駐留基地を確認する秘密協定を要求していた。しかし、アメリカは国境問題については強い反対姿勢を示していた。英米同盟をつなぎとめるためには、イギリスも態度を変え、強硬姿勢を取らざるを得なかった。モロトフはスターリンと協議の上、イギリスの協定案を受け入れることにした。その第5条には、両国は「自らの領土拡張を図らない、相互の国内問題に干渉しない、という二つの原則のもとに行動する」とあった。協定があろうがなかろうが、赤軍に恒常的に物資が供給されるのであれば、ロシアは領土を超えて進出してしまえば良いのだ。第二戦線については、モスクワの希望する効果が期待できるかは疑問だが、「年内には」という返事だった。
 5月末、ルーズベルトは従姉妹のマーガレット・サックリーに、「あまり楽しくない、滅多に笑顔をみせないお客がくる」と伝えた。モロトフの爆撃機はワシントンに到着した。
 第1回の会合は、通訳をはさみながらのやりとりとなったので、ルーズベルトもいつもの調子が出ず、もうひとつ打ち解けてこなかった。ルーズベルトは、晩餐のカクテルを作りながら、米英、ソ連それに中国が戦後の世界を管理する、という構想の話をした。国際連合を補強するためには、ワシントン、ロンドン、モスクワで経済の枠組みを作ろう。協定から国境問題が外れたことを喜んでいる、とルーズベルトが伝えると、モロトフは、英国に敬意を表し、大統領の立場も充分考慮したからだ、と答えた。会談は昼食会などでも進んだ。
 大統領が、同席していたジョージ・マーシャル(陸軍参謀総長)に、スターリンに、第二戦線の準備ができていると伝えられるか?と質問した。将軍は鸚鵡返しに「イエス」と答えた。会談は「完全な合意に達した」、という趣旨の共同声明が作成され、作戦は「1942年」と、具体的に記載されることになった。モロトフは、同盟国側ではもっとも最近ヒトラーに会った人物だった。訊かれて、ヒトラーは共通理解に達するのに難しい人間ではない、と答えた。
 モロトフはワシントンからロンドンに戻った。米ソの声明を踏襲した英ソ共同声明が出された。チャーチルは別途単独でモロトフと会い、コミュニケに記載された「合意」と、現実行動との相異を率直に示す覚書を手渡した。上陸用舟艇の動員問題の厳しさが指摘されていた。
 モロトフが別れを告げるとき、チャーチルはその腕を取った。たがいに顔を見合わせた。モロトフの外観のなかから突然人間が現われた。かれにもプレッシャーがかかっていたのだ。
 
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
Comment

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。