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2009/05/21

Alliance - 6     結論未定(アンディサイデッド)

 ロンドン、ワシントン
 1942年1-4月
ースターリンは、あなたがた上層部の肚を嫌っている。  ルーズベルトからチャーチルへ。


 米英は、第二戦線とソ連の国境要求を封じ込めた。スターリンはほかの二人に対する圧力を緩めず、堅忍持久の態度を固守していた。戦線には大きな変化があった。日本はシンガポールを占領して、チャーチルに「わが歴史で最大の災厄」と言わしめた。北アフリカではロンメルが進撃し、ロシアでも国防軍が新しい攻撃を仕かけてきた。マッカーサーはフィリピンを撤退した。そうこうしているうちにも英米の不協和音が炸裂しはじめていた。
 イーデンは、かつて対独反融和主義者だったが、ソ連政府との実りある協力関係確立のために、スターリンの領土要求を認める立場をとった。アメリカのホプキンス、ハル、ウェルズなどは、戦後世界をニューディールを拡大したような民主主義の新しい秩序の世界とみており、平和の鍵は、自由貿易と、帝国主義システムの終焉にあると考えていた。一方、ニューディーラーのなかにはモスクワの信頼を得るため特別な行動を起こすものもおり、政府部内にはソ連のスパイが浸透していた。ルーズベルトはこれら疑わしいエージェントのリストを見せられたが関心を示さなかった。
 イーデンの執拗な意見により、チャーチルは方向を転じ、大西洋憲章は、モロトフ=リッベントロップ協定でロシアが得た領土を否定的に解釈するものではない、という意見をルーズベルトに伝えることになった。チャーチルは、またこのこと自体を、戦後のロシアの国境問題について、米英ソで協定を締結することを認めるようルーズベルトに伝えた、という形でスターリンにも報告した。
 ルーズベルトは動かなかった。別途、戦後の通貨協定の基礎となる作業が続けられていたが、前年、イギリス代表、ジョン・メイナード・ケインズが合意取得に失敗したあと、貿易と英帝国の特恵制度について新たな論争が巻き起こっていた。国境要求には反対していたが、ルーズベルトは、スターリンをうまく操縦できるという自信を持っており、直接ソ連と接触する動きに出ていた。
 ジョージ・マーシャル、ドワイト・アイゼンハワーなどアメリカの軍人たちは、早期に欧州で戦うことを望んでいた。ルーズベルトは、この年の中間選挙で苦戦することを予想していた。アメリカの世論は何かドラマティックな展開を期待していたのである。イギリスの世論の大部分は、スターリンは要求しすぎる、としていた。独ソ不可侵条約の記憶はまだ醒めていなかったのである。
 英国新任の参謀総長、アラン・ブルックは、アメリカのノルマンディ上陸作戦計画に大反対だった。ラウンド・アップ=スレッジハンマーと名づけられたこの作戦には、そもそも舟艇が不足しており、ドイツ空軍の脅威にさらされながら100キロ以上の海面を渡る必要があった。ブルックとマーシャルの間柄には、個人的な関係は別として、よそよそしいものがあった。早すぎた上陸がアメリカの世論を損なう危険もあった。ルーズベルトは焦点を太平洋に切り替えることにした。蒋介石と、米国軍事顧問、スティルウェルとが反目しているなか、日本軍はビルマを占領していた。しかし、ルーズベルト、チャーチル双方とも大西洋をはさんだ同盟国の間で不和は生じないよう、努力は続けていた。
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