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2009/05/20

Alliance -5     四人の交渉

 モスクワ、ワシントン、ロンドン
 1941年12月9日ー1942年1月14日
ー宣言といったものは代数のようなものだ。わたしは実用的な算術が好きだ。  スターリン


Ⅰ    西への航海
 真珠湾のあと、チャーチルが最初に考えたのはワシントンへ行くことだった。イーデンがモスクワに行っているときに、まずい、といいう意見もあったが、英国のトップが両首都に赴くのは「三大同盟国の重大問題解決に役立つでしょう」、とかれはジョージ六世に説明した。
 12月14日、かれは新鋭戦艦、デューク・オブ・ヨークに乗艦し、スコットランドから大西洋横断に向かった。アトリーを代理首相に任命した。チャーチルはルーズベルトに電報を打った。「さて、突然に戦争は勝つことになりました。英国は安全です」。
 現実問題として戦況は悲惨だった。ヨーロッパはファシストに支配されていた。Uボートは引続いて大西洋の海運を血祭りに上げており、イギリスはリビアのイタリア軍相手に得点を稼いでいたが、ロンメルが進攻してきた。日本は、フィリピン、蘭領東インド、マレーシア、シンガポール、ビルマ、香港を蹂躙しつつあり、チャーチルをプラセンシア湾に運んだプリンス・オブ・ウェールズをも撃沈していた。チャーチルは将官たちと戦略を練った。イギリスは北アフリカ上陸を最優先と考え、いずれにせよ、地中海に焦点をあてるべきだと考えていた。そこを英国の支配範囲と見ていたからだ。 
 米英が一致点を見出すのは難しそうだった。

Ⅱ    地図の書き直し
 チャーチルが西へ航海しているとき、イーデンは酷寒をついてモスクワに向かった。チャーチルがワシントンへ行くので、自分の影が薄くなる、と心配した。実際たいしたお土産は持たせられていなかった。かれは、過去チェンバレンと衝突して閣外に出た。枢軸国に対しては必ずしも強硬派ではなかったが、融和派とは一線を画した。自身、1935年にすでにスターリンと面会しており、ソビエト通と自認していた。
 モスクワ攻撃を退けたあと、スターリンは自信に満ちている、とイーデンはみた。スターリンは二つの条約案をイーデンに渡した。一つは軍事同盟に関するものであり、もう一つは欧州の戦後処理に関するものだった。ルーズベルトとチャーチルが、戦争の問題を超えて大西洋憲章を起案したように、スターリンは戦況の帰趨を無視して、戦後の領土確定問題に専心した。
 スターリンの案は、ドイツをばらばらにして、帝政ロシアの版図をしのばせる大規模な領土をソビエトに与えて安全保障地帯を確保させるもので、ソ連も署名した大西洋憲章には明らかに違反するものだった。またポーランドについては、ヒトラーと協定したときの国境をワシントンが同意してくれれば幸いだ、と言った。イーデンは、領土問題は三巨頭の会談まで待とうと提案した。ロンドンがバルト問題などのこまかい問題についても、いちいちワシントンにお伺いを立てないとならない、というイーデンの対応にスターリンはかなり傷ついたようだった。大西洋憲章は、世界制覇を目論む国家に向けて作られたと思っていたが、今やソ連に向けられているようだ、と皮肉を言った。イーデンは、単に時間が欲しいだけなのです、と答えた。
 イーデンの報告を受け取ったとき、チャーチルは海の上だった。1940年、英国はスターリンをヒトラーから切り離すため、代償として、バルト三国とポーランドの一部についてのモスクワの既得権を認めた。しかし情勢は変化した。英国はもう孤立していない。プラセンシア湾でルーズベルトが、終戦以前における領土問題の約定に対して反対したことを想起した。「当然スターリンに失礼があってはならないが、アメリカに対して秘密の協約をするわけには行かない」、そのために会談が不成功に終わってもやむを得ない、とチャーチルはイーデンに打電した。

Ⅲ    ワシントンのクリスマス
 スターリンがイーデンにさようならを告げたころ、デューク・オブ・ヨークは合衆国に近づいていた。ルーズベルトは妻に、お客がくる、とだけ言った。極上のシャンペン、ブランデー、そしてたくさんのウィスキーが用意された。
 ルーズベルトは、二回目のサミットが友好的に進むようできるだけのことをした。しかし、この二人は難しい決定を避けたので、それだけ将来の不協和音のタネが蒔かれた。二人はたがいに部屋を行ったりきたりした。あるとき、ルーズベルトが車椅子でお客の部屋に入ってきたとき、お客は素っ裸でピンク色の身体になってバスルームから出てきたところだった。ルーズベルトが謝って出て行こうとすると、「大英帝国首相は合衆国大統領に何も隠すところはありません」、という返事が返ってきた。
 北アフリカからは朗報が舞い込んだ。しかしチャーチルは依頼人の立場に徹することにした。ルーズベルトの米・英・ソ・中の最高戦争会議の構想は陽の目をみなかったが、大西洋両岸の関係は進展した。これはのちのNATOに結びつく。チャーチルのいう北アフリカ攻撃は幕僚たちには不評だったが、ルーズベルトはこれを支持した。
 日本軍はフィリピンを攻撃していた、チャーチルの懸念は、かれらがシンガポールにまで来るかどうかだった。アメリカ側が驚いたのは、チャーチルの作戦計画が、アメリカの兵力を英国の防衛に利用しようとする部分を含んでいることだった。
 クリスマス・イブの夜、ルーズベルトはチャーチルを案内して、ホワイトハウスの庭にあるツリーの点火式に列席した。3万人が集まっていた。チャーチルは、「合衆国の中心にいて、わたしは自分が外国人であるとは全く感じていません。世界中が大変な闘争のなかに閉じ込められました・・一晩だけ英語世界の各々の家庭は、幸福と平和の輝く小島でなければなりません・・自由で公正な社会に住む権利が拒否されないよう、われわれの犠牲と勇気を以て邁進しましょう」、と挨拶した。翌日は議会で演説した。かれはVサインで締めくくり、議員たちは歓呼の声を挙げた。ニューヨーク・タイムズは「新しいヒーロー」と謳った。
 チャーチルはオタワを訪問した。帰りの汽車のなかで「さあ、1942年だ!しんどい年、闘争と危険の年、勝利への長いみちのりの年だ!」と記者団に語った。
 ロンドンでは、イーデンがモスクワとの妥協点を説明しながら、戦時内閣と戦後のソ連の国境問題を協議していた。かれはチャーチルに電報を打ち、1941年の国境を認めるよう、ルーズベルトと協議することを要請した。チャーチルは、戦後の欧州をモスクワが支配する、という考えを拒絶した。戦後、ソ連は援助が必要になる筈で、いずれにせよ米英が主導権を取ることになるだろう、と思っていた。
 
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