--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2010/11/08

Human Smoke 37

エレノア・ルーズベルト「マイ・デイ:エレノア・ルーズベルトのコラム選集、1936-1962」
 エレノア・ルーズベルトは「マイ・デイ」というタイトルで新聞のコラムを連載していた。「ついに一撃がくだされました。わたしたちは攻撃されたのです」、彼女は記した。
 「わたしたちは文明のルールにしたがっている国民なので、対処するには少し時間がかかるかも知れません。しかし最終的にこの国がどうなっているかについてはまったく疑問がありません」。それは1941年12月8日だった。

NYT 1941年12月9日
NYT 1941年12月8日
ピーター・H・アイアンズ「戦争における正義」

 警察はニューヨークの五つの特別区で営業する日本料理店のすべてに手入れをした。1941年12月8日のことだった。店のお客は食事を済ませることが許され、警察は、従業員と店主たちを自宅まで護送した。FBIはリストに載っている人々の検挙を始めた。抑留者の一人は銀行員、二人は絹の輸入業者、一人は真珠の輸出業者、もう一人は1922年にニューヨーク大学を卒業した医者だった。医者は、妻と娘と一緒に住んでいるパーク・アベニューの自宅で拘束された。「不幸な出来事だ」とかれは言った。FBI捜査官の一人が記者連に述べた、「いまは戦争なのだ、ワシントンでは検閲が始まっている。何も新聞には喋るなと言われている」。
 その日の終わりまでに全国で数百人の日本人が拘束された、そしてもっと大勢が逮捕さるる見込みである、とビドル司法長官が語った。抑留者は多分空家になった陸軍の兵営二箇所に収容されるだろう、すでにイタリア人とドイツ人が捕まっている、と言った。フォート・ミスラにはイタリア人1000人、ノース・ダコタ州のフォート・リンカーンには300人のドイツ人が収容されている。「大変な人狩りが始まっている」、ロサンゼルス・タイムズが書いた。

ヘンリー・チャノン「チップス:サー・ヘンリー・チャノン日記」
マーチン・ギルバート「チャーチルの戦争記録」

 ウィンストンとクレメンタインのチャーチル夫妻は下院の緊急招集に出席した。1941年12月8日のことである。
 チップス・チャノンは、チャーチルの宣戦布告を聞いた。ルーズベルトは待つように言ったがチャーチルは急かした。チャーチルが演説している途中、だれかがチャノンの耳元で囁いた。チャーチルはついてるよ、「政府は7月にロシアに救われた。いま日本が同じことをしてくれたのだよ」。
 チャーチルは書いている:「感動に襲われて、わたしはベッドに入り、安堵と感謝で眠りについた」。
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。