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2010/11/30

Human Smoke 40

NYT 1941年12月31日
 マッカーサー将軍は日本の空襲によって破壊された、マニラの文化遺産のリストをつくった。63機の日本の爆撃機の行為は「文化を守る国際法のすべての手続きに対するまったくの違反である」、とかれは言った。「古く美しきサント・ドミンゴ教会は、その聖なる遺物とともにいまや瓦礫と化したが、黒衣の聖職者はその前で人々のために祈りを捧げている」。マッカーサーはつけ加えた、いつの日か、「復讐」の手だてが講じられよう。 
 しかし、マニラのほとんどは無傷だった。三年後に回復されたとき、アメリカの空爆と砲撃で街は真っ平になっていた。

ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン 1941年12月30日
NYT 1941年12月28日
タイム 1942年1月5日

 与党リーダーで一貫して参戦派の上院議員、アルベン・バークレイは、日本のマニラ空爆は最悪の愚行である、と言った。「東京のことを考えてみたまえ」、バークレイは言う、「人口はマニラの十倍だ、わが方の爆撃機が押し寄せて壊滅される日が必ず来るというのに」。それは1941年12月29日のことだった。
 もとの孤立主義派、バートン・ウィーラー上院議員もまったく同意見だった:「日本の行動から出てくる結論はただ一つ」、とかれは言う、「かれらは人間ではなく、半分しか開化されていない民族だ。将来もそういう扱いしか受けないだろう」。いまの悲劇は、爆撃機がイギリスにまわされていて、長崎、横浜、東京を爆撃できないことだ。
 ネブラスカの上院議員、ジョージ・W・ノリスは、日本の街は、「地上から焼き消してしまう」攻撃に向いている、と言った。「それがかれらの運命である」。

シカゴ・トリビューン 1942年1月1日
タイム 1942年1月5日

 真珠湾で戦傷を負った傷病兵の何人かがサン・フランシスコに到着した。それは1941年の大晦日だった。「まず歩けるものが出てきた」、とシカゴ・トリビューンが報じた、「高い灰色の船腹のタラップを、腕に包帯、松葉杖をつきながら降りてくる。続いて看護兵が担架の兵士を降ろし、救急車に運び入れた」。途中、一人の火傷を負った患者が息を引き取った。タイム誌のインタビューに一人の兵士が応じた。「最初ぼくたちはだれとも戦争なんかやりたくなかった。だけど、いまはやつらに一発お見舞いしたいですよ」。

NYT 1942年1月1日
蒋介石「演説集」
NYT 1942年1月1日 日本の首相、東条英機大将は、大晦日のメッセージを出した。「戦争はいま始まったばかりである」。
 蒋介石総統も大晦日のメッセージを出した:「時きたらば、まずは海と空からわれらの敵に懲罰を与え、最終的には地上の兵力を抹殺するだろう」。
 そしてヒトラーも。「ユダヤ=ボリシェビキに対する偉大なる闘争の第一年度は終わった。そして二年目が始まろうとしている。国民の生命のため、日々の糧のため、またその未来のために戦うものには勝利が訪れる。しかしユダヤ的憎悪に動かされて、この戦いで人類を抹殺しようとするものは破滅を見るだろう」。
 ルーズベルト大統領は祈りを求めた。
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2010/11/25

Human Smoke 39

ハロルド・ニコルソン「戦争の日々、1939-1945」
 サイゴンから飛び立った日本の急降下爆撃機がプリンス・オブ・ウェールズを沈めた。この戦艦は、チャーチルがルーズベルトと大西洋憲章に調印するために乗った船だった。乗員はその半数が死んだ。1941年12月10日のことである。
 オックスフォード・サーカスを横断していたハロルド・ニコルソンは大きな掲示を見た:プリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈さる。交差点は人の波で埋まった。「急いでビフテキ食べないと」、とニコルソンは日記に書いた。「シェリーを一杯やって元気を出そう」。

ジョン・へインズ・ホームズ「独白録」
NYT 1941年12月15日 
 ニューヨークのコミュニティ・チャーチで平和主義者の劇作家、ジョン・へインズ・ホームズは、真珠湾以後初めての説教をした。「国益を守るアメリカ人にとって何よりも問題があることは、報復、復讐、懲罰、敵討ちです」。「このような行動からは何も善いことは得られません。ただ災厄と途方もない破滅をもたらすだけです」。かれは勝者が敗者と同じレベルに陥るローマの勝利についての聖アウグスティヌスの言葉を引き合いに出した。そして「わが世の文明の貴重な宝がいま失われようとしています」、と言った。1941年12月14日のことである。

マーチン・ギルバート「チャーチルの戦争記録」
 チャーチルは戦争の今後の展開について参謀長たちにメモを書いた。「日本人に自分たちのやったことを思い知らせるためには焼夷弾をつかって日本の都市を燃やすことがもっとも有効だろう」。1941年12月20日のことだった。

ライフ 1941年12月22日
 雑誌ライフは日本人と中国人の見分けかたについて記事を載せた。1941年12月22日のことだった。 中国人はまっすぐな鼻梁と薄黄緑の肌を持っている。そしてどちらかといえば背が高くほっそりしている。一方、日本人はパグ(狆)のような鼻を持ち、がにまたであり、土着の祖先の体形とも似ていない。「現代日本人は有史以前に日本列島を侵略したモンゴロイドの子孫で、その前から住み着いていた原住民と混交した」。この記事の次に掲載されていた写真は、日本の首相、東条英機のものだった。

デヴィッド・E・リリエンソール「デヴィッド・E・リリエンソール日記」
モラン卿「チャーチル」
 テネシー渓谷公共事業体(TVA)理事長のデヴィッド・リリエンソールは合衆国上下両院合同会議でウィンストン・チャーチルが演説するところを聞いていた。スピーチは傑作だった。韻の踏み方、想像力のかきたて方、でかれがこれまで聞いた名演説のうちの一つ、とかれは思った。まるで「イギリスのライオンの怒号のように聞えた」。
 「日本は確実に罰せられる、とかれが保証したとき」、リリエンソールは日記に書いた、「満場が沸いたーこの戦いで初めて聞いた血戦への決意だった」。
 チャーチルは庭づたいにホワイトハウスへ戻っていた。最初自分のスピーチがどうだったか気にしていた。かれは主治医のモラン卿に訊ねた。大好評だったことがわかった。「わたしはいつも的を外さないのだ」、かれは言った。1941年12月26日のことだった。
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2010/11/15

Human Smoke 38

ロバート・スミス・トンプソン「帝国諸国と太平洋」
ジャン・ポートカー「サラとエレノア」
NYT 1941年12月8日
議会報告記録第87巻
ハナ・ジョセフソン「ジャネット・ランキン」
ロナルド・ベイリー/ナンシー・ラングレン「ジャネット・ランキン」

 ケープをまとい黒の腕章を巻いたルーズベルト大統領はエレノアを伴って、スピーチのために議事堂に着いた。銃剣をつけた陸軍と海兵隊の兵士が入り口を固めていた。大統領は、「いわれなき卑劣な攻撃」を受けて日本帝国に対して宣戦布告することを議会に要請した。多数の生命が失われている、とかれはつたえた。演説の終わりにかれは微笑し、手を振った。1941年12月8日のことだった。
 採決の前、弾劾演説が続き愛国詩が読み上げられた。「地獄からの殺人鬼、日本人はわれらののどに食らいついた」、オレゴンの議員、ホーマー・エンジェルは形容した。日本は蛇のように攻撃をしかけた、ジョージアの代表、ジョン・ギブソンが言った。かれらは滅ぶ、「そう、不正に攻撃された国民の総力で滅ぼされるのだ」。
 モンタナの平和主義の議員、ジャネット・ランキンが発言を求めた。「議長、聴いてください」。議長のサム・レイバーンは彼女を無視した。ジャネットは続けた、「議長、正式発言です」。彼女は無視され続けた。「坐んなさいよ」、だれかが言った。議員の一人が彼女につたえた、「やつらは本当に真珠湾に爆弾を落としたんだよ」。
 「何人死んだかが問題ではありません」、ランキンは言った。
 名前が呼ばれたとき彼女は起立した。「女性として、わたしは戦争には行けません」、彼女は言った。「そしてだれにも行かせたくはないのです」。
 彼女の票は唯一の否決票だった。ブーイングが巻き起こった。コートの預かり所のところで何人かの陸軍士官が彼女に突っかかった。「酔っ払っているんじゃないの!」彼女はそう言って電話ボックスに避難した。
 後刻、彼女は、同僚議員から満場一致で可決するよう圧力がかかった、という話をした。ー戦争の相手側は悪いに決まっている、不同意があることは我慢ならない、全員一致でなければー。違うのよ、ランキンは思った、わたしはデモクラシーのために一票を投ずるのです。

ザ・ネーション 1941年12月13日
 ザ・ネーションの編集者、フレダ・カーシュウェイは、真珠湾以後というコラムに書いた:
「宥和政策の結果がこれである」、と彼女は書いた。「恐怖はアメリカ人を一つにさせた。今日、われわれはお互いを、そして国を愛する。心のなかには、まとまりという豊かな感情が芽生える。血液のなかには敵に対する憎悪と軽侮の念が流れる」。

ハナ・ジョセフソン「ジャネット・ランキン」
 ウィリアム・アレン・ホワイトは自分の新聞、エンポリア・ガゼットに社説を書いた。それは下院でのジャネット・ランキンの投票に関するものだった。
 「ガゼットは彼女の立場にはまったく反対である」、ホワイトは書いた。「しかし何と大胆な行動だろうか!」ホワイトは言う、否決したい議員は百名ほどはいるはずである。「かれらはその勇気を持っていないだけなのだ」。それは1941年12月10日のことだった。
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2010/11/08

Human Smoke 37

エレノア・ルーズベルト「マイ・デイ:エレノア・ルーズベルトのコラム選集、1936-1962」
 エレノア・ルーズベルトは「マイ・デイ」というタイトルで新聞のコラムを連載していた。「ついに一撃がくだされました。わたしたちは攻撃されたのです」、彼女は記した。
 「わたしたちは文明のルールにしたがっている国民なので、対処するには少し時間がかかるかも知れません。しかし最終的にこの国がどうなっているかについてはまったく疑問がありません」。それは1941年12月8日だった。

NYT 1941年12月9日
NYT 1941年12月8日
ピーター・H・アイアンズ「戦争における正義」

 警察はニューヨークの五つの特別区で営業する日本料理店のすべてに手入れをした。1941年12月8日のことだった。店のお客は食事を済ませることが許され、警察は、従業員と店主たちを自宅まで護送した。FBIはリストに載っている人々の検挙を始めた。抑留者の一人は銀行員、二人は絹の輸入業者、一人は真珠の輸出業者、もう一人は1922年にニューヨーク大学を卒業した医者だった。医者は、妻と娘と一緒に住んでいるパーク・アベニューの自宅で拘束された。「不幸な出来事だ」とかれは言った。FBI捜査官の一人が記者連に述べた、「いまは戦争なのだ、ワシントンでは検閲が始まっている。何も新聞には喋るなと言われている」。
 その日の終わりまでに全国で数百人の日本人が拘束された、そしてもっと大勢が逮捕さるる見込みである、とビドル司法長官が語った。抑留者は多分空家になった陸軍の兵営二箇所に収容されるだろう、すでにイタリア人とドイツ人が捕まっている、と言った。フォート・ミスラにはイタリア人1000人、ノース・ダコタ州のフォート・リンカーンには300人のドイツ人が収容されている。「大変な人狩りが始まっている」、ロサンゼルス・タイムズが書いた。

ヘンリー・チャノン「チップス:サー・ヘンリー・チャノン日記」
マーチン・ギルバート「チャーチルの戦争記録」

 ウィンストンとクレメンタインのチャーチル夫妻は下院の緊急招集に出席した。1941年12月8日のことである。
 チップス・チャノンは、チャーチルの宣戦布告を聞いた。ルーズベルトは待つように言ったがチャーチルは急かした。チャーチルが演説している途中、だれかがチャノンの耳元で囁いた。チャーチルはついてるよ、「政府は7月にロシアに救われた。いま日本が同じことをしてくれたのだよ」。
 チャーチルは書いている:「感動に襲われて、わたしはベッドに入り、安堵と感謝で眠りについた」。
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2010/11/03

Human Smoke 36

ハリー・エマーソン・フォスディック「そのころの日々」
真実の歴史センター:WWⅡ(第二次世界大戦)
 反戦運動家、ハリー・フォスディック師は、リバーサイド・チャーチの塔にある書斎で、マイクロフォンを前にして坐っていた。かれはNBCラジオの毎週の国民の夕べの祈りをしているところだった。聖歌隊が「来たれ、来たれ、エマニュエル」を歌いおわったところだった。日付はまだ1941年12月7日だった。
 「このラジオを聴いていらっしゃるみなさんは、みなさんのことを嵐のなかに立つ木々のように思っておられるところでしょう」、とフォスディック師は語った。「今日その嵐はますます吹き荒れてきました」。
 アナウンサーが割り込んで、ルーズベルト大統領が、真珠湾攻撃を受けて閣議を招集したことをつたえた。ラジオはホノルルからの中継に切り替わった。「これはジョークではありません、本当の戦争なのです」、ホノルルは叫んでいた。中継はホワイトハウスに替わった。リポーターのH・R・ボーケージが、サンフランシスコから1300マイルの彼方で巨大戦艦が撃沈され、「米国海域で」日本の潜水艦が活動している、とつたえた。
 つい前日、ボーケージは日本の特命大使、来栖三郎とインタビューし、来栖は日本人の90%が戦争に反対しているーしかし、大多数は中国での戦いは支持している、と語ったばかりだった。ボーケージは、二年前、ベルリンの放送センターからヒトラーのポーランド攻撃開始をつたえたことを思い出していた。「そのときの感情とまったく同じものを味わった」。「国民全体に大打撃を与える」。
 聖歌とともに夕べの祈りが戻った。そしてボーケージが、大統領秘書のスティーブン・アーリーから、日本の天皇あてにルーズベルトが認めた書簡のコピーを手渡されたことを告げた。-そこには暗雲を追い払う手だてがまだ残されていることへの強い希みが述べられていた。
 ボーケージはマイクの前で、ルーズベルトの長い手紙を、穏やかな、歌うような口調で読み上げた。それはまるでお説教のように聞えていた。

ジョン・モートン・ブラム「モーゲンソー日記より」
 ヘンリー・モーゲンソーは、海軍長官のフランク・ノックスから真珠湾攻撃の損害報告を受けていた。「ノックスは何かに脅えているようだった」、とモーゲンソーは日記に書いた。「かれらは全艦隊を一箇所に集めたようだーこのちっぽけな真珠湾に全艦隊を。かれらとて説明がつかないだろうが」。

エドガー・アンセル・モウラー「勝利と苦難:わが時代の個人史」
 その夜のワシントン、エドガー・モウラーは眠れなかった。かれは思った、マニラのバーにいた男は正しかった!「海軍委員会の連中が日本艦隊の動向を知っていたのならば、なぜ、大統領も、戦争を見込んでいたノックス、スティムソン、ハルもそれを知らず、何の手も打たなかったのか?」
 そしてモウラーは気がついた:「合衆国への直接攻撃以外に参戦を強いるものはなかったのだ!チャーチルとTV宋が待ち望んだ『転換点』が来たのだ」。
 モウラーは結論づけた、日本の戦争屋たちが自由世界を救ってくれたのだ、と。

 フィリピンのルソン島にあるクラーク米軍基地に日本の空軍機が向った。パイロットたちは地上に駐機している一連の戦闘機とB-17空飛ぶ要塞を眺め渡した。爆弾がその半数を破壊した。1941年12月8日のことだった。
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