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2010/10/25

Human Smoke 35

NYT 1941年12月25日
ジャック・G・ヘンケルズ「12月7日、民間人も死んだ」(ホノルル・スター・ブルティン)

 6隻の空母から日本のパイロットがホノルル近郊の真珠湾に向って出撃した。1941年12月7日だった。
 かれらの攻撃は18隻の米国艦船を沈め、2000以上の命を奪った。撃ち落とされた日本のパイロットの一人は、一瓶のウィスキー、箸、乾パン、歯磨き粉、手書きのお守りを持っていた。
 お守りには爆発して沈んで行くアメリカの軍艦の絵が描かれていた。英語で、「You damned! Go to the devil!」と書いてあった。日本語では、「裁きの声を聞け!目を開け、おばかさん!」とあった。
 数十人のホノルルの民間人も死んだーアメリカの対空砲の誤射によるものだった。

W.アベレル・ハリマン、エリー・アベル「チャーチルとスターリンへの密使、1941-1946」
ウィンストン・チャーチル「大同盟」

マーチン・ギルバート「チャーチル伝」 
 チェカーズでの晩餐後、チャーチルはむっつりと、とりつく島もなく坐っていた。一緒にいたのは、ボディガード、個人秘書、それに二人のアメリカ人、ルーズベルトのヨーロッパ特使、アベレル・ハリマンと、米国大使のジョン・ワイナントだった。チャーチルの執事、ソウヤースがポータブル・ラジオを持ち込んだーハリー・ホプキンズのおみやげだったーかれらはニュースを聞いた。1941年12月7日のことだった。
 BBCのアナウンサーが、何か日本の空襲のことをつたえていた。ハリマンは、パール・ハーバーの空襲、と聞いたが、護衛のトンプソンは、いいえ、それはパール・リバーです、と言った。
 「首相は」、とハリマンは回想している、「無気力状態から醒め、ラジオをぽんと叩いて椅子から起き上がった」。チャーチルは大統領に電話をつなぐよう秘書に指示した。「大統領閣下、日本がどうかしたのですか?」、かれは訊ねた。
 「パール・ハーバーがやられた」、とルーズベルトは答えた。「みんな同じボートに乗りましたよ」。ワイナント大使が電話をとった。チャーチルは、かれがこんな風に言っているところを聞いた。「物事は簡単になりましたね」。秘書のマーチンも回想している。「ワイナントは、まぎれもなくアメリカが参戦したことで、大いに興奮していた」。チャーチルには、二人のアメリカ人がニュースを聞いて、「毅然とし、長い苦悩から解放された」様子に見えた。
 チャーチルはアメリカ行きを決めた。

ニューズウィーク 1966年12月12日
 その日午後、ジェームズ・ルーズベルトは父親の執務室に入って行った。大統領は静かだった。「かれは好きな切手の仕分けをして、貼り付けているところだった」。
 こちらを見もしないで、大統領はつぶやいていた、「それまずいよ、ちょっとまずいな」。
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2010/10/22

Human Smoke 34

ベティ・フウチン・ウィンフィールド「FDRとニュー・メディア」
トマス・フレミング「ニューディーラーたちの戦争」

 記者の一人が、ルーズベルトに、つたえられている戦争計画について訊ねた。「知らないね、それは」、ルーズベルトは返事をした。かれは漏洩問題を調査するよう命じた。FBIは、親ドイツ傾向の強いウェデマイヤーを訊問した。しかし、ウェデマイヤーは犯人ではなかった。-のちに、上院議員のバートン・ウィーラーは、陸軍航空長官のハップ・アーノルドが計画を策定し、シカゴ・トリビューンに持ち込んだのである、と言った。
 ウェデマイヤーは、ルーズベルト自身が計画の公表を企んだのではないか、と疑っていた。「さしたる証拠はなかったが」、とウェデマイヤーは歴史家のトマス・フレミングに数年のちに語った。「直観として、わたしはルーズベルト大統領が漏洩を許可したのだと思っている」。
 勝利の計画はだれが洩らしたにせよ、それは挑発的に作用した。日本の新聞の見出しに:「米国の対日、対独秘密計画暴露さる」、と掲載された。

ジョセフ・E・パーシコ「ルーズベルトの秘密の戦争」
デヴィッド・E・リリエンソール「デヴィッド・リリエンソール日誌」
エール大学法学部「アバロン・プロジェクト」

 中国の大使、胡適博士は書斎にルーズベルト大統領を訪ねた。1941年12月7日のことである。その朝、主治医から点鼻薬を処方されたルーズベルトは、大きな声で、前夜の九時に日本の天皇に送った書簡を読み上げた。ルーズベルトはしばしば読むことをやめて、自分の作文を讃えた。「これで天皇はこっちのものだ。これは素晴らしい文章だ」。
 裕仁天皇あて書簡は、長期にわたる途切れることのなかった親交に触れ、新展開とその「悲劇の可能性」に及んだ。結びは次のように書かれていた:

わたくしは、ここもと、わたくしと同様、陛下が、この暗雲を払拭することの緊急性に思いを致されますことを心から希っております。われわれ偉大な二国の国民のみならず、隣接諸国の人間愛の観点からも、伝統的な友好関係を回復し、世界のさらなる破滅と荒廃を抑止することは貴弊両国の聖なる義務である、とわたくしは信ずるものであります。

 ルーズベルトはここで一息入れた。「これは記録としてまことに立派なものだ」、かれは言った。
 胡適大使は別れを告げた。大統領は収集切手の仕分け作業に入った。デパートから毎週送られる収集家用の封筒がまた届いていたのである。
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2010/10/18

Human Smoke 33

ロイヤル・レオナード「わたしは中国のため飛んだ」
 ロイヤル・レオナードはアメリカで爆撃機の乗員を募集するため中国を離れた。1941年12月の初めだった。「シェンノートとわたしで日本の爆撃計画をすでに用意していた」、とかれは書いている。「アメリカ政府は少なくとも27機の、爆弾満載で航続距離2000マイルの新型軽量ハドソンを供給してくれることになっていた」。しかし、何か別のことがハワイで起こってしまった。「わたしたちの夢、長崎爆撃は実現しなかった」。

NYT 1942年4月22日 
日本ではクリスチャン平和主義者、賀川豊彦博士が、メソジスト神学者でガンジーの弟子であるスタンレー・ジョーンズから電報を受け取っていた。ジョーンズは太平洋で破局が起こらぬよう祈っていることをつたえ、同じことをするよう賀川に要請した。賀川は200名をしたがえて、夜も昼も祈り続けた。1941年12月1日のことだった。

アルバート・C・ウェデマイヤー「第二次大戦に勝者なし」
議会報告 1941-42
NYT 1941年12月5日

 シカゴ・トリビューンの記者にだれかがルーズベルトの勝利の計画の全文をリークした。
 トリビューンとその姉妹紙、ワシントンのタイムズーヘラルド(両紙とも反ルーズベルトで孤立主義)は大きな見出しを掲げた。
      FDRの戦争計画!
      目標は、1千万の動員
      その半数は、A.E.F.へ (A.E.F. とはアメリカ海外派遣軍の意味である)

 「この驚くべき書類は」、とトリビューンの記者は書く。「文明社会の全国民の運命を定める決定を示す。少なくとも二つの大洋、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸を巻き込む前例のない全体戦争の青写真である」。1941年12月4日付けの遅番に出たニュースである。
 原案のほとんどを策定したアルバート・ウェデマイヤーは狼狽した。「わたしがここ数ヶ月というもの、夜を日に継いで腐心して作った勝利の計画の核心の部分を、トリビューンの記者はそっくり出してしまった」、とのちにかれは記している。
 その計画は長期にわたる息の長い計画で、最初の陸上攻撃も1943年までは見込まれないものだった。それはドイツ国民に対する、飢餓、爆弾、宣伝による戦争だった。「枢軸国民の戦意は失われて行く、そして破壊活動、プロパガンダ、人命喪失で信頼が打ち壊される」。日本について、アメリカは「戦略的な手段」を使用して行く、とあった。
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2010/10/15

Human Smoke 32

マイケル・S・シェリー「米空軍の興隆」
ロバート・スミス・トンプソン「戦争のとき:フランクリン・デラノ・ルーズベルトと真珠湾への道」

 ルーズベルト政権の陸軍参謀長、ジョージ・マーシャルは自室で、新聞各紙ータイムニューズウィークザ・タイムスヘラルド・トリビューン、それに三つの通信社ーの記者にブリーフィングをしていた。「われわれは日本攻撃を計画している」、マーシャルは述べた。かれは中国の航空基地の話をした。そしてフィリピンには35機のB-17が配備されていること、まだ増強中であることを述べた。フィリピンからウラジオストックへの爆撃機を往復させることを考えている、と。目的は「その空域を制空権で覆うことにある」。秘密厳守のことと言った。1941年11月15日のことだった。

リチャード・N・カレント「スティムソンは日本をどう『あしらう』つもりだったか」
 ヘンリー・スティムソンが日記に書いている。かれと、ノックス、スターク、ハル、マーシャルは、大統領にオーバル・オフィスに集められ、ルーズベルトの持ちだした問題を討議した。大統領は、日本の攻撃が迫っている、来週の月曜日かも知れない、と述べた。「問題は、わが方にあまり損害のない方法で、いかにしてかれらに第一発を撃たせるか、にある」。スティムソンは書いた。「それは難しい話だ」。1941年11月25日のことである。

NYT 1941年11月29日
 帝国議会の議員、カサイ・ジュウジは、「日米間で平和的外交によって話がつかない問題などはない」、と言った。1941年11月28日のことである。
 翌日、ニューヨークのウェストサイド・インスティチューショナル・シナゴーグのラバイ、ハーバート・S・ゴールドスタイン師は、合衆国と日本の政治家代表のために祈りを捧げた。「二国のいさかいには、生命、血、安全の代償がともなうことに、かれらが気がつきますように」。
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2010/10/11

Human Smoke 31

フランシス・パートリッジ「太平洋の戦争」
ウィンストン・チャーチル「情無用の戦争」

 空の戦いを書いた作家のデヴィッド・「バニー」・ガーネットは週末をフランシス・パートリッジの家で過ごした。ガーネットの息子はロイヤル・エア・フォース(英空軍)の救助隊に入っていた。海中に漂流する飛行士をボートで救助する役割である。「バニーは息子を何とか危険な任務から解放したいと思っていた。かれ自身も色々な手で戦争の外側にいた」、とパートリッジは日記に書いた。
 彼女は割り切れない気持ちで夫を話をした。「自分の生活を守るために他人の息子を死なせるというのはどういうものかしら」。
 その夜、かれらはラジオの周りに集り、チャーチルのスピーチを聞いた。「かれは剣をがちゃつかせ、それを日本に向けた」。合衆国が日本と戦うのであれば、英国は時をおかず続いて宣戦布告する。チャーチルは、ドイツの「平和攻勢」についても警告した。
    世界を地獄に貶めた犯罪人が、捕り縄が近づいたとして、つかの間の勝利と
    不正に得た戦利品を手にして逃げ切ろうとしている。
 かれは言った。平和会談などもってのほかである:ヒトラーないし「ナチを代表するいかなる機関」とも交渉はあり得ない。「マンション・ハウスほかいたるところから大喝采が聞えてきた」、とフランシス・パートリッジは書いている。
 演説のなかでチャーチルは、血の河が流れている、と言った。ーユダヤ人と共産主義者の血の河が。「かれらは戦場で斃れる兵士と同じ、と見なければならない」。それは1941年11月10日のことだった。
 
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2010/10/09

Human Smoke 30

NYT 1941年10月26日
 ニューヨーク・タイムズの雑誌部門は、「狂信的、希望を失った日本人」という特集を組んだ。東京は、雁字搦めに統制されているようだ、と記事は綴った。ダンス・クラブは閉鎖された。スパイ、秘密警察、ドイツ人将校がいたるところにいる。電力節約のためエレベーターは動かず、街灯は消えた。タクシーは木炭で動いている。 
 記事といっしょに写真も載っていた。なかの一つに、メガフォンで指示をするリーダーのもと、女たちがバケツリレーをする訓練の風景があった。キャプションにいわく、「バケツ防空隊ー日本女性の戦闘訓練」。別の写真では男たちの一団がホースを操っていた。「防空訓練」とあった。1941年10月26日のことだった。

ユナイテッド・ステーツ・ニュース 1941年10月31日
 雑誌のユナイテッド・ステーツ・ニュースは、極東の地図を発刊した。長い赤く書かれた矢と、小さな赤い爆撃機群が地図のどまんなかの一点で交差していた。爆撃機は、グアム、シンガポール、ホンコン、フィリピンから飛んでいることを示していた。どまんなかの一点は東京だった。1941年10月31日のことだった。

ジョセフ・C・グルー「滞日十年」
 東京から大使のジョセフ・グルーが長い電報を国務省に送った。だれかによく内容を読んで貰いたかった。ワシントンのきびしい対日制裁が、日本の「ナショナル・ハラキリ」につながらないか、警告していたのである。「突然アメリカに対して危険で劇的な武力攻撃が始まる可能性がある」。それは1941年11月3日のことだった。
 翌日の日記にグルーは書いた:「もし戦争になるならば、歴史はあの電報をぜひ見逃さないで欲しい」。
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2010/10/07

Human Smoke 29

NYT 1941年10月18日
アルバート・C・ウェデマイヤー「第二次大戦に勝者なし」

 ルーズベルト大統領は、徐々に自分の新しい戦争計画、勝利の計画の内容を洩らしはじめた。1000億ドルを使って12万5千機の航空機を作る。合衆国の生産能力の半分は兵器生産にまわす。「信じられない数の戦車が作られる」、ニューヨーク・タイムズが報じた。1941年10月18日のことだった。
 ウォールストリート・ジャーナル紙のワシントン支局長、ユージン・ダフィールドは、戦車の意味をよく考えて、翌日長い記事を書いた。「戦車と兵器を強調することで、『勝利の計画』は、ドイツを屈服させるだけの長期戦、外洋封鎖を考えているものではないことを明らかにしている」、とダフィールドは書いた。この計画は、「18歳から45歳までの三人の一人」のアメリカ人を兵隊にするつもりだ、とかれは続けた。

NYT 1941年10月23日
 世界で三番目の大都市、人口650万の東京は、防空演習を行った。1941年10月22日のことである。
 「日本はアメリカなり他国なりにお世辞を使うことはない。戦争か平和か、充分に自分の力を心得ている」、とジャパン・タイムズ・アドバタイザーは社説に書いた。しかし、平和の可能性はまだあった。「問題は悪意のあるプロパガンダにある」、社説は書いている。英米の新聞はセンセーション好きの世論に迎合している。「大衆の心は、不信、猜疑、露骨な憎悪に満ち満ちている」。

リリアン・T・モウラー「ジャーナリストの妻」
 ジャーナリストのエドガー・モウラーはマニラのバーで、海軍委員会勤務の一人の男といっぱいやっていた。1941年10月の下旬だった。モウラーはドノバン大佐のスパイをつとめていた。
 ドノバンはモウラーに、「君は新聞記者として出入り自由になる」と語っていた。モウラーはこれまで、シンガポール、ジャワ、タイ、ビルマ、重慶、ホンコンに行っていた。いまかれはフィリピンの首都にいる。
 バーにいた海軍の男はアーネスト・ジョンソンといった。かれはサンフランシスコに娘が一人いる、と言った。かれはもう娘には会えないものと思っていた。「ジャップはわたしが逃げ出す前にマニラを落とすだろう」、ジョンソンが言った。
 「マニラを落とす?」、モウラーは言った。「それは戦争じゃありませんか」。
 ジョンソンはうなづいた。「ジャップは艦隊を東へ動かしている。多分真珠湾をやる気じゃないのかね?」。

 
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2010/10/03

Human Smoke 28

NYT 1941年8月23日
NYT 1941年9月2日

 日本の報道は、石油と航空燃料を満載した船舶のロシア寄港を猛烈に非難した。新聞、読売は、米国が「ウラジオストックまで、これ見よがしに日本の沿岸を航行して石油を運んでいる」と報じた。
 陸軍報道班長のマブチ・ハヤト大佐がラジオ放送した。イギリスとアメリカは日本に経済戦争を仕かけている、日本は「真綿で首を絞められている」。「外交交渉で平和的に決着しなければ、日本は力で包囲を破らなければならない」。それは1941年9月2日のことだった。

NYT 1941年9月6日
 アメリカ船、L.P.サンクレア号は9万5千バレルの航空燃料を積んで無事ウラジオストックに着いた。日本は合衆国に抗議をしたが返事はなかった。しかし、日本海軍は挑発行為に出なかった。1941年9月5日のことである。
 東京では、いつでも来る可能性のある空襲に備えるよう、市民に指示が出た。

ロバート・スミス・トンプソン「戦争のとき:フランクリン・デラノ・ルーズベルトと真珠湾への道」
 英軍極東司令部は、ダグラス・マッカーサーに、「日本を負かす法」というハウ・ツー・メモを送った。1941年9月19日のことだった。
 メモは、中国と仏領インドシナに「破壊組織」を設けよ、というものだった。組織は、プロパガンダ、テロ、サボタージュを武器として、「住民の不満を煽り、大規模な反乱に結びつける」。タイで組織は「広がらなければならない」、とメモは書いた。「日本人個人の暗殺も視野に入れること」。そしてウラジオストックの空軍基地は、日本の「死活の」範囲内にあると。
 メモは言う、政治的手段が失敗すれば「われわれは戦いを覚悟しなければならない」。
 
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