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2010/09/27

Human Smoke 27

NYT 1941年8月15日
 航空燃料を満載した一隻のタンカーがロサンゼルスを出発した。1941年8月14日のことだった。
 タンカーは日本を通り過ぎてロシアのウラジオストックに向っていた。ルーズベルト政権の閣僚で、石油の調整を担当しているハロルド・アイクスー東京を空爆してシベリアまで飛行する提案をしたーが公表した。同様に数隻ーうち何隻かはアメリカ籍、何隻かはロシア籍のタンカーがこれに続く。日本海を隔てて直接日本と対峙するウラジオストックは航空燃料に恵まれる。一方日本はどこからも得られない。日本政府はアメリカ政府に公式な抗議を行った。

NYT 1941年8月25日
NYT 1941年8月26日

 チャーチルは、自らの偉大なる友と呼ぶルーズベルト大統領との会談を終えてスピーチを行った。1941年8月25日のことである。
 そしてしばらくヒトラーに触れ、のち日本の話をした。ルーズベルト大統領は、何とか日米が合意に達するよう苦心を重ねておられる、と断言した。「われわれはその交渉が成功に終わることを祈ってやまない」。「しかし、わたしが言わなければならないことは、もし、その望みが断たれれば、われわれはもちろん、躊躇なく米国側に立つ、ということである」。
 日本の日日新聞は、「チャーチルのいう平和解決というのは大嘘である」、と書いた。
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2010/09/23

Human Smoke 26

NYT 1941年8月8日
NYT 1941年8月9日

 日本人は自分たちが包囲されていることを実感していた。1941年8月7日、ジャパン・タイムズ・アドバタイザーに次のように載った。「まずシンガポールに大基地が建設され、英本国と英連邦から大軍が増強されている」。「そしてここを核として、米軍基地と連なるフィリピンの西方、南方へマレーとビルマ方面へのおおきな環(リング)が形成されている。それはタイの半島で途切れているだけである。いまその部分、ラングーンへ向う狭隘部も包囲網に組み込まれようとしている」。
 ルーズベルトのいう「太平洋の壁」とか、英米連携の包囲網には正当性は認められない、と新聞は続けた。
 国務長官、コーデル・ハルは、そんなことは聞いたことがない、と言った。日本が包囲されている、というのは自分で自分を包囲している、ということではないのか、と。

ウィンストン・チャーチル「第二次世界大戦第三巻:大同盟」
モーリス・マートロフ、エドウィン・M・スネル「連合軍戦略計画1941-1942」
NYT 1941年8月15日
ヘンリー・H・アーノルド「『ハップ』アーノルド将軍の第二次大戦日記」
ロバート・E・シャーウッド「ルーズベルトとホプキンス:内緒の話」

 チャーチルとルーズベルトは大西洋上で密かに会った。1941年8月9日のことである。チャーチルはスカパ・フローからプリンス・オブ・ウェールズー英国の最新鋭軍艦の一つーで出港した。艦内では、ホーンブロワー海軍大佐に読みふけり、「とっても面白い」と言った。フランクリン・ルーズベルトはUSSオーガスタに座乗し、ニューファンドランド沖合いでチャーチルを待っていた。プリンス・オブ・ウェールズの後甲板では英米の両国旗を飾った説教壇で、二人の従軍牧師がミサを行った。チャーチルはすっかり感動した。チャーチルとルーズベルトはいっしょにアップル・パイを食べた。ルーズベルトの方の乗組員はイギリスの兵員にギフト・ボックスを配った。それぞれには、200本のタバコ、リンゴ、オレンジが少し、それにチーズが半ポンド入っていた。ルーズベルトは、ハイドパークでクリスマス・ツリーを育てて、それを売るつもりだ、という話をした。かれらは数日間話し合い、お世辞を言い合った。その間、それぞれの随員たちーカドガン、ビーバーブルック、チャーウェル、ハップ・アーノルド、国務次官のサムナー・ウェルズーも交歓し合った。すべてが終わったとき、かれらは、かれらに不釣合いな書面を記者たちに渡した。
 書面は、大西洋憲章と呼ばれるものだった。それは八条からなり、「平和を愛する諸国民」という言葉が使われていた。カドガンが起案し、チャーチルが完成し、ルーズベルト側が二三を加えたものだった。奇妙なことだが、八項目の憲章の原則は、ルーファス・ジョーンズの「ダイナミックな平和」のパンフレットの六項目からほとんどが取り入れられているようだった。
 ルーファス・ジョーンズは、すべての国民は「基本的原料について平等な入手が約束される」としているが、大西洋憲章では、「貿易と世界の原料について平等な条件が約束される」となっていた。ジョーンズの表現で「各々の国家は、国民の望む政体造りに自由を保有する」となっているものが、憲章では「各々の国民はそのもとで暮らす政体の形を選ぶ権利を有する」となっていた。(この部分は、ガンジーとネールがとくに注意深く読んだ。)ジョーンズは、いかなる国家も「その目的のために軍事力を行使」してはならない、と言い、憲章は、「世界のすべての国家は、実在論的理由によると、精神論的理由によるとを問わず、実力行使を放棄しなければならない」と述べている。
 平和に関する条項を別として、チャーチルが大西洋会談で望んだのは、日本に対するアメリカのもっと厳しい言葉だった-日本がこれ以上南進すれば、英米が並行して対日宣戦布告に踏み切ることをいとわない、といったようなー。そしてもう一つは対英武器援助を削減しないことの確約だった。前航空相のマックス・ビーヴァーブルックを連れてきた理由は、その武器貸与問題にあった。ロシアが現状激しいドイツの攻撃を受けているてめに、スターリンが武器貸与の流れの方向を変えないことの確証が必要だったのである。重爆撃機はまたもやリストの一番上に乗った:「イギリスはわが生産能力以上の6千機を要望している」、とアーノルドが書いている。
 チャーチルは大成功だった。かれはロンドンに電報を打った。「ロシアは粗末な食事の方のお客になった」。ルーズベルトは各自に対する軍需物資レンド・リース(武器貸与)の増額50億ドルを諮っている。「即刻ライフル15万挺が送られてくる予定だ。重爆撃機と戦車の数の見直しにも期待が持てる」、とチャーチルは綴った。「みなに、わたしが良いお使いをしてくれた、と思って貰えるはずだ」。
 ルーズベルトのスピーチ・ライターの一人、ロバート・シャーウッドが書いている:「ホルダー付きシガレットと長い葉巻が同じマッチから火を点けたことは間違いない」。
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2010/09/19

Human Smoke 25

NYT 1941年7月26日
 1941年7月25日、ニューヨーク州ハイドパークから大統領命令が発せられた。
 「大統領の無制限の国家非常事態宣言に基づき、大統領は、1941年6月30日付の欧州諸国に対する資産凍結措置と同様に日本の資産を凍結する大統領命令を本日発令した」。
 英米合同の石油禁輸措置が続いて発動された。

NYT 1941年7月30日
 「日本、石油の脅威に不満」、ニューヨーク・タイムズが1面の見出しに掲げた。1941年7月30日のことである。ルーズベルトとの閣議で内務長官のハロルド・アイクスが空襲を提案した。「最新の爆撃機が日本を通ってシベリアまで行くところを見たいものです」、とアイクスは言った。「途中で東京に焼夷弾を何個か落として行くのですよ」。
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2010/09/15

Human Smoke 24

NYT 1941年7月25日
 ルーズベルト大統領は、義勇兵調整委員会の防衛グループとホワイトハウスで話をしていた。1941年7月24日のことだった。
 国内のあちこちに土嚢をおく必要が出てくるだろうね、かれは言った。それから正しい情報を出すようにしないと。「国民にはわかりにくい問題が沢山ある」。たとえば、「新聞では、ロサンゼルスー西岸ーから日本へガソリンが何千トンも輸出されている、という報道があるというのに、なぜわたしがガソリンを節約してくれ、というのだろうか?」
 答は簡単なのだ、と大統領は言った。「われわれが石油の供給を止めていれば、日本人はオランダ領東インドへ一年前から石油を獲りに行っていただろう。戦争になっていたはずだ」、とかれは説明した。「南太平洋から戦争を始めてはならない、という、われわれの防衛のための利己的考えというものも大事なのだ。だからわが国の対外政策はーそこから戦争が始まることを防ぐものだったのだ」。
 「わが国の対外政策は~だったのだ」-ルーズベルトが時制に過去形をつかったことに記者は注目した。

NYT 1941年7月8日
NYT 1941年7月25日
レオ・P・ブロフィーほか「化学戦部隊:研究室から戦場へ」
ブルックス・E・クレバー、デイル・バードセル「化学戦部隊:戦場の化学」

 コロンビア大学の化学教授、エンリケ・ザネッティ大佐は、合衆国陸軍化学戦部隊の現役に所属することとなった。1941年7月のことである。
 ザネッティは燃焼作戦の専門家だった。かれの燃焼兵器への関心は、第一次大戦から始まり、イタリアのエチオピア侵攻で促進された。-ニューヨークヘラルド・トリビューンの記者がイタリアの燃え残りの爆弾のサンプルを提供し、かれはそれを調べて化学戦部隊に手渡した。1936年にザネッティは、火は「忘れられている敵である」、と書いていた。-大都市にとっては毒ガスよりも危険である。「ガスは霧消して行くが、火災は拡散して行く」。小さな焼夷弾はそれぞれが「オ・レアリー夫人の牛(注、1871年のシカゴ大火の原因といわれている)」を抱えている。とくに貧民街は弱い、とかれは指摘する。国家防空計画の要は貧民街の撲滅にある。
 さて、1941年夏、ザネッティは化学戦部隊の新しい焼夷弾作戦室の担当となった。かれはロンドンへ赴き、爆弾の設計者と会った。かれは設計図、製造技術、およびイギリスの4ポンド・マグネシウム爆弾の処方を持ち帰った。それはとくべつ、屋根をうまく貫通するように出来ていた。
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2010/09/13

Human Smoke 23

マイケル・シェイラー「中国のアメリカ十字軍、1938-1945」
アラン・アームストロング「先制攻撃」

 合衆国陸海軍統合委員会は、JB355と名づけられた計画を承認した。JB355は、中国空軍を増強し、何よりも「対日焼夷弾爆撃」を行うことを目的としていた。計画は、ルーズベルト政権の経済担当で中国の専門家、ロークリン・キューリーが練り上げた。表向きは、T・V・宋が創立し、ルーズベルトの元補佐官、トマス・コーコランが運営する中国防衛資材会社がアメリカのメーカーから航空機を購入する。クレア・シェンノートがアメリカ人志願パイロットを訓練する。パイロットたちは、別の会社、セントラル航空機製造会社(CAMCO)から表向き給料を支払われる。
 ルーズベルトは統合委員会の計画を読み、OKを出した。ロークリン・キューリーは蒋介石夫人とクレア・シェンノートに電信で書簡を送ったが、日本側のスパイがこれを傍受することを妨げなかった:「大統領が、66機の爆撃機を中国に提供し、うち24機をただちに引き渡すことを承認されたことをお伝えできることはまことに欣快に堪えません。大統領は同時にパイロット訓練プログラムを承認されました。詳細は通常のルートでおつたえします。敬具」。1941年7月23日のことである。
 日本のスパイは詳しい情報を東京へ送った。アメリカの情報部はそれを傍受して解読したー挑発行為の成果を知るために。
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2010/09/08

Human Smoke 22

マーガレット・ゴウィング「イギリスと原子力エネルギー、1939-1945」
 博物学者、チャールズ・ダーウィンの孫のチャールズ・ダーウィンは、ワシントンDCで、モード・リポートと称する報告書に目を通していた。1941年7月16日のことだった。ダーウィンは物理学者で、MITのヴァンヴァー・ブッシュとハーバードのジェームズ・コナントが統括する兵器の研究に協力するイギリス側の、英国中央科学研究所の所長をつとめていた。タイプ打ちされたモード・リポートは、濃縮ウランから爆弾を製造する可能性について、簡潔に、わかり易く、また熱心に述べていた。
 「確信より懐疑を以てプロジェクトに取り掛かったことを強調しておきたい」、と報告者たちは述べていた。「研究を重ねて行けば行くほど、大規模な原子エネルギーの解放が可能であり、きわめて強力な兵器となり得ることが確かめられた」。濃縮ウラン僅か25ポンドで、TNT爆弾1800トンに匹敵する爆発力を持つ。同時に「膨大な放射性物質が拡散し、投下された周辺は長期にわたり人間が住めなくなる」。
 かれらは爆弾の製造を望んだ。帝国化学会社が協力を申し出た。「1ポンドあたりのコストは大変なものとなるが、従来の爆弾と比較すれば、放出されるエネルギーにおいてきわめて好ましい」、と報告者は記していた。しかし、費用の節約が主要な問題ではない、ー問題は、それが惹き起こす大量破壊、倫理的な効果、空軍の効率化にある。報告者たちはこの爆弾の製造に努力を傾注すべきである、と結んだ。
 報告を読んだダーウィンは衝撃を受けた。かれはハンキー卿に書簡をしたためた。この爆弾が出来上がれば、実際に使用されますか?「わが首相閣下とアメリカ大統領、またそれぞれの幕僚幹部は、たった一発でそれが可能といわれるこの爆弾で、ベルリンとその周辺を焼け野原にする命令をお出しになるのでしょうか?」
 
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2010/09/05

Human Smoke 21

NYT 1941年7月15日
アレクサンダー・カドガン「サー・アレクサンダー・カドガンの日記」

 ウィンストン・チャーチルはハイド・パークのテントの中に立って、6千人の市民防衛隊の観閲式に臨んでいた。1941年7月14日のことである。空襲警戒部隊、担架部隊、婦人志願部隊、毒ガス汚染浄化隊などなどがあった。「素晴らしいイングランドの夏の朝、全員は縦横に行進している」、とチャーチルはラジオで告げた。ロイヤル・エア・フォース(イギリス空軍)がヒトラーのイギリス侵攻計画を挫いたので、九月になると、ヒトラーはイギリスの都市の空襲を始める。ロンドンは壊滅するか?答はノーだ。2万人殺されようと焼け野原になろうと、ロンドンっ子は不敗である。「ロンドンは広い、そして前史時代のモンスターの如く、雨あられのように矢が飛んできてもへこたれない」、とチャーチルは言った。
 チャーチルはヒトラーに向けて直接言った、「貴君は抵抗のないところで獰猛になっている、無差別爆撃を行っているのは貴君だ」、ワルシャワで、ロッテルダムで、ベオグラードで、ロシアで。「われわれは貴君らのようなならず者と交渉する気はまったくない。貴君らは最悪のことをやっているーわれわれは最良のことをやるのだ」。
 そしてチャーチルはもう一つ、報復の言葉を加えた。「いまや、ドイツ人は、自分たちが隣人や世界に与えた同じような苦痛を、自分たちの故郷で、町で被ることになるべきである」。

   毎月毎月、大型爆撃機が工場から出てきて、大西洋を渡る。
   容赦なく高性能爆弾をドイツにお見舞いするぞ。

 かれは続ける。ここ数週間だけで、この容赦ない空襲は、これまでドイツがイングランドに落とした爆弾の半分をドイツに落とした。しかしこれは始まりに過ぎない。爆撃は続く。「月を追って、年を追って、ナチ体制が、われわれによって、またはドイツ国民自身によって粉々に粉砕されるまで」。
 その夜、サー・アレクサンダー・カドガンは外務省に遅くまで居残った。「傍受した約7通の日本の電信によれば、お猿さんたちは、インドシナに基地を設置すると決めているー今月20日までに」、と日記に書いた。
 
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