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2010/07/27

Human Smoke 12

NYT 1940年11月27日
 日本は新しい駐米大使を選任した。「日本にはアメリカと戦争を望むものはーいるとしてもーほとんどいない」、野村吉三郎提督は日本を出発する前、そう言った。「いま世界の運命はアメリカの双肩にかかっている。アメリカがヨーロッパか太平洋のどちらかで戦争に介入すれば、文明社会は炎に包まれる」。それは1940年11月26日のことだった。

アラン・アームストロング「先制攻撃」
 ルーズベルトはヘンリー・モーゲンソーに指示をして、国民政府が対日戦争を継続できるよう、中国に1億ドルの借款を供与させた。資金は航空機の購入にあてられる。
 クレア・「レザーフェイス」・シェンノートは、蒋介石の代筆をして4ページのルーズベルトあてのメモを書いた。それは合衆国のパイロットと乗員で構成する中国の特殊航空部隊の創設の提案だった。蒋介石の義兄で大使のT・V・宋は、メモをモーゲンソーに手渡した。1940年11月30日のことである。
 「中国には使用可能な飛行場が136箇所あります」、と蒋介石のメモは伝えた。「半数以上が最良の状態にあり、爆撃機、戦闘機双方に使えます。うちいくつかは日本から650マイル以内の距離にあります」。蒋介石は言う、新しい特殊航空部隊は、中国陸軍との共同作戦でーまたは単独で、「日本の本土」を攻撃できます。飛行場の所在地の地図はご提供できます。
 モーゲンソーは、飛行場のこととその日本との近さに思いを馳せた。かれは英国大使のロシアン卿にこの話を伝えた。モーゲンソーはロシアンに、四発の爆撃機を中国に持って行くつもり、だと話をした。「これで東京やほかの都市を爆撃する、という前提なのです」。ロシアンは喜んでいた。 
 「そいつは世の中をすべて変えてしまいますね」、ロシアンは言った。
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2010/07/25

Human Smoke 11

アラン・アームストロング「Preemptive Srike(先制攻撃)」
トーマス・G・マンケン「Uncovering Ways of War(戦争への道の真相)」

 東京駐在海軍武官のヘンリ・スミス=ハットン大佐は、日本の都市についてワシントンへ報告を送った。1940年9月30日のことだった。
 「水道管は老朽化していて水漏れがしています」、スミス=ハットンは書いた。「水道本管は夜は使えません。圧力が低いのです。消火栓の数は少ないし、遠いところにあります。」防空壕も少ない、と武官は続けた。-そして道の渋滞は激しく、避難するとすればいちじるしく困難だろう。「焼夷弾をばら撒けば大都市はひとたまりもないでしょう。」
 爆撃目標の詳しいリストをあとで送ります、とスミス=ハットンは約束した。

ジェームズ・O・リチャードソン「真珠湾への踏み車」
 太平洋艦隊司令官のリチャードソン提督は、ルーズベルト大統領と言い合いになった。1940年10月8日のことである。リチャードソンは、スターク提督(海軍作戦部長)に提出した書簡と、ノックス(海軍)長官への覚書に書いたことと同じ発言をしたー真珠湾は艦隊停泊に向いていません、と。ルーズベルトは、ハワイに艦隊がいることは、日本に対して「抑止の効果」があるのだ、と説明した。 
 合衆国は戦争をするのですか?リチャードソンは大統領に尋ねた。「かれは答えた」、とリチャードソンの回想録にある。「日本軍がタイとか、クラ地峡とか、オランダ領西インド諸島を攻撃するだけならわれわれは戦わない。かりにフィリピンが攻められてもどうかわからない。」しかし、日本人もいつも過ちをしないとは限らない、と大統領は言った。「遅かれ早かれ、かれらは間違いをするだろう。戦争はそのときするのだ。」
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2010/07/23

Human Smoke 10

ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン 1940年6月22日
 ルーズベルト大統領は、新しい陸軍長官に、ハリー・ウッドリングに代わり、ヘンリー・スティムソンを任命した。中国人は喜んだが、日本人は喜ばなかった。「スティムソン氏は、アメリカの政治家のなかで、多分ほかのだれよりも日本人に嫌われている」、とニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは言う。1940年6月21日のことだった。

チアノ「日記」 
 日独伊三国同盟調印のため、チアノ伯爵はベルリン行きの列車に乗っていた。ヒトラーの指示で列車は停められた。「RAF(英空軍)がそのあたりを空襲する危険性あり。総統は長時間の停車でわたしに危害が及ぶことを心配された」、とチアノは日記に書いた。1940年9月26日のことだった。
 かれはミュンヘンからベルリンまで空路を利用した。ベルリンの雰囲気は、かれが1939年、鋼鉄条約ー独伊の条約ーを調印したときよりずっと冷たいものであることに気づいた。ベルリンではいま食糧が乏しく、人々はサイレンの音に疲れきっていた。「だれもが毎晩、4、5時間、地下室で過ごしていた。みな睡眠不足だった。男女の仲は乱れていた。寒く、気分が陽気になることはない。」10時になると、人はみな時計を見た。そして家族と自宅で過ごすことを考えたる、とかれは日記に書いた。「爆撃の被害は大したことはなかった、神経戦の方に参っている」とかれは思った。
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2010/07/21

Human Smoke 9

ジョージ・モーゲンスターン「パール・ハーバー」
 米(太平洋)艦隊司令長官、ジェームズ・O・リチャードソン提督は困惑し、苛立っていた。なぜルーズベルト大統領は、かれにこれほど西方へ、春の演習のあと、パール・ハーバーへ集結してじっとしているよう命じたのか?どうしていつものように、サン・ディエゴ、サン・ペドロ、ロング・ビーチというカリフォルニアの基地に戻さないのか?
 リチャードソンは上司のスターク提督(海軍作戦部長)に手紙を書いた。「これ以上の西方への行動は敵対行為となります」、とかれは書いた。「現状で、重要ではあっても決定的な国益のない西方にこれ以上関与することは大きなミスにつながるように思います。」それは1940年5月13日のことだった。
 一週間後、まだパール・ハーバーにとどまっていたリチャードソンは二度目の手紙を書いた。「われわれがここにいるのは、そもそもよその国の行動に影響を及ぼすためですか?」、かれは質問した。「われわれがここにいるのは軍事行動の踏み台とするためですか?」
 スターク提督から返事がきた。「きみたちがそこにいるのは、日本人が東インド諸島へ出て行くことを抑止するためだ。」スタークは言う、「日本人が東インド諸島へ出てくるって?きみは疑問に思うだろう。そうなったらどすれば良いか。わたしの答は、わからない、だ。神のみぞ知ることだ。」

ウォーレン・F・キンボール「チャーチルとルーズベルト」
 その夜、まだ1940年5月15日だった、チャーチルは首相としてのルーズベルト大統領あて最初の書簡を書いた。イギリスの必要とするものは、とチャーチルは書いた:40から50隻の駆逐艦、数百機の航空機、対空砲と弾薬、そして極東への支援です。「わたしは太平洋であの日本人の犬どもを静かにさせておきたいのです。そしてとにかくシンガポールをいつでも使えるように。」
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2010/07/20

Human Smoke 8

NYT 1938年5月21日
 2機のマーチンB-10爆撃機が、中国の漢口から、アメリカで訓練を受けた操縦士によって長崎へ飛来した。かれらは長崎周辺を1時間半ほど飛び、日本の軍国主義を批判するビラを撒いた。1枚のビラは、この飛行を友好の現れである、と謳っていた。爆撃機は九州を縦断し、佐世保基地上空に達した。
 蒋介石夫人の義兄である首相のH.H.孔は、漢口の航空基地で新聞記者たちと爆撃機の帰還を迎えた。孔はオバーリン・カレッジの卒業生である。孔は油まみれの乗組員に言った。「きみたちは日本の飛行機が中国でやっているように爆弾は落とさなかった。落としたのはビラである。中国は人道主義のチャンピオンだからだ。」それは1938年5月29日のことだった。

エドワード・S・ミラー「オレンジ戦争計画」
ジェームズ・O・リチャードソン「真珠湾への踏み車」

 米海軍の立案グループは、もっとも重要な戦争計画の新しいものを配布した。オレンジ・基本戦争計画である。1939年3月8日のことだった。 
 海軍は、これまで何年もかけてオレンジ計画のバリエーションを練ってきており、それらに多くのページが割かれていた。「オレンジ計画は通告なしに発動される」とこの秘密計画は記していた。「それは長期にわたって継続される戦争に対しての、攻撃的な計画である。」オレンジ計画の国家的使命は:
 オレンジの軍事力を破壊し、オレンジの経済力を破砕することによって、合衆国の意思をオレンジに課し、もってアメリカの内外における国益を保護することにある。
 オレンジとは、日本のことであった。

NYT 1939年5月27日 
 国務長官、コーデル・ハルの要請により、ロッキードは日本に対する航空機の販売を停止した。しかし、それ以前の受注分がまだ到着するので、契約上、組み立て、テストのための社員は日本に残留していた。1939年5月のことである。
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2010/07/18

Human Smoke 7

NYT 1937年8月31日
NYT 1937年9月1日
ロイヤル・レオナード「わたしは中国のため飛んだ」
NYT 1936年12月17日
NYT 1937年8月8日

 中国航空機が100ポンド爆弾で、日本船隊を破壊しようとしていた。1937年8月30日のことだった。
 揚子江の河口には、巨大なプレジデント・フーバー号が、避難するアメリカ人を満載して停泊していた。中国人パイロットの一人が、フーバー号を日本の輸送船と誤認し、急降下爆撃を加えた。ほかの機もあとにしたがった。乗組員の一人が破片に当たって死亡し、乗客と船員の何人かが負傷した。船には、蒋介石総統夫人と姪が乗船していた。
 空軍大臣の蒋介石夫人は戦慄した。彼女は、夫のパイロット、ロイヤル・レオナードというアメリカ人を呼び寄せた。「あなたに中国空軍の爆撃をみなまかせたい。」と夫人は言った。 
 ロイヤル・レオナードは、喜んで爆撃の指揮をいたします、と返事をした。漢口で、レオナードともう一人の米人、ジュリウス・バーが、100名の生徒を教える新たな爆撃学校を設立した。1000人の労働者が、飛行場の整備に働いた。「夜も昼も、天秤棒で資材を運び、数日間で千ヤードの滑走路が建設された」、とレオナードは回想している。

ロイヤル・レオナード「わたしは中国のため飛んだ」
 引退した陸軍航空士官で、いまは中国のために働いている、クレア・シェンノート大佐は、爆撃術教官のロイヤル・レオナードと自宅のアパートにいた。1937年のある日のことだった。
 「部屋はアメリカ人パイロットでいっぱいだった」、レオナードが回想している。「東京をいますぐ空襲する話題に熱中していた」。
   人数はこの部屋に揃っている。みな操縦と航空術に熟達している。中国は、速くて軽い
   マーチンを買うカネをたくさん持っている。

 しかし計画は中国人に潰された。レオナードはいう、中国人は東京空襲でアメリカ人を巻き込む危険を冒したくなかったのだ。「いいよ」、シェンノートは言った。「いつか叩き潰してやるよ!おれたちがやればいいんだ!」中国人パイロットはかれのことを「レザーフェイス(鉄面皮)」と呼んだ。
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2010/07/17

Human Smoke 6

NYT 1937年8月6日
 日本政府は、米人飛行士182名が、それぞれ2名づつの整備員を伴って、中国へ軍用機で飛んでいる、というニュースにとまどっている、と発表した。アメリカ人の徴募は、最近アメリカが発表した北部中国の平和への希望に抵触し、アメリカ中立法に違反している、と日本の声明はうたった。1937年8月5日のことだった。

アーベンド「中国滞在記」
 ニューヨーク・タイムズの特派員、ハレット・アーベンドは、上海最大のデパート、永安百貨店の外の車に坐っていた。1937年8月23日のことだった。
 アーベンドのアシスタントのアンソニー・ビリンガムは双眼鏡を買いに、なかに入っていた。アーベンドは煙草を吸いながら、中国人の歩行者の何人かが空を見上げるのに気がついた。一瞬ののち、大きな爆弾がデパートを直撃した。「爆弾を喰らったなかでの最悪の経験は」とアーベンドは中国の回想に書いた、「混迷へと続いた麻痺状態の時期での出来事だった。」
   四分間というもの、よほど大きな爆弾だったのか、渦巻く煙と濃い塵埃のほか何も動くものはなく、ガラス
   が崩れ落ちる音と、石壁が破砕される音のほか何も聞えなかった。四分経ったあと、怪我人がうめいたり悲   鳴をあげながら這い出ようとしていた。 
 アーベンドはびっこをひきながら、ぼんやり見えるデパートのなかへアシスタントを探しに行った。二階の双眼鏡の売り場には中国人の死体が二つ転がっていた。車へ戻ると、ビリンガムが車の後部座席にうずくまっていた。わきの下の動脈から血が溢れていた。「わたしは車のギアをローに入れ、注意深く通りをあがって行った。救いようのない負傷者をよけなければならなかったが、やむを得ず、路上に散らばった死体を砕く羽目にもなった」、とアーベンドは書いた。
 永安百貨店に落ちた爆弾ー750ポンドのイタリア製、破砕性爆弾ーは日本軍の投下したものではないことがわかった。中国のパイロットが追撃してくる三機の日本の戦闘機を見て、安全圏の2万キロ上空へ退避するため、重量減らしで爆弾を切り離したのだった。
 ビリンガムは助かった。

NYT 1937年8月29日
 日本は中国船舶に対して海上封鎖を実行した。「第三国による平和的商業貨物の輸送は完全に尊重される」、日本政府は言明した。1937年8月27日のことだった。
 米国政府所有の貨物船、ウィチタは、アソシエイテッド・プレスの報道によれば、爆撃機と有刺鉄線を輸送中だった。報道はつたえていた、この輸送は「平和的商業貨物」と日本人がみるかどうか疑問である、と。
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2010/07/16

Human Smoke 5

NYT 1936年3月15日
合衆国政府は、外国政府に対する月別許可済武器販売統計を発表した。中立法の規定により、すべての武器の販売は、国務相の軍需品管理局の許可が必要だった。
 1936年2月、またもや中国が第一位の購入者だった。それは、チリ、ドイツに次ぐ。中国は。航空機、戦車、弾薬を購入した。ドイツは、「非戦闘用」航空機、レボルバー、弾薬を購入していた。

NYT 1936年7月21日
 東京の新聞はみな同じトップ記事を掲げた。米国政府、武器購入用、1億元の借款を中国に与える、と。1936年7月21日にことだった。
 ある記事によれば、財務省代表のアーサー・キャンベルは、最近中国へ貿易協定案を持参した。そのなかで、合衆国は、260万ドル相当の銀を中国から買う、中国は米国から、航空機、船舶、石油、トラクター、鉄道設備を買うという。キャンベルは、顧問として中国に滞在する。  
 日本外務省の高官が言った、この武器取引の報道が真実であれば、日本政府はとても無関心ではいられない、と。
 
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2010/07/15

Human Smoke 4

NYT 1935年9月22日
NYT 1935年7月30日
ジョン・へインズ・ホームズ 「自伝」

 ジョン・へインズ・ホームズの反戦ドラマ、「これが裏切りとなるならば」、がコネチカット州のウェストポートで初日を迎えた。それは1935年7月29日のことだった。
 第一幕で、日本海軍が、マニラのアメリカ艦隊に奇襲攻撃をかける。平和主義を掲げて新しく就任した合衆国大統領は、反撃しないことを決断する。血戦と復讐を叫ぶ世論のなか、弾劾を受けることを覚悟して、ゴードン大統領は丸腰のまま個人機で日本へ飛ぶ。日本国民は、この大胆な行動に感激して、軍国主義的リーダーを平和裡に倒し、人民党の、コエという首相を選び、すべては丸くおさまった。
 ホームズは、レジナルド・ローレンスという名もない劇作家の助力で脚本を作った。かれはこの筋書きを、1931年のガンジーの英国訪問にヒントを得て作った、と言った。
 「強烈なドラマ作りに成功した」、とニューヨーク・タイムズは批評した。「その夜の観客は何度も喝采した。」ルイジ・ピランデロ、ジョージ・M・コーハンも観客のなかにいた。 
 東京の主要紙、朝日新聞もドラマのことをつたえた。ザ・ネイションは長い評を載せ、ロンドンのザ・タイムズも報じた。芝居はニューヨークのミュージック・ボックス・シアターで六週間、興行され、そして忘れ去られた。 
 「一つ一つの場面が、日本の真珠湾攻撃を予想していた、という思いがけない、わたしのプライドとなった」、とのちにホームズは書いている。

NYT 1936年2月7日
ロバート・ハリス&ジェレミー・パックスマン「高次元の殺人形式」

 ロンドンの法廷で、帝国化学工業会長のサー・ハリー・マクガワンーウィンストン・チャーチルの親友で投資顧問ーが、武器の貿易を調査している王立委員の質問を受けていた。1936年2月6日のことだった。
 マクガワンは、敵対している諸国ーたとえば、中国と日本、への武器輸出について訊ねられた。「わたしはそれぞれに対する武器輸出に反対はしません」、マクガワンは答えた。「わたしはこれらのことで別に潔癖主義者ではありません。」マクガワンは言う、帝国化学工業は、現在毒ガスは製造していないーしかし政府が要望すれば、いつでも作れます。
 その年の後半、会社はランカシャーに新しいマスタード・ガスの製造工場を作った。
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2010/07/14

Human Smoke 3

NYT 1935年5月19日
 ワシントン広場公園から出発した1万人のデモ隊が五番街を行進した。だれも戦争と文明の両立を許さない、だれも日本とは友情を結べない、というプラカードを掲げていた。自由と平和の国際婦人同盟は、「軍人墓地」の隊形で行進していた。白い墓標の立った芝生の墓を象った一種の山車が出ていた。一組の母子が傍らで悲嘆にくれている様子を見せていた。スローガンに曰く、栄光はどれほどに値するか?
 行進の指導者のなかに二人の著名な宗教家がいた。ーコミュニティ・チャーチ(ガンジーの崇拝者)のジョン・へインズ・ホームズと、フリー・シナゴーグのラビ、スティーブン・ワイズである。そのほか、色々な教派のリーダー、クウェーカーの一団、赤旗を掲げた社会主義者たちがいた。一匹の犬が、「わたしは軍用犬にはならない」という看板をぶら下げていた。
 デモ隊は21番通りの方へ曲がった。そしてユニオン・スクウェアへ向ってマディソン・アベニューへ出た。そこには秩序維持のため、300人の警官が整列していた。社会主義者のチャールズ・ソロモンが、資本主義は帝国主義を作る、「それが戦争を惹き起こす国際摩擦の温床だ」、と叫んでいた。ジョン・へインズ・ホームズは、戦争になると監獄が満杯になるだろう、と言った。かれは群衆に約束した。
   戦争になっても、わたしは戦わない
   戦争になっても、わたしは志願しない
   戦争になっても、わたしは徴兵に応じない
   戦争になっても、わたしは助けない
   戦争になったら、わたしは反対する
   ゆえに神よ、み力を。
 それは1935年5月18日のことだった。
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2010/07/12

Human Smoke 2

NYT 1935年3月15日
NYT 1935年3月16日

 ルーズベルト大統領は、太平洋の珊瑚礁、ウェーキ島を合衆国海軍の管理下においた。かれは、パン・アメリカン航空に対して、ウェーキ島、ミッドウェー島、グアム島に滑走路を建設することを許可した。それは1935年3月14日のことである。
 日本の軍事当局が喜ぶはずはない。空港は軍事基地となり得るのだ。「これら島々は天然の『航空母艦』である」、と日本海軍の退役した元総司令官が書いた。「絶好の飛行隊の作戦発進基地となる。一旦敵に占拠されるや、わが国の防衛をただちに脅かすこととなる。」
 

NYT 1935年3月18日
 クエーカー教徒のクラレンス・ピットと反戦伝道師のハリー・エマーソン・フォスディックは、ルーズベルト大統領に、オーバル・オフィス(大統領執務室)のお茶に招ばれていた。1935年4月のことだった。海軍は、アリューシャン列島とミッドウェー島の近辺で演習を行うことを要望していた。アリューシャン列島は合衆国からはるかに遠く、日本に近かった。
 ピケットにとって、「それは、日本人にわれわれが筋肉を鍛えているところを見せつけ、わが国を侮るとどういうことが起こるか、意識的に警告するもののように思われた。」
 ルーズベルトは一人で喋った。かれは語り、そして回想した。「わたしたちは、こみあげる懸念を口にした方が良いかどうか、迷いはじめた」、とピケットは書いた。とうとうフォスディック師が口をはさみ、そんなに近い場所で海軍の大演習を行うことの危険に注意を促した。ルーズベルトは、ハーバードの級友の一人に日本人がいて、その級友がアメリカ征服の話をしたことがある、と言った。「大統領に、海軍の遊び場作りを止めさせるよう、説得することに失敗した」、とピケットは言った。


NYT 1935年4月28日
NYT 1935年5月3日
フランクリン・D・ルーズベルトと外交問題、第2巻515-6頁

 160隻のアメリカ軍艦と、450の航空機が太平洋で大演習を行った。ー米国史上最大の演習だった。1935年4月のことである。平和グループであるフェローシップ・オブ・リコンシリエーション(和解の仲間たち)が、日本国民に書簡を送った。写しはルーズベルト大統領にも送った:曰く、「あなたがたにメッセージを送りたいと存じます。すなわち多くのわが国民、とくに教会やシナゴーグのメンバーたちが、この演習に大反対している、という事実についてです。」
 書簡は続ける。81年というもの、日本と合衆国は友好関係を維持してきた。「宗教団体に関係していようといまいと、多くのわが国民がこれらの演習に反対し、わたしたちの永続的かつ減衰することのない友情の保証に、精神的に参加しています。」ルーファス・ジョーンズ、ジョン・へインズ・ホームズその他15人がこの書簡に署名した。
 もと日本海軍軍令部長の加藤寛治提督は、アメリカ海軍の演習は、「家の隣で剣を抜くようなものだ」と言った。
 「飛んでもない話だ」、合衆国海軍作戦部長のスタンレー提督もそう言った。

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2010/07/11

Human Smoke by Nicholson Baker

紹 介
少しほかのことをしていましたので、ブログをお休みしていました。
今回から、Nicholson Baker の Human Smoke, The Beginnings of World War II, and the End of Civilization,
(SIMON & SCHUSTER 2008) をご紹介したいと思います。この本は、第二次世界大戦前史から始まり、1941年12月31日に至る、新聞記事、色々の人の日記、回想録など(すべて公表出版物)から短文を抜粋してできた本で、現代史のトリビア集の趣きがあります。ブログ搭載は日本関連の部分に限ります。Human Smoke とは、ナチスのホロコーストの犠牲者を焼く煙、という意味のようです。
Baker は1957年、NY生まれのアメリカのフィクション、ノン・フィクション作家。7冊の小説の著書があり、2001年には、National Critics Circle Award を受賞した由です。
(各記事には「出典」が先に示されます。なお、引用の多いニューヨーク・タイムズはNYTと略記します。)

NYT 1934年3月4日
NYT 1934年7月28日
NYT 1934年7月29日
NYT 1934年8月5日

 ルーズベルト大統領は、国家再生法の基金ーニューディール資金の一部ーを使って32隻の軍艦を建造した。大統領は真珠湾を訪問した。イオラニ・パレスで、ハワイの歌手たちが伝統的な歌をうたい、300人の日本人少女が提灯を持って踊った。スピーチでルーズベルトは、ハワイの過去の豊かさと、家々の清潔さ、そして自らが総司令官である、ハワイ駐留軍の効率性を誉めそやした。「この軍隊こそ平和持続の武器である。」かれはみなに謝意を表明し、再訪を約束した。「わたしは心の底から『アロハ』と申し上げます。」それは1934年7月28日だった。
 ジャパン・アドバタイザー紙に、前ワシントン駐在武官、タナカ・クニシガ将軍が大統領の訪問に応えて寄稿した。「ルーズベルト大統領がハワイを訪問し、真珠湾基地を視察した。そこはアメリカの太平洋への前進基地とみなされる。大統領は基地の装備が完璧である、と世界に発信した。」将軍は、この訪問に続いて、海軍関連団体が、アラスカとアリューシャン列島における海軍航空基地建設の議会活動を活発化している、というニュースについて言及した。「このような傲慢な行動は、われわれに疑念を抱かせるに充分である。穏やかな太平洋に、意識的に波風を立たせるものである。非常に残念である。」


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