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2010/02/11

Singapore Burning 第五部 (つづき)

31 (ブキテマの戦闘)
 聖なる日(紀元節ー2月11日)の午前9時少し前、煤煙で汚れた雲の下を飛ぶ日本機が、英軍がこれまで見たこともないようなものを落とした。それは鰭(ひれ)を持つ18インチ(45センチ)ばかりの筒で、全部で21個、色とりどりのリボンが結ばれていた。いくつかはジャングルの中に消えたが、爆弾ではないか、という恐怖心より好奇心が優り、拾ってみると、中に紙片が折りたたまれていた。
 「英国最高司令部御中ーニッポン軍最高司令官は、日本武士道の精神に基づき、マレー全軍の降伏を勧告す。大英帝国の伝統にしたがい、貴国軍隊が今や孤立し、救援を失ったシンガポールを果敢に防衛されしことに心より敬意を表す。しかし戦闘の概括的状況は、シンガポールの運命をすでに決しおれり。すべからく本勧告を受け、すべての戦線において敵対行為を終了せしむ命をくだされたし。即刻軍師の派遣を乞う。」
 クランジ=ジュロン・ライン回復のため、ベネットの兵力は早朝から動き出していた。しかし、期待されたカミングとその新たに編成されたジャート大隊は挟撃を受けて孤立し、ボイスの混成部隊は、油断をつかれて潰走した。またいくつかの局面で遭遇戦、肉弾戦が展開された。負傷してシンガポールに後送されたオーストラリア兵は、士気を失い、避難民といっしょにケッペル港からジャワに逃れることを望んだ。従軍記者のモリソンは、報道員に対する退去命令を受けて船に乗り込んだところ、まぎれこんだ3人の豪州兵が見つかって、水先案内人と同じボートでシンガポールに送還されるところを目撃している。このころには、豪州軍が崩壊した、という話は高級将官の共通認識となっていた。冷静なウェイベルですら、シェントン・トマス総督夫妻に別れを告げるとき、素顔を見せ、「こんな筈じゃないんだ」、と愚痴をこぼした。レディ・トマスは避難を断り、夫と行動を共にしていた。
 ウェイベルは、帰途のカタリナ飛行艇に乗るために、車から飛び降りたとき、誤って岩に張られた鉄条網の上に6フィート落ち、背中の骨を2本折る重傷を負った。ジャワの病院のベッドから、かれはチャーチルに報告を書いた。「日本軍の展開は急速だった。豪州軍にはすべてが裏目に出た・・」。海軍基地司令のジャック・スプーナー少将は、「すべては今や烏合の衆と化したAIF(豪州軍)によって惹き起こされた。シンガポールは一両日中に陥落するだろう」、と日記に書いた。しかし、スプーナーは間違っており、降伏はもう少し先のことだった。パーシバルはまだ島の4分の3を保持しており、戦う意思のある多くの将兵が残っていた。ブキテマ村には食糧、燃料、弾薬が大量に貯えられていた。パーシバルは、ヒースに、ブキテマの競馬場周辺に防衛陣を築かせた。ヒースは、かれの第3インド軍団の今や多数派となった英人大隊で部隊を構成した。とくにノーザンバーランド・フュージリアのライオネル・トマス中佐指揮の「トム部隊(トムフォース)」、輸送船、フェリックス・ルーセル号の対空砲火で勇名を馳せたトム・マッシー=ベレスフォード准将指揮の「マッシー部隊(マッシーフォース)」には希望が寄せられた。
 トムフォースはブキテマ村、とくに同じ名のブキテマの丘の回復を命じられたが、山下の第5、第18師団の精兵はすでに丘を包囲していた。トムフォースは、島の最良の道路、ブキテマへ向かう二車線道路を、日本軍の占領した北西地区からの中国人、インド人、マレー人避難民の群のなかを進軍した。丘を登りはじめると、断続的な砲声が聞え、ついに敵と遭遇した実感がせまった。前衛のA中隊の負傷した将兵が降りてくるところと行き会うと、未熟な隊員たちは浮き足だってきた。
 東海岸のチャンギからジョホール南岸へ向けて掩護砲撃をしていた、ジョホール砲兵隊の3基の15インチ砲は、目標を変えてブキテマへの長距離砲撃を開始した。射程は21マイルである。この砲弾は着弾すると、野外の水泳プールほどの大穴を空ける。1分間にほぼ2発の発射が可能だった。辻政信大佐は従兵を伴って車で戦況視察に赴いたところ、この砲撃を浴び、危うく命を落とすところだった。二人は側溝の土管の中で息を潜めた。
 この戦線のいたるところでそうだったように、ブキテマの戦いも整然とした戦闘ではなかった。スチュワートの率いる200ばかりのアーガイル兵は孤立させられたが、T95戦車に続く歩兵の待ち伏せ攻撃に励んだ。日本軍はすでに大規模なパトロール部隊をゴム園に繰り出していた。その一つは大隊司令部の10ヤードまで接近し、4人の将兵が殺された。そのなかに、迫撃砲将校のアルバート・ギスパートがいる。60年後、かれがマレーに創った「ハッシュ・ハウス・ハリアーズ・クロスカントリー・ランニングクラブ」は世界中にその支部を保有している。
 スチュワートは闇のなかでの乱戦は無益、と判断し、非常時の待ち合わせ場所、ブキテマ丘の北側の畜産試験場に移動することとした。乱戦で腹を打たれた勇者、スコットランド人の志願士官、ダグラス・ウェア中尉たちを運ぶ担架部隊も行動を共にした。スチュワートの中隊はうまく撤退できたが、前衛のA、Dの二中隊は切断された。大晦日のパーティでの大男のドラマー、サンディ・ムック先任曹長とその班は、マクリック貯水池を迂回してラインに戻ったが、ドナルド・ナピア中尉らは、パイプラインを伝って、一直線に戻ろうとしたところを襲われた。ナピアの部下、10数人は捕らえられて惨殺された。ヒュー・アンダーソン二等兵は、6箇所の銃創を受け、死んだと思って放置されたところを現地の中国人に救われて生き延びた。日本軍は部隊によって、その捕虜の取扱いに雲泥の差があった。ヒューバート・ストラテアン中尉は、単独の偵察行で捕虜となったが、日本側で訊問にあたったのは英語ぺらぺらでユーモアのセンスたっぷりの少佐だった。かれは同じく逃げそこなったイースト・アングリア師団の負傷者たちのために、医者を探してくれた。トムフォース、マッシーフォースとも不発に終わった。どのみち制空権を取られ、かれらは「丸裸」状態だったのである。
 トムフォースの現状視察に、対空砲火をものともせず、パーシバルは、車で前線に出た。かれが日本の降伏勧告にいつ接したのか記録はない。しかし、2月11日の午後遅くか、夕刻か、かれがブキテマから戻ってからだろう、と推測できる。直接の無線連絡は不能だったようなので、多分伝令が走ったのだろう。いずれにしても、その朝、かれが司令部を出発してから、フォート・カニングの塹壕に戻る間、情勢は大きく変化していた。日本軍は、シンガポール南西郊外へ急速に進出しており、アレクサンドラ病院方向にせまっていた。島の南岸で無傷に残ったブオナ・ヴィスタ砲台の15インチ砲は、命令により工兵隊の手で破壊された。英軍は結句、スタートラインに集結することになった。そこはアダムロードの熱帯向けチューダー様式の大邸宅である。籐の家具と、夕陽を臨みながら一杯やるバルコニーがついていた。ここは、パーシバルのシンガポール防衛線の最後の一角だった。ここから先には、もう撤退する場所はないのである。
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