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2010/02/25

Singapore Burning - エピローグ

  1945年9月5日、3年半不在であったロイヤル・ネイビーはシンガポールに帰還した。英国極東総司令官、海軍大将ルイス・マウントバッテン卿は、シンガポールで、日本の東南アジア司令部の正式な降伏を受け入れた。数ヶ月にわたる連合軍の封鎖のため、やせ衰えた日本の将軍たちは、丸腰でみすぼらしく並ばせられた。
 キー将軍が本気に思っていたのか不明だが、かれの予言は当たった。そのときのお相手、今井将軍はシベリア送りの途上にあったが、そこから戻ることはなかった。山下将軍の第5師団の根拠地、広島は、8月6日に原子爆弾を落とされた。3日後、第18師団のほとんどの兵員の出身地、造船都市長崎に二発目が投下された。天皇の降伏決意を日本陸軍のすべてが受け入れるのには6日間を要したが、8月15日、終戦を告げる歴史上初めての現人神の放送は、日本国民の耳には信じがたいものに聞えた。
 パーシバルの軍隊の捕虜生活は苛酷で、戦場におけるよりも多くの犠牲が出た。はじめは穏やかに始まった。豪州と英国兵の捕虜は、東海岸のチャンギ兵営に集められた。収容能力5千名の建物に、一時5万名近くが詰め込まれた。収容所は市の中心部から16マイルほど離れていた。入所にあたって、捕虜たちの途切れない行進が続いた。インド人、マレー人はかれらを罵り、中国人は無表情に見つめていた。そのなかにラッフルズ・カレッジの18歳の学生、リー・クワン・ユーがいた。
 チャンギの警備は日本兵ではなく、リー=エンフィールド銃で武装したシーク兵があたった。退屈を紛らわすのは教育である、ということから、英語、数学、地理の学級が設けられた。もう少し上級のものは、ほとんどのヨーロッパ語学、それにマレー語を学ぶことができた。学業半ばで参戦した学生のためには、工学、法律、医学の講座もあった。無傷のスポーツ用具がみつかり、早速クリケットの英豪「国際試合」三連戦が行われた。日本人はクリケットよりも野球がお好みで、クアラルンプールのブドゥ刑務所では、捕虜たちとの対抗戦が行われた。親善行事の反面、掴まった脱走者は処刑されたり、残酷な刑罰を受けた。食糧が不足し、エネルギー・レベルが下がってくるとスポーツは徐々に姿を消し、捕虜相互の友情維持のための教練もなくなった。英豪兵たちの缶詰食品はすぐに枯渇した。チャンギのまわりは巨大な家庭菜園と化した。鶏舎が設けられ、たくさんの卵が病院へ運ばれた。
 チャンギでの民間人の抑留者は約2500名、うち婦女子は400ほどだった。流産をしたヒース将軍の妻は、病院で、赤痢から回復したレディ・トマスに会った。総督は、踏みとどまることを義務と心得ていた。かれは正しかった。60年後、シンガポールの繁栄している金融センターの中央にはシェントン通りがある。
 1942年8月、大佐以上のすべての上級将官は、シンガポールから出航させられた。ヒース、パーシバル、シェントン・トマスもいっしょだった。錆だらけのバケツのような貨物船の船倉にすし詰めにされ、台湾に送られ、全員そこで2年暮らした。かれらの旅はそこで終わらず、日本、朝鮮を経て、1944年10月、気温は零下、豪雪の満洲に到着した。1945年8月18日、かれらはその10日前に対日宣戦したロシア人によって解放されたのである。
  山下大将は日本の新聞で時の人となり、「マレーの虎」と名づけられた。東条首相は、かれに、帝国臣民にこれ以上その名声を拡大させない脇役のポストを与えた。山下は東京に立ち寄ることなく、直接満洲に赴き、1939年、ジューコフに散々痛みつけられた軍隊の指揮を執るよう任ぜられた。ドイツとイタリアは枢軸のパートナー日本に、対ソ宣戦を切望していた。山下の人事はソ連を狼狽させたが、東条はスターリンと戦端を開く考えはなかった。1944年9月、東条の退陣後、マレーの虎はフィリピンに転任させられた。米軍の反攻に、かれはルソン島北部の高地に追い詰められ、1945年9月2日白旗を掲げた。5ヶ月後、GIの作業服を着せられたマレーの虎は、マニラ郊外の小さな刑務所の13階段を上った。フィリピンの最上級士官として、マニラでの水兵の略奪の責任を問われたのである。かれの抗告はワシントンの最高裁に達した。最高裁の判事の一人は、この裁判は政治的なリンチである、とたとえた。最終的な減刑の嘆願は、トルーマン大統領によって門前払いとなった。シンガポールの華僑の一部は、スク・チン(粛清)として知られる、日本の統治時代のポグロムの犠牲者を5万人と主張している。山下は裁判で、この虐殺のことは知らなかった、と述べたが、当初の無政府状態の混乱の芽を摘み取ることに山下は大いに関心を持っていたはずである。かれはこういった仕事を、狂信的とはいわぬまでも、仕事熱心な辻政信大佐にまかせていた。
  1945年9月、辻は消えていた。サフラン色の僧衣をまとって行方をくらませた。4年後、姿を現わせた辻は有名人になった。かれは一連の回顧録を出版して大成功をおさめた。辻の政治基盤は日本の再軍備にあり、武装中立を指向すべきである、というものだった。1957年、かれは中国を電撃訪問し、日本中に波紋を拡げた。かれは周恩来に迎えられた。周は、かれの軍歴をあまり問題にしなかった。他方、日本の新世代は、かれを知性より蛮勇を好む時代遅れの人間、と見始め、その人気は下降して行った。1961年、かれは単独の平和使節としてラオスへ向かった。そこでも人々は内戦に明け暮れていた。かれは共産主義パテト・ラオと面会した。そこからハノイ行きのロシアの定期航空便に乗り込んだところが、かれの最後の姿だった。1968年、日本の裁判所は、かれの法的な死亡を宣告した。
  マレー半島をシンガポールまで南下した第9旅団の旅団長、河村参郎中将は、シンガポール駐屯軍司令官となり、中国人殺戮の責任で絞首刑となった。近衛師団長、西村中将は、紙一重で死刑を免れたが、4年後、パリット・スロンでアンダーソンの傷病兵を殺害した科で、オーストラリアに訴追され、1951年6月、ニューギニア北部のアドミラルティ諸島にある豪州軍の基地で処刑された。INAに参加したプレム・サーガルは、ビルマで逮捕された。ラクシュミ・スワミナジャン博士と婚約していた。英国の情報将校は、もとINA隊員を三分類ー単に軍隊を忌避しただけのものを白、上級士官の命令が曖昧で困惑していた様子のものをグレイ、確信犯的な反英主義者を黒とした。サーガルは黒だった。かれは無期徒刑を宣告された。
  イギリスの新しい労働党内閣はインド撤退を決意した。インドは王冠の宝石だった。宝石なくして王冠が輝くことはない。戦後数年経って、シンガポールの陥落が英帝国の終わりの始まりになった、という言い方が流行した。これはもう一つの神話ーシンガポールの敗北は、海岸砲台が「間違った」方角を向いていたからだ、ということと同じように真実ではない。インドは、シンガポール陥落のずっと以前から離れ出していたのである。
  旦那方(トアン)と奥方たち(メム)が帰ってきた。ラッフルズの銅像がヴィクトリア劇場の正面の台座に戻された。東南アジアを支配したフランスとオランダは流血の事態の揚句出て行ったが、イギリスはしばらく居座っていた。マレー半島では、スペンサー・チャップマンが武器を与え、訓練した中国人共産ゲリラが英国に銃口を向け始めた。しかしマレー人と大半の中国人はこれに与(くみ)せず、ジャングルでの12年の戦いで英国は最終的に勝った。1957年、マレーは完全独立、1959年以来、シンガポールは自治権を獲得(1965年、分離独立)、1963年、北ボルネオの旧英領サバ、サラワクとともにマレーシアが構成された。インドネシアのスカルノ大統領はこの併合に頑強に抵抗した。コンフロンテーション(対決)の時代を経て、1966年、スカルノの退場でこの厄介な対決は終止符を打った。
  生まれ故郷のハートフォードシャーに隠居したパーシバルに、故国の仕打ちは温かいものではなかった。32年間の軍役のあと、1946年にかれは退役した。中将という名誉職で遇されたものの、通常この地位に与えられるナイトの爵位は貰えなかった。恩給も少将以下のものでしかなかった。5年間、かれはむかし属したチェシア連隊の名誉連隊長を務め、ハートフォードシャーの副師団長および地元赤十字の理事長となった。1957年に刊行された公式史書に「シンガポールの恥辱」と見出しが載った。しかし島を失ったことでかれだけが責められる筋合いはない。ブルック=ポッパム空軍中将と、フィリップス提督がマレー沿岸に日本の艦船群の存在を知ったとき、これを沈める、という判断をきっぱりくだせば、シンガポールは唯一助かる道があったのである。パーシバルは、あまりにも早く島を明け渡した、ひょろ長い体で格好悪い半ズボン姿で、ブーツを穿いたちっぽけな軍人たちに降伏して栄光を傷つけた、として罰せられたのである。
 かれは毅然としてこれに耐えた。1949年に出版されたかれの戦闘の手記、マレー戦記は非常に抑制的に書かれている。兵たちのある団体がかれを讃えた。極東捕虜協会の英国帰還兵たちである。パーシバルは、終身会長に選出され、1966年に他界するまで会合に出席し続けた。シャーウッド・フォレスター連隊はシンガポール戦で約50の死者を出し、抑留中に292名が死んだ。「あと講釈ではあるが、機会を捉えて打って出た方が良かったのだ」、大隊の歴史をまとめたクリフォード・ハリスは書いた。
 機会を捉えて打って出た一人に、トマス・ウィルキンソン中尉がいる。かれは、河川用のボート、リー・ウォ号で日本の輸送船に突っ込んだあと戦死した。沈没したリー・ウォの数少ない生存者が、抑留生活から戻ってこの話を伝えた。ウィルキンソンには死後であったが、ヴィクトリア十字章が贈られた。もう一人、リー・ウォ号の乗船者が声高にその認知を求めたのは、RAFの一射撃手である。かれは自らのルイス式軽機関銃にしがみつき、日本の輸送船の機関銃隊を根こそぎにした。問題は、だれもかれの名前を知らず、船が沈んだあと、だれもかれを再び見なかったことである。熱心に調査をすればどの部隊の所属だったかわかるかも知れない。しかしわれわれには、かれを、望みのない局面にあって、いつまでも白兵戦を続けたシンガポールの無名戦士のままにしておいた方が良いようにも思われるのである。
                                              (了)                                    
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2010/02/22

Singapore Burning 第五部 (つづき)

32 (降 伏 ー つづき)
  バンカ海峡で小沢の巡洋艦、駆逐艦はわがもの顔に振舞ったが、避難側のなかには、徴発された民間の小船舶を改造した掃海艇やパトロール船で勇敢に戦ったものたちもいた。バンカ島は、丁度小沢艦隊が運んだ日本陸軍が占領したところだった。そしてそこで、この海域最大の残酷物語が起こった。
 オーストラリア人看護婦65名を含む、約300名が乗船したヴァイナー・ブルック号は、船長、リチャード・ボートンの機略と巧みな操船術によって、昼間は隠れ、夜間航行もサーチライトに捕らわれることなく順調に航海していたが、ついに日本機に発見され、銃爆撃を受けた。漂流しながら島にたどりついた看護婦たち22人は、負傷者もいたため、ほかの民間人とともに日本軍に投降を決意した。やってきた日本兵は、みなを浜辺に並ばせ、目隠しをさせた。何が起こるかわかった、アーネスト・ロイド機関員は海に飛び込んで逃げた。ことが終わった。しばらくして看護部のシスター、ヴィヴィアン・ブルウィンケルは喉の渇きで目覚めた。処刑の銃弾はいずれも急所を避けていたのだ。突然、声をかけてきた男がいた。同じように逃げ終えたキンズレー二等兵だった。二人は2週間ジャングルで生き延びた。長時間塩水に漬かったブルウィンケルは感染症にかからず、先に回復した。現地人から、ムントックの収容所に看護婦が大勢収容されている、と聞いた。歩いている途中、日本の海軍将校の車に行き合った。将校は二人にバナナを与えてから、彼女をムントックに、キンズレーを病院に送った。収容所で看護婦たちはたがいの再会を喜び合った。しかし、仲間が海岸で処刑された話は日本側には内緒にしていた。これを知っていることを知られたら、ただでは済まないはずだった。
 2月14日土曜日、赤十字のマークを屋根や窓に掲げた、800名ほどの戦傷者が療養中のシンガポールのアレクサンドラ病院で、突然激しい戦闘が起こった。きっかけは、退却中のインド部隊が、病院の庭から日本軍にブレン機関銃を発射したことにある。一人の英人士官が指揮をしていたとも言われている。赤十字の旗のかげからの攻撃に対する日本軍の復讐は凄まじかった。この戦闘で、ここで手当てを受けていた歴戦の勇士の多くが死亡した。グルカ兵と間違われた日本兵捕虜もそのなかにいた。
 防禦側は数において10対1の劣勢だったが、第1マレー旅団は善戦した。またブラカン・マティ島の砲台の掩護砲撃は効果的だった。山下は兵力を集中した。抵抗は次第に下火になってきた。ベネットは勝手に動きはじめ、メルボルンに直接、降伏もあり得べし、と匂わせていた。藤原岩市少佐の工作が奏功し、ニースンで投降したインド兵の多くはINA(インド国民軍)に参加を表明し、イギリス側に叛旗を翻した。なかには将校もいた。プレム・サーガル大尉もその一人である。とくにガンジーの崇拝者は日本人に優遇された。
 2月15日日曜日、ストレーツ・タイムズ紙はー1頁の新聞になってしまっていたがー「ジャップ大攻勢ー英軍頑強に抵抗中」、と大見出しを掲げた。その隣の小さな記事は、パリット・スロンの英雄、アンダーソン大佐がヴィクトリア十字章を授かる、と伝えている。午前6時半、パーシバルは、フォート・カニングの塹壕のなかの、従軍牧師による聖餐式に参加した。かれは、降伏を許可する、というウェイベルからの電報を受け取っていた。「これ以上不可能と思われる時点において、抵抗を停止することの裁量を、貴官に委ねたく考えるも、ご意向うかがいたし。今後いかなる事態に進展しようと、貴官とその将兵すべてに対し、ここ数日における果敢なるご努力に謝意を表明す。」
 午前9時半、指揮官会議がはじまった。前夜の大攻勢によってベックウィズ=スミス少将は参加できなかった。ベネットが、ブキテマ回復の総攻撃を提案したが、みな沈黙した。会議は、4日前の山下の降伏勧告受諾と決した。午前11時半、司令部の先任将官、テレンス・ニュービギン准将、ヒースの幕僚、日本語使いのシリル・ワイルド少佐、海峡租界植民省次官のヒュー・フレイザーが軍使となった。白旗とユニオン・ジャックを手にして停戦ラインを超える瞬間は、敵味方双方からの狙撃があり得て、もっとも危険だった。キャセイ・ビルの屋上から日本国旗が10分間振られた。それはパーシバルが山下の条件に同意し、フォード工場で山下と会う、という知らせだった。
 午後4時半、パーシバルは山下と会見した。予定されたとおり、それは一方的なものだった。しかし、山下は、治安維持のため、その後24時間にわたって、1000名の英兵が武器を所持することを許可した。そして翌日、シンガポールに入城する日本軍の人数を少数にとどめた。
 その間、小舟でスマトラ、そしてインド、オーストラリアへ逃げ出した将兵のなかに、ゴードン・ベネットがいる。かれは色々な手立てを講じて12日後にはオーストラリアにいた。降伏のときに兵を棄てた高級将官はかれだけだった。公式訊問でかれは訴追を免れたが、二度と野戦の指揮は任されず、1944年に退役した。
 マレーとシンガポールの戦線における山下の被害は、戦死、3506、戦傷、6150、パーシバル側は、戦死、約7500、戦傷、約1万、そして約12万が捕虜となった。シンガポール上陸後の日本軍の犠牲者は、半島の戦域でのそれとほぼ同数で、戦死、1713、戦傷、2772である。1日あたり640の死傷であり、20世紀の西欧ではあまり例をみないものであった。
 降伏の翌日、近衛師団の参謀長、今井中将は、インド軍のビル・キー中将と会った。今井は東南アジアの地図を拡げてフランス語で会話した。「日本は、マレーとシンガポールをとった。すぐに、スマトラ、ジャワ、フィリピンをとるだろう。オーストラリアまではいらない。あなたがたイギリス人もそろそろ妥協する頃合だね、イギリス人はこのあとどうする?」「どうするって?」、キーは答えた。「このあとあなたがたを押し戻す、そしてあなたの国を占領しますよ。」
 
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2010/02/17

Singapore Burning 第五部 (つづき)

32 (降 伏)
 シンガポールの防衛ラインは、西側、ケッペル港と、東側、カラン飛行場を結ぶ28マイル、その防衛面積は約30平方マイルとなる。ここに約100万の民間人と、10万の将兵がいた。弾薬と同様に重要なものは「水」である。島の三つの貯水池のうち、二つは失われ、命綱は、いまやマクリッチー貯水池の南東がわからのパイプラインだけになってしまった。
 2月11日は、夕刻から市内にバリケードが築かれはじめた。近衛師団は島の中央部、ニースン村付近に進出し、第2/10 バルーチ連隊と交戦がはじまった。ノーザンバーランド・フュージリアのウェッブ少尉とその4基のヴィッカースは、大隊掩護の命令を受けた。半島に沿って転戦を続けた百戦錬磨のバルーチの中隊長は、ウェッブに自分の経験を伝授した。「日本軍は、最初にわが方の前衛を攻め、側面にまわる。だから包囲される前に逃げるんだ」。ウェッブは、インド部隊は信用できない、と思っていたが、バルーチは効果的に戦っていた。部隊で最先任のインド人将校、プレム・サーガル大尉の活躍は見事だった。ニースンでは近衛に傷がついた。同時に、インド第11師団の避難を許すことになった。ジョン・ゴートレイ中尉は、ハロルド・リリー中佐から、ティガー・プライス少佐への、「もっと右翼によれ」という指示の伝令を務めたが、脚を撃たれ、伝言は伝わらなかった。中佐は、かれの負傷の手当てを優先させた。
 海岸の15インチ砲は、戦車を道路に掴座させた可能性もあったが、夕刻6時半頃、解体命令を受け、撃ち方止めとなった。北部、西部からの避難民の群集のなかを、新しい戦場に向かおうとしていた第118野砲連隊の一部は、旧式の固定脚のクロード(九六式艦上攻撃機)やケイト(九七式艦上攻撃機)の機銃掃射を受けた。向こう見ずな敵機に対して、シーク部隊のボフォール高射砲が数機を撃墜した。
 前線兵士の激戦のさなか、空軍と海軍の将兵を逃がすという決断がなされた。それとともに、追加されたものがあった。日本軍との戦い方を充分に学び、その経験を、新しく編成する大隊に訓練することのできる有能な幹部将兵を選んで後送するという決定である。これは適者生存の原理というより、放置しておくと喪失してしまう、勇者中の勇者を温存する試みでもある。最初に選ばれたのは、4名のアーガイル軍の猛者、イアン・スチュワート中佐、日本の将軍を斃したアンガス・ローズ少佐、爆薬を失ったため手榴弾を結びつけ機関銃でそれを撃つことで橋を爆破した、デヴィッド・ウィルソン大尉、田舎駅での武勇伝の持主、アーサー・ビング先任曹長である。日本語通訳なども避難の対象となった。かれらはおおむね、在日経験者で、滞日中、西洋人であるということだけでスパイの嫌疑をかけられ、拘禁されたりした経験があった。アメリカから日本の外交電報を解読するため贈られたMAGIC解読器も処分されたようだ。戦後この機械はついに見つからず、海底深く沈んだものと思われている。
 スチュワートは、避難船団の指揮官、ピーター・カザレット大佐の旗艦、軽巡洋艦「ダーバン」に乗船する予定だった。船を埠頭で待つ間、西方から激しい砲火が聞えていた。ケッペル港対岸のブラカン・マティ島から、英軍の砲弾が頭上を飛び越えて行った。もともと海岸砲だったものが目標を内陸へ変えていたのだ。これらの砲は、破壊された15インチ砲と異なり、高性能爆弾を使用することができた。カスリン・ステープルドンは、係留中の商船「ゴーゴン」で砲声を聞いていた。彼女はRAFの通信センターで働いていた。避難勧告に抵抗していたが、夫の強い主張で、ありあわせのものを抱えて泣く泣く乗船した。夫婦の再会は保証できず、結果として、再会できないものが多かった。残ったものが必ずしも死ぬ、とは限らなかった。制空権、制海権が日本軍に握られている状況では、とどまるより出かける方に危険は多かった。
 船団には、オーストラリアの脱走兵が集団で武器を手にして、脅迫まがいに乗り込んできた。あちこちで小競り合いが起こった。なかでも最大の貨物船、12,500トンの「エンパイア・スター」号には140もの豪州兵が乗船した。この船は、フリーマントルとシンガポール往復の定期船で、主に冷凍肉を運搬していた。乗客用スペースは16名程度だが収容能力は抜群だった。裕福な民間人も乗っていた。かれらの乗用車、召使がぴかぴかに磨き上げたベントレーやシボレーは、港の交通路の邪魔になる、と用済みとなると惜しげもなく海中に放り出された。船長のセルウィン・ケイポンは、乗客の荷物を制限してスペースを空けさせた。引き続き脱走兵が押し寄せてくるので、ケイポンはタラップを引き上げ船を出帆させた。取り残されたものも多かった。
 日本の大本営は、シンガポールはすでに決着がついたと見た。帝国海軍は、次はスマトラ、そして石油地帯のパレンバンへ向かう。小沢治三郎提督は南へ針路をとり、その3隻の巡洋艦と1隻の航空母艦は赤道を越えた。これらには、ホンコンからの二つの歩兵旅団が乗船していた。狙いは、石油地帯から50マイルの下流で、ウェイベルが最近二つの航空基地を建設したバンカ海峡である。ここはシンガポールからバタビアへの最短ルート、まさにカザレット船団の目標地点であった。
 煙霧のなか、水雷除けの浮標(ブイ)が見えず、船団の歩みは遅々としていた。日本機6機による第一波の来襲は何とかしのいだが、続いて爆撃機9機のリレー状態で、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを襲った同じフォーメーションの攻撃を受けた。甚大な被害を受けたものの、エンパイア・スター、ダーバン両艦長の卓越した技量でこれも乗り切った。しかし、船団は分散状態になっていた。また小沢提督が同じ方角に向かっていることも露知らなかった。ゴーゴンはバタビアに寄らず、直接フリーマントルに向かった。入港予定は2月19日だった。英軍将兵はそこからただちにインドに送られ、ビルマ戦線に投入されることになっていた。
 ケイポンは脱走兵を何とか追い出したかったが、かれらは武器を携行していたのでトラブルが予想された。一計を案じ、かれは30名ほどの水兵にみすぼらしい制服を着せ、脱走兵に近寄らせて仲間意識を煽った。巧妙に武器をデッキにおいておくよう説得した。オランダ領東インド(現在のインドネシア)領に入港すると、かれらに隊伍を組ませ行進させた。倉庫の角を曲がると、そこには銃剣をつけたダーバンの海兵隊が待ち構えていた。オーストラリアの労働党政府のジョン・カーティン首相は、ウェイベルに電報を打ち、これら兵士をオーストラリアの承認なく死刑にしてはならない、と訴えた。
 カザレットの少船団は、組織化された船団の最後のものとなった。東京のラジオは、「シンガポールにはダンケルクを許さない」と報じた。まさにそのとおり、制海、制空権のないことにおいてはダンケルク以下だった。エンパイア・スター、ダーバンの足跡を追うシンガポール南東2千平方マイルの海は虐殺の海と化した。1942年のバレンタイン・デーがピークだった。死者のなかには、スプーナー提督、プルフォード空軍少将がいる。二人の乗った水雷艇が座礁してたどりついた島は、風景は見事だったものの、悪疫の島だった。かれらはその地でマラリアに倒れた。約44隻で、約5千名が脱出したが、40隻は沈められ、助かったものは約1250名だった。小型砲艦、「グラスホッパー(いなご)」は日本の捕虜のパイロット6名を護送していた。かれらは日本軍の空襲を職業的なまなざしで観察していた。一段落すると、かれらは負傷者の看護を手伝った。
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2010/02/11

Singapore Burning 第五部 (つづき)

31 (ブキテマの戦闘)
 聖なる日(紀元節ー2月11日)の午前9時少し前、煤煙で汚れた雲の下を飛ぶ日本機が、英軍がこれまで見たこともないようなものを落とした。それは鰭(ひれ)を持つ18インチ(45センチ)ばかりの筒で、全部で21個、色とりどりのリボンが結ばれていた。いくつかはジャングルの中に消えたが、爆弾ではないか、という恐怖心より好奇心が優り、拾ってみると、中に紙片が折りたたまれていた。
 「英国最高司令部御中ーニッポン軍最高司令官は、日本武士道の精神に基づき、マレー全軍の降伏を勧告す。大英帝国の伝統にしたがい、貴国軍隊が今や孤立し、救援を失ったシンガポールを果敢に防衛されしことに心より敬意を表す。しかし戦闘の概括的状況は、シンガポールの運命をすでに決しおれり。すべからく本勧告を受け、すべての戦線において敵対行為を終了せしむ命をくだされたし。即刻軍師の派遣を乞う。」
 クランジ=ジュロン・ライン回復のため、ベネットの兵力は早朝から動き出していた。しかし、期待されたカミングとその新たに編成されたジャート大隊は挟撃を受けて孤立し、ボイスの混成部隊は、油断をつかれて潰走した。またいくつかの局面で遭遇戦、肉弾戦が展開された。負傷してシンガポールに後送されたオーストラリア兵は、士気を失い、避難民といっしょにケッペル港からジャワに逃れることを望んだ。従軍記者のモリソンは、報道員に対する退去命令を受けて船に乗り込んだところ、まぎれこんだ3人の豪州兵が見つかって、水先案内人と同じボートでシンガポールに送還されるところを目撃している。このころには、豪州軍が崩壊した、という話は高級将官の共通認識となっていた。冷静なウェイベルですら、シェントン・トマス総督夫妻に別れを告げるとき、素顔を見せ、「こんな筈じゃないんだ」、と愚痴をこぼした。レディ・トマスは避難を断り、夫と行動を共にしていた。
 ウェイベルは、帰途のカタリナ飛行艇に乗るために、車から飛び降りたとき、誤って岩に張られた鉄条網の上に6フィート落ち、背中の骨を2本折る重傷を負った。ジャワの病院のベッドから、かれはチャーチルに報告を書いた。「日本軍の展開は急速だった。豪州軍にはすべてが裏目に出た・・」。海軍基地司令のジャック・スプーナー少将は、「すべては今や烏合の衆と化したAIF(豪州軍)によって惹き起こされた。シンガポールは一両日中に陥落するだろう」、と日記に書いた。しかし、スプーナーは間違っており、降伏はもう少し先のことだった。パーシバルはまだ島の4分の3を保持しており、戦う意思のある多くの将兵が残っていた。ブキテマ村には食糧、燃料、弾薬が大量に貯えられていた。パーシバルは、ヒースに、ブキテマの競馬場周辺に防衛陣を築かせた。ヒースは、かれの第3インド軍団の今や多数派となった英人大隊で部隊を構成した。とくにノーザンバーランド・フュージリアのライオネル・トマス中佐指揮の「トム部隊(トムフォース)」、輸送船、フェリックス・ルーセル号の対空砲火で勇名を馳せたトム・マッシー=ベレスフォード准将指揮の「マッシー部隊(マッシーフォース)」には希望が寄せられた。
 トムフォースはブキテマ村、とくに同じ名のブキテマの丘の回復を命じられたが、山下の第5、第18師団の精兵はすでに丘を包囲していた。トムフォースは、島の最良の道路、ブキテマへ向かう二車線道路を、日本軍の占領した北西地区からの中国人、インド人、マレー人避難民の群のなかを進軍した。丘を登りはじめると、断続的な砲声が聞え、ついに敵と遭遇した実感がせまった。前衛のA中隊の負傷した将兵が降りてくるところと行き会うと、未熟な隊員たちは浮き足だってきた。
 東海岸のチャンギからジョホール南岸へ向けて掩護砲撃をしていた、ジョホール砲兵隊の3基の15インチ砲は、目標を変えてブキテマへの長距離砲撃を開始した。射程は21マイルである。この砲弾は着弾すると、野外の水泳プールほどの大穴を空ける。1分間にほぼ2発の発射が可能だった。辻政信大佐は従兵を伴って車で戦況視察に赴いたところ、この砲撃を浴び、危うく命を落とすところだった。二人は側溝の土管の中で息を潜めた。
 この戦線のいたるところでそうだったように、ブキテマの戦いも整然とした戦闘ではなかった。スチュワートの率いる200ばかりのアーガイル兵は孤立させられたが、T95戦車に続く歩兵の待ち伏せ攻撃に励んだ。日本軍はすでに大規模なパトロール部隊をゴム園に繰り出していた。その一つは大隊司令部の10ヤードまで接近し、4人の将兵が殺された。そのなかに、迫撃砲将校のアルバート・ギスパートがいる。60年後、かれがマレーに創った「ハッシュ・ハウス・ハリアーズ・クロスカントリー・ランニングクラブ」は世界中にその支部を保有している。
 スチュワートは闇のなかでの乱戦は無益、と判断し、非常時の待ち合わせ場所、ブキテマ丘の北側の畜産試験場に移動することとした。乱戦で腹を打たれた勇者、スコットランド人の志願士官、ダグラス・ウェア中尉たちを運ぶ担架部隊も行動を共にした。スチュワートの中隊はうまく撤退できたが、前衛のA、Dの二中隊は切断された。大晦日のパーティでの大男のドラマー、サンディ・ムック先任曹長とその班は、マクリック貯水池を迂回してラインに戻ったが、ドナルド・ナピア中尉らは、パイプラインを伝って、一直線に戻ろうとしたところを襲われた。ナピアの部下、10数人は捕らえられて惨殺された。ヒュー・アンダーソン二等兵は、6箇所の銃創を受け、死んだと思って放置されたところを現地の中国人に救われて生き延びた。日本軍は部隊によって、その捕虜の取扱いに雲泥の差があった。ヒューバート・ストラテアン中尉は、単独の偵察行で捕虜となったが、日本側で訊問にあたったのは英語ぺらぺらでユーモアのセンスたっぷりの少佐だった。かれは同じく逃げそこなったイースト・アングリア師団の負傷者たちのために、医者を探してくれた。トムフォース、マッシーフォースとも不発に終わった。どのみち制空権を取られ、かれらは「丸裸」状態だったのである。
 トムフォースの現状視察に、対空砲火をものともせず、パーシバルは、車で前線に出た。かれが日本の降伏勧告にいつ接したのか記録はない。しかし、2月11日の午後遅くか、夕刻か、かれがブキテマから戻ってからだろう、と推測できる。直接の無線連絡は不能だったようなので、多分伝令が走ったのだろう。いずれにしても、その朝、かれが司令部を出発してから、フォート・カニングの塹壕に戻る間、情勢は大きく変化していた。日本軍は、シンガポール南西郊外へ急速に進出しており、アレクサンドラ病院方向にせまっていた。島の南岸で無傷に残ったブオナ・ヴィスタ砲台の15インチ砲は、命令により工兵隊の手で破壊された。英軍は結句、スタートラインに集結することになった。そこはアダムロードの熱帯向けチューダー様式の大邸宅である。籐の家具と、夕陽を臨みながら一杯やるバルコニーがついていた。ここは、パーシバルのシンガポール防衛線の最後の一角だった。ここから先には、もう撤退する場所はないのである。
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