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2010/01/30

Singapore Burning 第五部 (つづき)

30 (クランジ=ジュロン・ラインの突破)
 ベネットの歩兵第27旅団のダンカン・マクスウェル旅団長(准将)は、日本軍の侵入を目前にして二つの人事を行った。第2/26大隊長のアルバート・ボイス中佐と、第2/30大隊長、ゲマスの英雄、ゴルガン中佐を更迭したのである。ボイスは第一次大戦での戦闘経験がない、ゴルガンは耳が少し遠い、という理由で、リチャード・オークス中佐、ラムゼイ少佐がそれぞれ後を引き継いだ。マクスウェル自身もその前身は医師であり、これまで中隊以上の指揮経験はなく、上官ベネット、そして部下たちに負うところが大きかった。
 2月9日月曜日、マクスウェルの二つの大隊は、コーズウェイと西方、クランジ河口にわたる2マイルの海岸線に展開した。日本軍の橋頭堡は、まだずっと西方にある、と見られていた。マクスウェルは西側、左翼の増強を進言したが、日本軍の主力が西方にあるのか依然はっきりとせず、ベネットの賛意は得られなかった。結局、2個中隊が左翼へ分離させられた。マクスウェルは、左翼に攻撃が集中されて敵が渡河し、自らの2個大隊が崩壊することを懸念した。独断で、日本軍の上陸が始まったら時間を稼ぐために、コーズウェイ西方のウッドランズ燃料基地の2百万ガロンの商業用ガソリンを爆破し、その間に主力を撤退させる命令を出した。撤退の指揮は、オークスに執らせることにしたが、かれも畜産業が本職で、開業医よりうまく作戦を実行できるか、不安のあるところである。コーズウェイ地区の端のウッドランズには対戦車砲で支援されたA中隊、その上方、95高地と呼ばれる小高い丘には、4基のヴィッカース機関銃を備えた第2/4機関銃小隊を抱えたC中隊がいた。そこはジョホールバル水道を見下ろす絶好の戦闘位置だった。ゲマスで待ち伏せ攻撃を行ったダフィー中尉のB中隊は、燃料基地から600ヤードの位置にあり、ロイヤル・オーストラリア工兵隊のアーサー・ワッチョーン中尉は、基地の爆破準備を完了した。D中隊は予備隊として、1マイルほど南の大隊司令部といっしょにいた。大隊司令部は、使用不能となったジョホール貯水池からのシンガポール向けパイプラインの真上にあり、パイプラインは一直線でシンガポールの街につながっていた。
 西村中将の近衛師団について、山下は、安全な橋頭堡を確保したのちの止めの一撃の役目を負わせるべく、予備として待機させておくつもりだった。西村は、英軍の降伏は思ったより早期で、このままでは近衛の出番は、ウビン島の陽動作戦だけで終わってしまう、と懸念して、山下が了承するまで拗ねて強引に作戦に割り込んだ。午後8時半ころ、近衛の第4連隊は、オークスの第2/26大隊の正面に上陸した。砲弾による野戦電話の切断、サーチライトの欠如というテイラーの悲劇の繰り返しになりそうだった。しかし、接近戦でオークスの部隊は善戦していた。真夜中近く、やっと旅団司令部と連絡がつき、燃料タンクを破壊次第、撤退するよう命令を受け取ったが、既に遅すぎた。日本軍の幸運な一弾が、ワッチョーンの駐車していたトラックに命中し、積載していた爆破用爆薬をすべて燃やしてしまった。万事窮す、工兵隊は燃料タンクのバルブを開いて、2百万ガロンのハイオクタン燃料を、一気に近くの流れに流し込んだ。最初に上がったのは黄色い閃光だった。クリークに火砕流が拡がった。開いたバルブから次から次へと焔が繰り出されマングローブの岸に押し寄せた。英軍はついに炎の海づくりに成功した。近衛師団の渡河は阿鼻叫喚の地獄と化した。西村は、自らの師団の被った恥辱を逆恨みし、山下に「適切な防禦処置のない作戦で多大な犠牲を出した」、と強硬な苦情を申し入れたが、山下は取り合わなかった。
 その頃、方面最高司令官のウェイベルが、ジャワの本部からオランダのカタリナ飛行艇で、最後となった、島の視察にやってきた。その到着は、偶々RAF(英空軍)のシンガポールからの最終的撤収と重なった。ウェイベルと副官の一行は、サイム・ロードにあるパーシバルの司令部に向かった。これはブキテマ・ゴルフコースの南にある。高射砲の砲音が敵機が上空にあることを知らせていた。パーシバルは落ち着いていたが、非常に疲れた様子だった。パーシバルは豪州兵のやる気のなさについて、前夜、サー・シェントン・トマスにこぼしていた。シンガポール戦争委員会の全記録を安全保管のため、自らの日記の最後のページまでとともに、ロンドンに送ったところだった。
 ウェイベルとパーシバルは、ブキテマ村へ移ったベネットの司令部を訪れた。途中で、武器を手放し、真っ黒に油汚れしたオーストラリア兵の列に行き逢った。まるで交代で戻ってくる炭鉱夫のようだった。司令部への到着は日本軍の空襲によって歓迎された。直撃弾は、危うく3人の将軍を殺すところだった。ベネットも落ち着いてはいたが、その自信は揺らいでいた。日ごろ傲慢なベネットに対し、パーシバルには多少、他人の不幸を喜ぶ心理(Schadenfreude)が働いていたようだった。
 昼頃、一行は、ビル・キーの第11師団司令部に着いた。そこで、マクスウェルが兵力を引き抜いた西側のギャップを埋めようとしている、グルカ兵とガルワリ兵を見た。グルカの地区の塹壕に潜んでいた8名の、ずぶ濡れで裸になった日本兵が発見され、全員が銃殺された。ワッチョーンの炎の海の生き残りだったようだ。95高地をめぐっては一進一退の興亡が続いた。日本軍は相変わらず英人将校を狙い撃ちしていた。ウビン島の近衛師団の迫撃砲砲撃を受けているチャンギの重砲の視察を途中でやめて、ベネットの司令部に戻ったウェイベルとパーシバルを待っていたのは、遂にクランジ=ジュロン・ラインが失われた、というニュースだった。
 翌日早朝のジャワ向け帰路のフライトの前、ウェイベルはパーシバルと夕食を摂った。そのとき、チャーチルから電報が入った。ことばづかいは挑発的なものだった。1940年春、ノルウェー戦線から始まり、クレタ島の陥落を経て、いまシンガポールで起こっていることを反映するチャーチルの苦境を示している。首相は、島の一時的な喪失は覚悟していた。問題は、その経過である。かれは包囲戦に巻き込むことを望んだ。もっとも避けるべきは、早すぎる、恥さらしな、相手にとって華々しい降伏であった。それは丁度1年前、リビアで13万人のイタリア人相手にウェイベルが行ったことである。いまや英帝国と英軍の栄誉は危殆に瀕している、弱音や慈悲は無用、最後まで戦え、と、かれが将軍たちに与えたメッセージのなかで、もっとも厳しい内容だった。
 夕食を終える前、日本軍が、ちびタンクと呼んだ、二人乗りの偵察用無限軌道車の1台が、司令部の入り口にせまってきた。だれもが、敵がこんなに早く装甲車を侵入させようとは思っていなかった。戦車用上陸用舟艇を日本側が準備していると考えず、戦車を運ぶには、まず、コーズウェイを修理する筈と思っていた。それは味方のブレン軽機関銃運搬車だと思っていたが、迷い込んだのか、好奇心で近づいてきたのか、それは日本軍の戦車だった。ちびタンクの乗員は銃火を浴びて退散したが、情報を持って帰った。山下は、数隻のはしけで筏を組み、戦車を渡河させたのだ。ちびタンクの背後には少なくとも30台のT95戦車が控えていたのだ。
 木を切り倒すなどのバリケードを築く暇(いとま)はなかった。アーガイル部隊は、取りあえず故障したり、乗り捨てられた車輌で二重のブロックを急造した。乱戦が始まった。第1ブロックはまもなく破壊されたが、第2ブロックは、二人の将校、マイク・ブラックウッド大尉と、ジム・デヴィス海兵隊中尉の奮戦で守り切った。かれらは道路の排水溝に腹ばいになり、戦車から見つからない角度で対戦車ライフルを操作した。時間を稼いだその間、本隊は、3マイルさがったブキテマ防衛陣に合流できた。そこはフォード工場の近く、手強いオーストラリアの対戦車砲兵と、英国の迫撃砲部隊が、視界良好の陣を敷いていた。旅団少佐のアンガス・マクドナルドが自らの乗車、小型のフィアットをバリケードに供しているとき、最初の戦車群が姿をあらわした。2602年前の日本建国の記念日、キゲンセツの前日が明けようとしていた。場所は、ラッフルズ広場から6マイルちょっとのところである。
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2010/01/19

Singapore Burning 第五部 (つづき)

29 (上 陸)
 日本軍第5師団、第18師団はボート、船腹の不足で全軍が一丸となって渡河したわけではない。一回で運べるのは4千名程度だった。待ち構えているのは約3千の豪州兵である。山下は「Schwerpunkt」(核心点)としてテイラーの第22旅団の防備地域を選んだ。パーシバルの薄い陣地にまず穴を開け、そこから拡がって行く戦法である。山下はサーチライトの放射、そして野戦電話線が砲撃によって破壊されていたとしても、信号弾が上陸を告げることができるので、それらの反応を懸念していたが、これは二つとも起こらなかった。
 テイラーは水上を渡るパトロール(偵察隊)を出していたので、サーチライトは自らに不利でもあった。上陸部隊とパトロールの遭遇戦はテイラー側の悲劇に終わった。サーチライト部隊の防備は、貧弱だった。開戦前に訪れた従軍記者のモリソンは、この部隊を「自殺部隊」と形容した。前線の歩兵は、日本軍上陸部隊の暗い影が形を整えてくるのをただ見つめるだけで、頼みとする重火器の掩護砲撃はなかった。前方からの「のろし」はジャングル、ゴム林にさえぎられていた。砲兵たちは、ここ1週間というもの、距離、口径測定、信管発破のタイミング、装填、指定域の空中爆裂効果などの演習を繰り返し、準備は充分で、命令だけを待っていたのである。欠けていたのは、電話が不能となったときの取り決めだった。相互連絡不徹底で、オーストラリア砲兵隊はその一部だけが奮戦していた。
 日本軍のシンガポール上陸の最初のヒーローは、工兵隊のボートの舵取りである。乗員である兵は舟のなかでかがんでいたが、舵取りは砲火のなか接岸した。その一人、ヤマモト・キヨイチ一等兵は、迫撃砲弾らしきものでで、腹、胸、右腕を負傷したが、暗闇のなか、兵たちは気がつかなかった。感状によれば、かれは全員が上陸するまで舵を手放さず、そのあと「天皇陛下万歳!」を叫び死んで行ったようだ。テイラーの豪州兵に甚大な犠牲が出たことも疑いない。アライ・ミツオ曹長の回顧によれば、午前1時ころ、自分がボートから飛び降りたとき、「なにやら冷たい踝(くるぶし)を掴んでしまった」と。夥しい屍体が浮かんでいたようだ。
テイラーは第一次大戦の殊勲者ではあったが、陸軍大学で訓練を受けたプロの軍人ではなく、一介の科学者で、その指揮は理論に重きをおくものだった。その命令は、孤立した守備位置の死守というより、明からさまな退却への誘導だった。最後まで戦い抜いたものに褒賞が与えられるわけではなかった。日本兵にとって、殺すか殺されるか、の戦場が、豪州兵にとっては「殺されるか、退却」だった、と第5師団の機関銃兵、オチ・ハルミは語っている。日本軍の下級指揮官、尉官、曹長、伍長たちは夜光塗料つき腕輪になった磁石をみな携えていた。かれらへの命令は簡単なものだった。どんなに迷っても、とにかく南、ないし南東へ向かえ、そして爆撃、砲撃攻めになっているテンガー飛行場へ集結せよ。海岸とテンガーの間には、マングローブのクリーク、泥沼、渓流が横たわっており、そのすぐ南に、テイラーの司令部のあるアマケン村があった。今や、両軍ともに同じ方角に向かって動いていた。暗闇の雨に濡れたジャングルの道を、双方、這いまわっていたのである。不可避的にそこここで遭遇戦が起こった。クラレンス・スパックマン伍長の一斑は、刀を振り回す将校に引率された日本兵の一団と出会い、泥濘のなかの混戦から生還した。
 テレンス・マイクルジョン中尉の小隊は、4基のヴィッカース機関銃がその兵力のすべてだったが、この4基は、周囲の歩兵が撤退すると告げてくる前に、2万発を撃った。日本軍はかれらに対し迫撃砲攻撃を仕かけてきたが、突撃して全滅させようとはせず、包囲陣を敷いていた。逃亡路は沼地だったので、マイクルジョンの兵は、ヴィッカースを解体して運ぶことにした。行く手に日本兵が休憩しており、21歳のマイクルジョンは、自らのレボルバーで戦い、兵士の脱出を掩護したが戦死した。
 1942年2月9日の太陽が昇ってきたころ、テイラー旅団の最大の部分は烏合の衆と化していた。多くのものにはすでに武器がなく、ズボン下にブーツという半端な恰好のものもおり、ほとんどが睡眠不足だった。ヴァーレイの第2/18の全中隊は、シンガポール郊外のブキテマという南の村に着くまで敗走をやめなかった。かれらはその行程の間、ほかのオーストラリア部隊に行き逢わなかった、とのちに主張したが、かれらは、第2/29大隊とテンガー飛行場の特別予備部隊の守備範囲を通り抜けなければならなかった筈である。「みながみな、ヒーローであるとは限らない」、パーシバルは、1918年春のドイツ軍の最後の大攻撃の光景を思い浮かべて記録した。かれはフランスの村で、イギリスの21に及ぶ異なる部隊の「はぐれ」兵士を見ていた。そのときは、落伍兵用の組織ができていたが、テイラー准将はそこまでの準備をしていなかった。つい1ヶ月ほど前、ゲマスの待ち伏せ攻撃で、ベネットのいう「どんちゃん騒ぎ」をやって希望に溢れた師団はもう二度と戻ってはこない。
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