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2009/12/06

Singapore Burning 第五部 (つづき)

28 (接 近)
 二つの斥候隊は、一つは5名、もう一つは3名で構成した、いずれもテイラー准将の第22旅団の志願兵である。かれらはいずれも2月6日、サンパンで出発し、翌晩もどってきた。日本砲兵陣地の50ヤードのところまで近づいたが、日本軍が上陸用の小舟を整えているようには見られなかった。日本人の歴史の知識のあるものは、山下が、2月11日のキゲンセツ(紀元節ー2000年のむかし、太陽神、天照の後裔、神武天皇が即位した日)までに、島の奪取を目論でいるのではないか、と予測していたが、一方、山下は、聖なる日を汚辱にまみれさせるわけにも行かないだろう。
 山下は、たった55日で700マイルを突き進んだ。戦死、1793、戦傷、2772がその代償だった。250の橋を修復し、5千名を殺害し、8千名を捕虜にした。このなかにはペインター、チャーレンの二人の准将がいる。その後ジャングルの彷徨で、飢えと病気で降伏したものを加えると、捕虜は1万1千名に達した。2月11日の問題は別として、山下にはスピードが重要だった。その兵士たちは、東南アジアのいたるところ、スマトラ、ジャワ、ニューギニア、ニューブリテンなどなどで必要とされていたのだ。島への攻撃、ゼロ時間は、2月7日の日没直後と設定されたが、二人の師団長が、もう24時間の延期を申し入れ、山下は苛立ちもみせず、それを了承した。かれの部下が必要のないことを申し出てくる筈はあり得なかった。
 しかし、7日から間断ない砲撃が実施された。そして闇にまぎれて、近衛一大隊が、外付けエンジンの折りたたみ式ボートでジョホール水道東端のウビン島に上陸した。驚いたことに、この上陸には全く抵抗がなかったのである。パーシバルはここに防衛部隊を配置せず、ノーフォークの警備兵が巡回していただけだった。最初の銃火で、ノーフォークは最初の犠牲者を出した。この上陸そのものは、山下の西側大攻勢を隠す陽動作戦だった。山下はウビン島が無防備だったことに疑念を抱いた。パーシバルは自分の真意に気がついているのか?海抜約300フィートのウビン島の頂上からシンガポール東方のチャンギ方面の敵状を探ったが、石油タンクの煙が濃く、よくわからなかった。
 空爆と砲撃は、アマケン村のテイラー旅団司令部に及んできた。テイラーはクランジ=ジュロンの反転線(スイッチ・ライン)の後方に陣取る意向だったが、これはベネットの意見と合わなかった。パーシバルは、島の東端はチャンギ地区をかかえるセランゴン線で、西端はクランジ=ジュロンの二つのスイッチ・ラインで切り離すことを考えていた。そのかわり、島の北岸と南岸を死守するのである。ベネットはオーストラリア軍の後衛を補強するため、主計兵、兵站部隊、工兵、近眼の不適格兵などを総動員した。もっと特殊な部隊は、ダルフォースである。これは中国人やくざを組織化したものである。これは闇の世界に詳しい、シンガポール警察出身の、ジョン・ダーレイ中佐が創設した。全員に軍服は行き渡らず、かれらの唯一の欠点、日本人と見分けがつかないことをカバーするために、白い鉢巻を締めた。
 2月8日、日曜日、午後7時、一斉砲撃が西方で始まった。野戦電話が砲撃で機能しなくなり、大隊間の連絡に伝令が走った。砲撃の激化は、侵入攻撃が近いことを予測させた。2/20大隊D中隊の兵士が、砲声の中からボートのエンジン音を聞き分けた。コル・ニコル一等兵は、ブレン軽機関銃を続けざまに発射した。電話のかわりに取り決めた、敵の上陸の合図だった。斥候が日本軍のボートを見つけられなかったのは、かれらがたくみにジャングル、ゴム林に隠蔽していたからである。数十艘の色々なサイズのサンパンを別として、最大のものは、タイの沖合い、コタバルで使われた、鋼鉄製の小型上陸用舟艇が、鉄道と道路で運ばれてきていた。主力とされたのは、ウビン島の作戦でも使われた、折りたたみ式、外付けエンジンのボートである。これは熟練した兵隊ならばおよそ2分で組み立てられ、二三艘をつなげてからデッキを作れば、野砲、または小型戦車なら積載可能だった。出発地のスクダイ川では、座礁を避けるため、兵士は川の中ほどまでは歩いて渡った。スクダイの河口では150ばかりのボートのレガッタが始まった。兵たちは、戦死した戦友の遺灰をブリキ缶ーイギリス煙草の平たいものが理想的だったーに詰めて、一緒にシンガポールに赴くと誓った約束を守ることにした。故国へ送る遺骨の一部である。頭上を友軍の砲弾が飛び越えていた。英軍の反撃開始前に、自分たちは、どこまで行くことができるのだろうか?
 
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2009/12/02

Singapore Burning 第五部 (つづき)

27 (シンガポール炎上)
 シンガポールは燃えていた。山下は、英軍が貯蔵タンクの石油をジョホール水道に流し、それを燃やして火の海にすることをもっとも警戒していた。そのため空爆と砲撃でまず石油タンクを狙い、4基を燃やしたのである。英国がドイツ軍の海上からの侵攻に備え、英仏海峡を火の海にする技術を開発した、という噂が山下の懸念の背後にあった。実際にそのような発明はできていなかったが、イギリスは、アメリカの新聞を使って、ドイツにそのように思わせていた。しかし自軍の作戦で燃やした石油の白煙は、航空機や気球による弾着測定を困難にさせ、日本軍の砲撃は盲射ちになってしまった。
 大砲の数からいえば、英軍が若干有利だった。山下は持てる火力のすべてを動員した。日本軍の大砲主力は1890年代のクルップ製で、ルドリング曹長が見たとおり車輪は木製だったが、砲弾は最新のものを使っていた。マレー半島を下(くだ)る55日間の戦闘で、双方がこれほど多数の大砲を準備した戦闘はなかった。兵力は、英軍、約9万、日本軍、約3万と圧倒的にパーシバルが勝っていたが、日本兵3個師団はすべて百戦錬磨の精鋭で、しかも勝利の連続でここまできている。またその背後にはタイからインドシナにかけて、なお5万の動員力を持っていた。パーシバル側には英、豪、印の救急要員、6千名もあり、パーシバルは実戦要員は7万と見積もっていた。
 「すべてを防禦するものは、何ものをも防禦していない」、これはフリードリッヒ大王の言葉である。パーシバルもこの言葉は知っている筈だ。シンガポール島の海岸線延長は72マイルである。山下が北側から攻撃してくることは間違いない。しかし、その主力が東西どちらからくるのか?パーシバルにとっての難問だった。ウェイベルは、水道最狭部の西からくる、と判断したが、それは常識的すぎる。パーシバルは、東から、と決断し、インド第3軍の、イースト・アングリア3個旅団、インド2個旅団を東側に展開させた。インド軍とは名ばかりで、うち三つは英国旅団である。民間人には安堵感を与えた。多数の兵員がハンモックや、カムフラージュした車輌に寝泊りし、野外炊事場で食事を用意した。兵士にとって中隊の司令部ですら遠い存在であり、その世界は仲間うちにかぎられ、10数人の間で食料、飲み物、タバコとジョークを分け合い、まれではあるが、おぞましい恐怖心を共有した。
 コーズウェイの西側には、パーシバルはベネットの第8豪師団をおいた。これに、到着したばかりのジョージ・バランタイン准将の第44インド旅団の3個パンジャブ大隊をつけたが、その兵士たちは未熟だった。オーストラリア兵たちは、マレー半島縦断戦での成功体験もあり、機敏に戦闘準備に入った。しかし、折角構築した防禦陣地を実戦に入る前に放棄して移動するよう命令されたり、不本意な出来事もあった。防衛するつもりだった海軍基地も廃墟とされ、当惑せざるを得なかった。兵士の士気は阻喪されつつあったが、将校のなかにも敗北主義者が出てきた。第27旅団長のダンカン・マクスウェル准将は医学を修めていたが、医者として人間の生命を救う立場から、パーシバルに、シンガポール島で将兵を犬死させてはいけない、とひそかに忠告していた。パーシバルの回顧録にはこの話は出てこない。
 上層部の陰鬱な気分は伝染して行った。しかし、軍民の能天気な連中はそれに気づいていなかったのか、またはそれを無視しようとしていた。かれらにとってのベストの予想は、長期の篭城だったのである。パーシバルは記者会見で、「どのみち、それを望んでも、シンガポールから引き揚げることができようとは思えない」、と言った。ナーバスな笑いが起こった、とモリソンは記録している。食料、飲料、豚肉、米、少なくとも6ヶ月分は確保している、と政府は発表した。小麦はセイロンへ送り返せるほどある、と。コーズウェイのパイプラインが断たれて、本土の給水は望めなくなったが、島内の三つの貯水池は満杯だった。「シンガポールは頑張れる」、総督のシェントン・トマスも放送した。かれはレディ・トマスとインドへ逃げ出した、という噂を消すため、空襲の被災者の後片付けを袖まくりのワイシャツ姿で手伝っている写真を新聞社に撮らせた。ステープルドン夫妻の使用人、中国人の「ボーイ」が街で空爆にあって怪我をした。病院に運ばれたが、夫妻はかれがどこに収容されたのか探るのに手間取った。どこの家庭でも同じだが、かれを日ごろ「ボーイ」とのみ呼んでいたので、その名を知らなかったのである。
 カスリン・ステープルトンは、RAF通信センターでテレ・プリンターを操作していた。基地では、シンガポール防衛の最後のハリケーン中隊のパイロットが前線から戻って休んでいた。スクランブルがかかると、すぐまた出動しなければならない。かれらは疲れきっていた。カスリンにとって尊敬すべき若者たちだった。一般市民はパイロットの活躍を、ロナルド・レーガンほかが演ずる映画、「International Squadron-RAFの外人部隊(邦題:なぐりこみ戦闘機隊)」をアルハンブラ館で見た。映画館の前には色々な人種が行列を作っていた。映画は一時的にせよ、いやなことを忘れさせてくれた。
 噂が広がった。日本軍がパラシュートで上陸してきた、というのである。これはあとで、白煙を見誤ったものとわかった。本土に残置したSOE(秘密情報局)の諜報員のリレー組織を作ったものの、敵の動静観察には、大雑把であまり役に立たなかった。結局、サンパンで水道を渡って実視する偵察に頼ることになった。これで、東方のウビン島に大規模な日本軍の集結が発見された。パーシバルの予測は当たったようだった。そして、オーストラリアの二隊にわかれた斥候が、同時に、西方の日本軍の存在を確認した。
 
 
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