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2009/11/24

Singapore Burning 第五部 包 囲

26 (包囲前夜のシンガポール)
  記者会見で、軍のスポークスマンは、軍民の士気に影響する、という理由で、「包囲(siege)」という言葉を使うことを避けた。ザ・タイムズのイアン・モリソン記者ほか報道関係者の抗議により、妥協的に「封鎖(investment)」という言葉が使われることになった。しかし、所詮事実を誤魔化すわけには行かず、検閲官は「シンガポールは包囲された(besieged)」という記事を通した。
  チャーチルはウェイベルに「1インチたりとも領土を譲るな」と督励したが、ウェイベルは、「手中のあらゆる資源を使って防衛準備中であるが、成否は増援に依存する」と返事をした。パーシバルは、焦土作戦を取るか、最後まで戦い抜くかの二つに一つだが、この両方の作戦を一度に取ることはできない、という意見だった。チャーチルはパーシバルに一理あり、と認め、海軍基地の完全破壊を命じた。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの悲劇以来、はっきりしてきたことは、今やチャーチルも、参謀総長のブルック元帥も、ウェイベルも、奇跡が起こらぬかぎりシンガポールの陥落は不可避である、と考えているらしいことである。為すべきことをできるだけ為した上で、オランダ軍ないし米軍の支援を期待するほかなかった。パーシバルは、ジョホール海峡に向かうシンガポール島北岸の防御陣地強化作業に取りかかったが、半島放棄の姿勢が一般に動揺を与えないよう、密かに、慎重に行う必要があった。難民の流入で労働力は豊富にあったものの、協力的なものは限られており、質量ともに問題があった。
  日本軍の迫撃砲弾によって、沿岸の20基の石油タンクのうち、4基は燃えていた。修理ドックで軍艦の砲塔をまるごと吊り上げる巨大なクレーンの桁も傷を負っていた。海軍基地破壊にともなって、物資が先着順で兵員に配られた。規律はかなり緩んでいた。海軍の基地要員、300名ばかりはケッペル港に移動し、基地は陸軍に委ねられた。鳴り物入りで作ったアジアの要塞をロイヤル・ネイビーが立ち去ることは、フィリップスの敗北以上に士気を阻喪する、ベネットはそのことを認識していた。
  チャーチルはルーズベルトとのサミットから戻った。そしてアメリカ人が中国をいかに重要視しているかを再確認した。中国は日本の軍事エネルギーの大半を吸収しており、中国の命綱、蒋介石への援助物資はラングーンの港からビルマを350マイルたどって運ばれていた。シンガポールの防衛不可能説にはルーズベルトも同調しており、チャーチルは、シンガポールの帰趨は運命に委ね、増援として航行中の第18師団の残りの部隊は、もっと効率の良いと思われる方面へ振り向けようと示唆しだした。しかし、これにはオーストラリアが猛反発した。もともとチャーチルとあまりうまく行っていない首相のジョン・カーティンは、「それは説明できない裏切りだ」と、強硬に抗議した。今、オーストラリア人を怒らせてはまずい、チャーチルは結論を出した。
  1月末、香港の警察庁に勤めていた、ミス・フィリス・ハロップがポルトガル領マカオを経由して逃げてきて、クリスマスの香港降伏時の日本軍の殺人とレイプの話を齎した。パーシバルはこれまで、民間人の避難についてはそれほど心配していなかった。多くの女性が、看護婦、運転手、民間防衛などで立ち働いており、将校夫人は、司令部の暗号解読などで活躍していた。ペナンからのヨーロッパ人のあわただしい撤退が、人種問題に火をつけたこともあって、総督のシェントン・トマスはそれを二度と繰り返さない信念を持っていた。1月21日、パーシバルは陸軍省に対し、すでに5200のヨーロッパ人婦女子が避難し、残り4200のうち、600を除き同様に出国させたい、と報告した。オーストラリアには、一時「白豪主義」を停止し、中国人主体のアジア人5000名の避難民を受け入れるよう要望したが、最終的には、僅か50の中国人と、同数の混血が引き取られただけだった。伏せられていたミス・ハロップの話が広まると、ヨーロッパ人女性の避難が加速した。看護婦が多数出国するのは問題がある。アレクサンドラ病院の最重傷者用のセイロン向け病院船に一部看護婦を同行させたが、このように少しずつ負傷兵といっしょに送り出す方法がとられた。
  ジョホール・バルの空には日本のツエッペリン型の偵察飛行船が浮かんでいた。アーガイルのアンガス・ローズ中佐は、イアン・スチュアート中佐のDSO(Distiguished Service Order-殊勲章)受賞記念のゴルフに興じていた。日本の爆撃機の砲弾が耳をかすめて、ローズは微妙なパットを外してしまった。生還した英軍将校たちは、灯火管制下のシンガポールでパーティを開き、ラッフルズ・ホテルのバーで飲んだ。ダン・ホプキンスのバンドは相変わらずスイングを演奏していた。
  増援第18師団の最終組はシンガポールに近づきつつあった。ノーザンバーランド・フュージリア第9機関銃大隊、これはマーク・ベックウィズ=スミス少将の堅牢無比な部隊の一つである、ほかに装甲車とブレン軽機関銃牽引車を伴った捜索連隊、2ポンド砲を装備する第125対戦車連隊、輸送部隊数隊と師団付き修復部隊がその構成である。一行は、ボンベイを1月23日出航した船団に分乗していた。船団にはアメリカの定期船や、スエズでフランスから捕獲した、いまは自由フランスに所属しているフェリックス・ルーセル号などが動員されていた。護衛は、1939年、リバー・プレートでドイツのポケット戦艦、グラフ・シュペーを追い詰めた艦隊にいた英巡洋艦、エグゼクターである。海軍は船団が、バンガ海峡を日本軍に発見されずに無事通り抜け、2月5日明け方に到着する、と読んでいた。しかし2月4日水曜日午前、高高度飛行中の日本の爆撃機がバンガ海峡で発見した。爆撃機は空襲の帰路だったようだ。残っていた爆弾をエグゼターに投下したが無駄弾に終わった。
  いずれにせよ船団は発見された、日本の航空隊はただちに襲いかかってくる筈だ。大隊長、レクメア・トマス中佐は将兵を集めて、船団は一旦バタビアに暫時戻り、機をみてシンガポールを目指す、あるいはこのままシンガポールに直行する、という二つの選択肢があることを説明した。かれは後者を選択し、全員これに異議を唱えなかった。早速、日本航空隊の攻撃が始まった。ルーセル号の全長にわたって銃撃を加えてきた。機関銃隊は甲板に軽機の三脚を配置して応戦した。すさまじい爆音、炸裂音、機銃音、三菱エンジン音のコーラスが鼓膜を覆った。ルーセルは外観上の偽煙突に直撃弾を受けた。輸送船、エンプレス・オブ・アジア号は中央部に火災が起こり、乗員は退避した。小艇群と駆逐艦が救出作業を行い、7名を除いて2000名が無事だった。積載していた対空砲と車輌はみな失われた。ヴィッカース機関銃は、多分3機、少なくとも2機の日本機を撃墜した。
  フェリックス・ルーセル号は、ほとんど無傷のノーザンバーランド将兵を乗せて、堂々とシンガポールに向かった。ケッペル港に入る前、従軍牧師の主祭のもと、死者が海葬された。ラッパの吹奏はなかった。大隊のラッパ手、ジョージ・エリントンは、海中へおろされる担架のなかの一人だった。行く手の島は黒煙に覆われていた。太陽はさえぎられていた。シンガポールは燃えていた。(Singapore was burning.) 
  
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