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2009/11/15

Singapore Burning 第四部 (つづき)

24 (パリット・スロンの戦闘)
  アンダーソン部隊はその近辺にはいなかった。かれらは、たった15マイルばかりを2昼夜かけて、戦いながら、コンクリート造りの太鼓橋、パリット・スロン橋をめざしていた。別の道をたどるデュークの第53旅団も、パリット・スロンとヨンペンを結ぶ道沿いの丘、ブキ・ベラの占拠に失敗してフラストレーションに陥っていた。勇士、ムアヘッドは指揮下のパンジャブ兵が早とちりのノーフォーク兵に誤射されている、と思って停めに入ったところ、相手は日本兵で、戦死してしまった。
  南アフリカ生まれのアンダーソンと大隊のオーストラリア将兵は、いまや心を一つにした。行く手の道路は閉塞され、近衛兵が待ち構えており、しばしば乱戦になった。アンダーソンは、パリット・スロンはまだ日本軍の手に落ちてはいない、と思っていた。53旅団の情報将校、ウォルター・グリーンウッド中尉は、1週間ばかりこの地域に潜み、すでに日本軍がパリット・スロン橋を占拠していることを目撃し、ヨンペン近くのデュークの司令部を訪れていたヒースとパーシバルに報告したが、あまり関心を示して貰えなかった。
  1月21日午前2時、アンダーソン部隊はパリット・スロンの街に着いた。東側1マイルの先にある橋の両側を、日本軍はすでに抑えていた。これが激戦の初日だった。両軍一進一退を繰り返した。ここ4日間、帯同していた戦傷者の傷が悪化し、壊疽の悪臭を放ちはじめた。オーストラリア軍の軍医は、敵と交渉し、ヨンペンに戦傷者を送らないとみな死んでしまう、と進言した。白旗を掲げた2台のトラックが橋を渡った。日本側は、了解するが、全軍の降伏を条件とした。交渉は決裂した。アンダーソン部隊は今や橋を頂点とし、底辺を1000ヤードとする三角形に閉じ込められた。
  翌朝払暁、マレー義勇航空隊の2機のタイガー・モス(蛾)が飛来して、モルヒネと食糧を投下した。その出現は日本軍を驚かせた。その後、アルバコア(びんながまぐろ)2機、シャーク1機の複葉雷撃機がやってきた。これはプルフォードが準備できたすべてだったが、バッファロ戦闘機との待ち合わせには失敗していた。これらは薬と食糧のほか、機関銃と250ポンド爆弾を搭載していた。アンダーソンは、橋の爆撃を期待したが、航空隊は南へ向かって、輸送途中の日本軍の隊列を爆撃、掃射した。東の方から砲撃が聞え、アンダーソンは53師団の掩護による戦局の好転を予想したが、砲声は弾着距離測定のもので、空中爆発信管が高湿度によって機能せず、砲撃は見送られた。デューク准将は、砲撃支援なくして攻撃は不可、との考えで当面不作為に徹した。ベネットは憤激したが、豪軍は奇襲のチャンスを逸した。
  この辺の事情は知らず、アンダーソンは、三角地帯はどこも持ちこたえられない、と判断し、パリット・スロン橋の正面突破を決意した。橋のバリケードは土嚢、ドラム缶、木材などで三段構えに築かれていた。車輌を突っ込ませ、手榴弾を手にした命しらずの攻撃隊が二つまでバリケードを破壊したが、南部軽機関銃の待ち伏せは強力だった。攻撃は、勇者中の勇者たちの犠牲で終わってしまった。アンダーソンは、負傷者で歩けないものを日本軍にまかせ、残った野砲を破壊し、ジャングルと沼をたどってヨンペンへ徒歩で赴くことを決意した。ゲマスでの救急車に敬意を表した日本軍の態度を見れば、負傷者を残す判断は妥当なものと思われた。残るものはトラックに載せられたが、人選はデリケートな作業だった。
  残されたものの運命は悲惨だった。ほとんど全員が虐殺された。将校のなかで唯一生き残ったのは、両脚に深傷を負っていたベン・ハックニー中尉である。かれは捕虜収容所となったバラックの前で、近衛師団長、西村琢磨中将が通り過ぎるのを見た。柄から飾り紐で低く吊り下げた軍刀が印象に残った。西村は参謀たちに、「捕虜の将校を、ショブンするように]、と言い置いた。野中正市大尉は、日本語のショブンを、後方へ移送すること、と理解したが、二人の同僚参謀は、これを「処刑する」ことと主張した。それは後日の西村自身の運命だった。捕虜となった将校は6人だけだった。6人が数珠つなぎになって処刑場へ引き立てられるとき、一番端にいたハックニーはつまずくと立てなかったので全員の進行を妨げた。ハックニーはやむなく切り離され放置された。ハックニーは死んだふりをすることにした。傷の状態からそれは簡単なことだった。一度通りかかった日本兵が、かれのオーストラリア製長靴に目を止め、乱暴に引き抜いた。大変な苦痛だったが、かれは必死に息をおしとどめた。日本兵が完全に去ったことを確認し、かれは田んぼに這いより、水をがぶ飲みした。そして、建物の土台の煉瓦で背中の縄をこすり落とした。まもなく友軍のロン・クロフト曹長ともう一人重傷を負ったオーストラリアの一等兵が通りかかった。クロフトはまず一等兵を付近の木陰にかくし、ハックニーよりずっと小柄だったが、かれを背負い同じ木陰に連れ込んだ。
  800名強がヨンペンに戻ってきた。うち499が豪州軍の2大隊、25ポンド砲兵隊だったが、すでに装備はなく再編が必要だった。残りは戦死したダンカン准将の45旅団である。旅団の英人士官は3人しか残っていなかった。歩いてきた戦傷者は100名ほど、さっそく手当所に送られた。右腕を撃たれたコリンズ伍長の壊疽ははげしく、後日シンガポールで肩から切断された。
  ムアール地区に駐屯していた近衛軍は捕虜の扱いに丁重だった。パリット・スロンではオーストラリア兵の活躍で、復讐の念を換びさましたらしい。山下が西村の虐殺を知っていたかどうか不明である。山下の人間性を過大評価するわけではないが、山下は少なくとも、残虐行為が戦争の大義を損なうことを知っていたと思われる。
  アンダーソンはヴィクトリア十字章に輝いた。パーシバルは豪州兵の不屈不撓の戦いをマレー戦史の一つの叙事詩とたたえた。かれらがヨンペンの孤立を防いだことはまちがいがない。しかし、ムアールの戦いはジョホール防衛の最後のものだった。パーシバルは、シンガポールへの撤退決意以外に選択肢がないことを知っていた。  
  
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