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2009/11/05

Singapore Burning 第四部 (つづき)

21 (クアラルンプールの明け渡し)
 スリム川の激戦の頃、連合軍南西太平洋最高司令官、ウェイベル大将が、ジャワで行われる、英米蘭軍事会議出席の途次、シンガポールを初めて訪れた。かれは、前泊のラングーンで空襲に遇い、危うく命を落とすところだった。翌日、大将は、オーストラリアのハドソン機に搭乗し、クアラルンプールの北にある、ヒースの第3軍団司令部を視察した。折柄、スチュワートとセルビーが疲れきった兵士の点呼を行っていた。ウェイベルの心中にはパーシバルに対する不信感が芽生えた。
 英軍にとって、土地を奪われることよりも、人員と兵器の損耗が痛かった。パーシバルは中央マレーの放棄を決断した。ヒースもジョホールへの撤退を主張していた。新しい防衛線は、ジョホール州の北部、西はムアール川のインド洋河口、東はセガマットを経て、南シナ海岸のマーシングを結ぶ約100マイルとなる。クアラルンプール、ポートスェッテンハム、マラッカなど、英領マレーの王冠の宝石は放棄されるのである。
 これ以上の日本軍上陸が予期されない東岸を守る豪州兵を統率するベネット将軍は不満だった。西方諸部隊との交代を希望したが、輸送能力の問題、また輸送中の空爆の懸念から、パーシバルは反対だった。ウェイベルは北アフリカ、シリア、レバノンの奮戦で豪州兵を評価しており、とくにベネットの剛勇を気に入っていた。軍隊秩序で上官の意思を無視することはタブーだったが、ウェイベルはパーシバルに相談せず、ベネット指揮下の一旅団をジョホールの西に配置することにした。これは西方軍と呼ばれることになった。
 撤退部隊の後衛は焦土戦術を取りはじめた。いたるところに爆発物の罠がしかけられた。現地人は昨日までの温情的な統治者のわがまま息子のような振舞いに困惑した。ウェイベルの、クアラルンプールは1月11日までしかもたない、という予言はそのとおりになった。ヒースの部隊は、日の出までに完全撤退した。日本軍の入城は午前8時半だった。その48時間ほど前から無秩序状態が現出し、殺人、レイプ、略奪もいささか起こっていた。
 ウェイベルはバタビアに向かった。お供は参謀長のヘンリー・ポーノル中将である。かれは、ウェイベルがパーシバルに不満を持っていることに気づいていたが、その後任に自分が指名されなかったことを喜んでいた。ダフ・クーパーもシンガポールを離れようとしていた。ウェイベルはとどまって欲しいと懇願したが、クーパーは、もはや自分の仕事と権威がここにはない、と言った。クーパーが良ければ、チャーチルに電報を打って、シェントン・トマスを帰し、クーパーを総督にすることは容易だったが、クーパーは「包囲」を目前にして逃げ出したかったのだ。逃げ出し病は蔓延していた。ゴードン・ベネットも例外ではなかったようだ。長年その副官を務めた、ジェームズ・タイヤー大佐は、「両大戦間、将軍は民間人で、勲章によりかかり、戦術の勉強は何もしていない、直観、運、空想にたよっている」人物と評している。
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