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2009/11/24

Singapore Burning 第五部 包 囲

26 (包囲前夜のシンガポール)
  記者会見で、軍のスポークスマンは、軍民の士気に影響する、という理由で、「包囲(siege)」という言葉を使うことを避けた。ザ・タイムズのイアン・モリソン記者ほか報道関係者の抗議により、妥協的に「封鎖(investment)」という言葉が使われることになった。しかし、所詮事実を誤魔化すわけには行かず、検閲官は「シンガポールは包囲された(besieged)」という記事を通した。
  チャーチルはウェイベルに「1インチたりとも領土を譲るな」と督励したが、ウェイベルは、「手中のあらゆる資源を使って防衛準備中であるが、成否は増援に依存する」と返事をした。パーシバルは、焦土作戦を取るか、最後まで戦い抜くかの二つに一つだが、この両方の作戦を一度に取ることはできない、という意見だった。チャーチルはパーシバルに一理あり、と認め、海軍基地の完全破壊を命じた。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの悲劇以来、はっきりしてきたことは、今やチャーチルも、参謀総長のブルック元帥も、ウェイベルも、奇跡が起こらぬかぎりシンガポールの陥落は不可避である、と考えているらしいことである。為すべきことをできるだけ為した上で、オランダ軍ないし米軍の支援を期待するほかなかった。パーシバルは、ジョホール海峡に向かうシンガポール島北岸の防御陣地強化作業に取りかかったが、半島放棄の姿勢が一般に動揺を与えないよう、密かに、慎重に行う必要があった。難民の流入で労働力は豊富にあったものの、協力的なものは限られており、質量ともに問題があった。
  日本軍の迫撃砲弾によって、沿岸の20基の石油タンクのうち、4基は燃えていた。修理ドックで軍艦の砲塔をまるごと吊り上げる巨大なクレーンの桁も傷を負っていた。海軍基地破壊にともなって、物資が先着順で兵員に配られた。規律はかなり緩んでいた。海軍の基地要員、300名ばかりはケッペル港に移動し、基地は陸軍に委ねられた。鳴り物入りで作ったアジアの要塞をロイヤル・ネイビーが立ち去ることは、フィリップスの敗北以上に士気を阻喪する、ベネットはそのことを認識していた。
  チャーチルはルーズベルトとのサミットから戻った。そしてアメリカ人が中国をいかに重要視しているかを再確認した。中国は日本の軍事エネルギーの大半を吸収しており、中国の命綱、蒋介石への援助物資はラングーンの港からビルマを350マイルたどって運ばれていた。シンガポールの防衛不可能説にはルーズベルトも同調しており、チャーチルは、シンガポールの帰趨は運命に委ね、増援として航行中の第18師団の残りの部隊は、もっと効率の良いと思われる方面へ振り向けようと示唆しだした。しかし、これにはオーストラリアが猛反発した。もともとチャーチルとあまりうまく行っていない首相のジョン・カーティンは、「それは説明できない裏切りだ」と、強硬に抗議した。今、オーストラリア人を怒らせてはまずい、チャーチルは結論を出した。
  1月末、香港の警察庁に勤めていた、ミス・フィリス・ハロップがポルトガル領マカオを経由して逃げてきて、クリスマスの香港降伏時の日本軍の殺人とレイプの話を齎した。パーシバルはこれまで、民間人の避難についてはそれほど心配していなかった。多くの女性が、看護婦、運転手、民間防衛などで立ち働いており、将校夫人は、司令部の暗号解読などで活躍していた。ペナンからのヨーロッパ人のあわただしい撤退が、人種問題に火をつけたこともあって、総督のシェントン・トマスはそれを二度と繰り返さない信念を持っていた。1月21日、パーシバルは陸軍省に対し、すでに5200のヨーロッパ人婦女子が避難し、残り4200のうち、600を除き同様に出国させたい、と報告した。オーストラリアには、一時「白豪主義」を停止し、中国人主体のアジア人5000名の避難民を受け入れるよう要望したが、最終的には、僅か50の中国人と、同数の混血が引き取られただけだった。伏せられていたミス・ハロップの話が広まると、ヨーロッパ人女性の避難が加速した。看護婦が多数出国するのは問題がある。アレクサンドラ病院の最重傷者用のセイロン向け病院船に一部看護婦を同行させたが、このように少しずつ負傷兵といっしょに送り出す方法がとられた。
  ジョホール・バルの空には日本のツエッペリン型の偵察飛行船が浮かんでいた。アーガイルのアンガス・ローズ中佐は、イアン・スチュアート中佐のDSO(Distiguished Service Order-殊勲章)受賞記念のゴルフに興じていた。日本の爆撃機の砲弾が耳をかすめて、ローズは微妙なパットを外してしまった。生還した英軍将校たちは、灯火管制下のシンガポールでパーティを開き、ラッフルズ・ホテルのバーで飲んだ。ダン・ホプキンスのバンドは相変わらずスイングを演奏していた。
  増援第18師団の最終組はシンガポールに近づきつつあった。ノーザンバーランド・フュージリア第9機関銃大隊、これはマーク・ベックウィズ=スミス少将の堅牢無比な部隊の一つである、ほかに装甲車とブレン軽機関銃牽引車を伴った捜索連隊、2ポンド砲を装備する第125対戦車連隊、輸送部隊数隊と師団付き修復部隊がその構成である。一行は、ボンベイを1月23日出航した船団に分乗していた。船団にはアメリカの定期船や、スエズでフランスから捕獲した、いまは自由フランスに所属しているフェリックス・ルーセル号などが動員されていた。護衛は、1939年、リバー・プレートでドイツのポケット戦艦、グラフ・シュペーを追い詰めた艦隊にいた英巡洋艦、エグゼクターである。海軍は船団が、バンガ海峡を日本軍に発見されずに無事通り抜け、2月5日明け方に到着する、と読んでいた。しかし2月4日水曜日午前、高高度飛行中の日本の爆撃機がバンガ海峡で発見した。爆撃機は空襲の帰路だったようだ。残っていた爆弾をエグゼターに投下したが無駄弾に終わった。
  いずれにせよ船団は発見された、日本の航空隊はただちに襲いかかってくる筈だ。大隊長、レクメア・トマス中佐は将兵を集めて、船団は一旦バタビアに暫時戻り、機をみてシンガポールを目指す、あるいはこのままシンガポールに直行する、という二つの選択肢があることを説明した。かれは後者を選択し、全員これに異議を唱えなかった。早速、日本航空隊の攻撃が始まった。ルーセル号の全長にわたって銃撃を加えてきた。機関銃隊は甲板に軽機の三脚を配置して応戦した。すさまじい爆音、炸裂音、機銃音、三菱エンジン音のコーラスが鼓膜を覆った。ルーセルは外観上の偽煙突に直撃弾を受けた。輸送船、エンプレス・オブ・アジア号は中央部に火災が起こり、乗員は退避した。小艇群と駆逐艦が救出作業を行い、7名を除いて2000名が無事だった。積載していた対空砲と車輌はみな失われた。ヴィッカース機関銃は、多分3機、少なくとも2機の日本機を撃墜した。
  フェリックス・ルーセル号は、ほとんど無傷のノーザンバーランド将兵を乗せて、堂々とシンガポールに向かった。ケッペル港に入る前、従軍牧師の主祭のもと、死者が海葬された。ラッパの吹奏はなかった。大隊のラッパ手、ジョージ・エリントンは、海中へおろされる担架のなかの一人だった。行く手の島は黒煙に覆われていた。太陽はさえぎられていた。シンガポールは燃えていた。(Singapore was burning.) 
  
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2009/11/21

Singapore Burning 第四部 (つづき)

25 (ジョホールへ)
 ジョホールの最終的な防衛ラインは、西岸のバトパハ港と東のマーシングを結ぶ、半島を東西に横断する最南の道路である。山下は、東、西、中央の三方面からここに襲いかかってきた。日本が戦前から錫鉱石を積み出していた、東岸のエンダウの港は放棄された。日本軍は海空の優位を利用してパーシバルの懸念していた新たな上陸作戦を発動した。1月26日、ハドソン偵察機は、2隻の巡洋艦、4隻の駆逐艦、水雷艇群に護衛された2隻の輸送船を発見した。
  ハンディキャップは歴然としていたが、プルフォードは持てる戦力、21機のヴィルデビースト、3機のアルバコア、9機のハドソン、15機のバッファロを出撃させた。新しく到着したハリケーン、8機も加わったが、これは中東用の厚い砂防ガラスと、数の多い機銃の重量で脚が遅く、期待に反してゼロ戦の敵にはならなかった。エンダウ近辺の浅瀬は雷撃に不向きで、RAFは、結局数機の犠牲を出して作戦を終わった。英艦、タネットとオーストラリア艦、ヴァンパイアが夜間奇襲を敢行したが、致命傷は与えられなかった。タネットはエンジンに被弾したが、何とかシンガポールに帰港できた。
  アルバート・バーレイ中佐の第2/18大隊は、ジェマルワン北方の待ち伏せの位置についた。バーレイは、ゲマスでの「ブラックジャック」、ゴルガンの活躍に刺激されていた。日本軍は挟撃され、白兵戦が展開された。しかし戦闘の決着がつく前に、バーレイはジェマルワンへの撤退命令を受けた。
  1月27日までに、パーシバル、ヒース、ベネットは、シンガポール要塞への撤退の詳細な時間表を作っていた。2月1日までに、半島とシンガポールを結ぶコーズウェイは爆破される予定だった。バーレイの直属上司、ハロルド・テイラー准将はコーズウェイ近辺の橋頭堡の監督に当たることとなり、東方軍(テイラーの第22オーストラリア旅団の2大隊が基本となる)は、バーレイの指揮下に入った。
  西方軍はあまりうまく行かなかった。バトパハは、第6/15旅団が防衛していた。指揮官は、バーナード・チャーレン准将である。かれは日本軍に背後を脅かされ、西部海岸から10マイルほど下がった、センガワンへ後退する許可を求めた。パーシバルは最終的にこれを承認したが、例によってその決断は遅すぎた。その間、退路を日本軍は材木と有刺鉄線で閉塞した。チャーレンの兵は約3千、車輌は250ほどあり、道路両側を使っても、その列は1マイルほどにもなる。閉塞部周辺のゴム林には機関銃座が待ち構えており、72時間に及ぶ戦闘では、第6ノーフォーク大隊だけで、6人の少尉と1人の大尉を失った。チャーレンの無線はダウンした。マレー義勇航空隊のハリー・デーン空軍大尉のタイガー・モスが、日本機に掴まらぬよう、木々にすれすれの低空で飛び、手書きのメモを入れた筒を投下して戦況を本部に知らせた。日本軍はすでに複葉機など使っていない、眼下の将兵は、デーン機をすぐに友軍機と認めて手を振ってくれた。
  キー准将は、チャーレン部隊を道路ブロックから救出するため、第11師団、ハートフォード・ヨーマンリーのチャールズ・バナム少佐指揮の救援隊を送ることとした。112名の歩兵のトラック、救急車輌2台、ブレン軽機関銃運搬車4台、25ポンド砲牽引車数台で構成されている。しかし行く手にはあらゆる方角からの砲火、また道路ブロックが待ち構えていた。障害物に次々と車輌は破壊ないし停止させられた。バナムは運搬車のエンジンを猛回転させて最後のバリケードを乗り越え、チャーレンの部隊に飛び込んだ。バナムからその道中での日本軍の配置を聞いたチャーレンは、パリットスロンのアンダーソンと同じ立場にあることを知り、同じ結論に達した。負傷兵を残し、車輌と砲を破壊してジャングルをたどるのである。途中、チャーレンは宿営地で部下のソーン中佐を探しに外に出た。帰り道に迷子になった。かれは近衛兵の斥候に捕らえられた。もっとも高位の、最初の英軍捕虜となった。かれに代わって指揮を執ったのは、モリソン中佐である。かれは、1500の兵を海岸に赴かせ、そこから海軍の力を借りてシンガポールへ脱出しよう、とはかった。二人の士官がサンパンを使って司令部と連絡をつけた。揚子江の砲艦、スコーピオン、ドラゴンフライほか、ヨット、ジャンク、あらゆる船を駆使して第二のダンケルク作戦を成功させた。1月31日午前8時15分、アーガイル部隊がバグパイプを演奏しながら渡ったのち、コーズウェイはインド工兵隊によって爆破された。
  中央部では最悪の事態となった。猛将、アーサー・バーストウの第9インド師団のうち、ジョージ・ペインター准将の第22インド旅団がほとんどまるまる消失してしまった。もともとペインターは前線に突出しすぎており、後部のビリー・レイ准将の第8旅団との連絡が途切れた。日本軍はすかさずこのギャップを埋めてしまった。バーストウは自身で、まずレイを叱責し、ペインターに危険を告げるべく、鉄道レールを走るトロッコに乗車して出発した。鉄橋の破壊されたところでトロッコを捨て、橋げたを上りはじめた。将軍の軍帽がきらめいた、かれは撃たれた。フィリップスに告ぐ将官の戦死だった。
  ペインターの逃避行がはじまった。負傷兵は、タミール人のゴム園労働者がゴム園の大きな施療所へ運んでくれた。疲労、飢餓、日本軍の待ち伏せ攻撃で員数はどんどん減って行った。ペインター自身も捕らわれの身となった。2月3日現在、ジョホール海峡を何らかの手段で渡ってシンガポールに戻ったペインター旅団の将兵は、62名だった。
  コーズウェイ破壊後も、多数の将兵が対岸には残っていた。コタバルのバザールには、キー旅団のドグラ兵が現地人として過ごす訓練をしていた。ペナン島の深い森のなかでは、勇気ある中国人が7人のレスター兵をかくまっていた。中央マレーでは、マラリア、黒水熱、脚気などのアーガイル傷病兵、20人ばかりがうなっていたが、少しずつ命を落としていた。民間人も残っていた。スコットランド人のリリエ医師は、スンゲイ・ブローのらい病施設でジャングルに逃れた同胞の面倒を見ていたが、日本軍はらい病に怖れをなして医師には手をつけなかった。パリット・スロンの周辺に、ロビンソン・クルーソーに出てくるベンガンのような、蓬髪、ひげ面の男が現われた。虐殺から生き残ったベン・ハックニー中尉だった。かれは現地人に食糧を貰って生き延びた。もう二度と捕虜になるものか、と。砲兵曹長のベネディクトは、二人の仲間とボートを探しているところを捕まった。今度は捕虜たちは相応に待遇された。砲兵曹長のルドリングも逃避の過程で幸運、不運さまざまな体験をしたが、海峡を目の前にしてやはり捕らえられた。日本兵からは飲み水、食糧が与えられ、傷にも軟膏を塗ってくれた。かれらの大砲も25ポンド砲に似ている、と思ったが、車輪が木製である点が違っていた。夜中じゅうの砲撃でよく眠れなかった。シンガポールは、今や包囲されようとしていた。
  
  
    
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2009/11/15

Singapore Burning 第四部 (つづき)

24 (パリット・スロンの戦闘)
  アンダーソン部隊はその近辺にはいなかった。かれらは、たった15マイルばかりを2昼夜かけて、戦いながら、コンクリート造りの太鼓橋、パリット・スロン橋をめざしていた。別の道をたどるデュークの第53旅団も、パリット・スロンとヨンペンを結ぶ道沿いの丘、ブキ・ベラの占拠に失敗してフラストレーションに陥っていた。勇士、ムアヘッドは指揮下のパンジャブ兵が早とちりのノーフォーク兵に誤射されている、と思って停めに入ったところ、相手は日本兵で、戦死してしまった。
  南アフリカ生まれのアンダーソンと大隊のオーストラリア将兵は、いまや心を一つにした。行く手の道路は閉塞され、近衛兵が待ち構えており、しばしば乱戦になった。アンダーソンは、パリット・スロンはまだ日本軍の手に落ちてはいない、と思っていた。53旅団の情報将校、ウォルター・グリーンウッド中尉は、1週間ばかりこの地域に潜み、すでに日本軍がパリット・スロン橋を占拠していることを目撃し、ヨンペン近くのデュークの司令部を訪れていたヒースとパーシバルに報告したが、あまり関心を示して貰えなかった。
  1月21日午前2時、アンダーソン部隊はパリット・スロンの街に着いた。東側1マイルの先にある橋の両側を、日本軍はすでに抑えていた。これが激戦の初日だった。両軍一進一退を繰り返した。ここ4日間、帯同していた戦傷者の傷が悪化し、壊疽の悪臭を放ちはじめた。オーストラリア軍の軍医は、敵と交渉し、ヨンペンに戦傷者を送らないとみな死んでしまう、と進言した。白旗を掲げた2台のトラックが橋を渡った。日本側は、了解するが、全軍の降伏を条件とした。交渉は決裂した。アンダーソン部隊は今や橋を頂点とし、底辺を1000ヤードとする三角形に閉じ込められた。
  翌朝払暁、マレー義勇航空隊の2機のタイガー・モス(蛾)が飛来して、モルヒネと食糧を投下した。その出現は日本軍を驚かせた。その後、アルバコア(びんながまぐろ)2機、シャーク1機の複葉雷撃機がやってきた。これはプルフォードが準備できたすべてだったが、バッファロ戦闘機との待ち合わせには失敗していた。これらは薬と食糧のほか、機関銃と250ポンド爆弾を搭載していた。アンダーソンは、橋の爆撃を期待したが、航空隊は南へ向かって、輸送途中の日本軍の隊列を爆撃、掃射した。東の方から砲撃が聞え、アンダーソンは53師団の掩護による戦局の好転を予想したが、砲声は弾着距離測定のもので、空中爆発信管が高湿度によって機能せず、砲撃は見送られた。デューク准将は、砲撃支援なくして攻撃は不可、との考えで当面不作為に徹した。ベネットは憤激したが、豪軍は奇襲のチャンスを逸した。
  この辺の事情は知らず、アンダーソンは、三角地帯はどこも持ちこたえられない、と判断し、パリット・スロン橋の正面突破を決意した。橋のバリケードは土嚢、ドラム缶、木材などで三段構えに築かれていた。車輌を突っ込ませ、手榴弾を手にした命しらずの攻撃隊が二つまでバリケードを破壊したが、南部軽機関銃の待ち伏せは強力だった。攻撃は、勇者中の勇者たちの犠牲で終わってしまった。アンダーソンは、負傷者で歩けないものを日本軍にまかせ、残った野砲を破壊し、ジャングルと沼をたどってヨンペンへ徒歩で赴くことを決意した。ゲマスでの救急車に敬意を表した日本軍の態度を見れば、負傷者を残す判断は妥当なものと思われた。残るものはトラックに載せられたが、人選はデリケートな作業だった。
  残されたものの運命は悲惨だった。ほとんど全員が虐殺された。将校のなかで唯一生き残ったのは、両脚に深傷を負っていたベン・ハックニー中尉である。かれは捕虜収容所となったバラックの前で、近衛師団長、西村琢磨中将が通り過ぎるのを見た。柄から飾り紐で低く吊り下げた軍刀が印象に残った。西村は参謀たちに、「捕虜の将校を、ショブンするように]、と言い置いた。野中正市大尉は、日本語のショブンを、後方へ移送すること、と理解したが、二人の同僚参謀は、これを「処刑する」ことと主張した。それは後日の西村自身の運命だった。捕虜となった将校は6人だけだった。6人が数珠つなぎになって処刑場へ引き立てられるとき、一番端にいたハックニーはつまずくと立てなかったので全員の進行を妨げた。ハックニーはやむなく切り離され放置された。ハックニーは死んだふりをすることにした。傷の状態からそれは簡単なことだった。一度通りかかった日本兵が、かれのオーストラリア製長靴に目を止め、乱暴に引き抜いた。大変な苦痛だったが、かれは必死に息をおしとどめた。日本兵が完全に去ったことを確認し、かれは田んぼに這いより、水をがぶ飲みした。そして、建物の土台の煉瓦で背中の縄をこすり落とした。まもなく友軍のロン・クロフト曹長ともう一人重傷を負ったオーストラリアの一等兵が通りかかった。クロフトはまず一等兵を付近の木陰にかくし、ハックニーよりずっと小柄だったが、かれを背負い同じ木陰に連れ込んだ。
  800名強がヨンペンに戻ってきた。うち499が豪州軍の2大隊、25ポンド砲兵隊だったが、すでに装備はなく再編が必要だった。残りは戦死したダンカン准将の45旅団である。旅団の英人士官は3人しか残っていなかった。歩いてきた戦傷者は100名ほど、さっそく手当所に送られた。右腕を撃たれたコリンズ伍長の壊疽ははげしく、後日シンガポールで肩から切断された。
  ムアール地区に駐屯していた近衛軍は捕虜の扱いに丁重だった。パリット・スロンではオーストラリア兵の活躍で、復讐の念を換びさましたらしい。山下が西村の虐殺を知っていたかどうか不明である。山下の人間性を過大評価するわけではないが、山下は少なくとも、残虐行為が戦争の大義を損なうことを知っていたと思われる。
  アンダーソンはヴィクトリア十字章に輝いた。パーシバルは豪州兵の不屈不撓の戦いをマレー戦史の一つの叙事詩とたたえた。かれらがヨンペンの孤立を防いだことはまちがいがない。しかし、ムアールの戦いはジョホール防衛の最後のものだった。パーシバルは、シンガポールへの撤退決意以外に選択肢がないことを知っていた。  
  
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2009/11/11

Singapore Burning 第四部 (つづき)

23 (バクリ、ムアール周辺の攻防)
 ホレーショ・ダンカン准将の第45インド旅団の車輌は、イラクで訓練したままの砂漠用の黄色いカムフラージュが塗られたままだった。訓練は中途半端で、まだ10代の兵士が多かった。対峙しなければならないのは、西村中将の近衛師団である。日露戦争以降実戦の経験はなかったが、兵士は身長を以て全国から選抜され、眼鏡をかけたものはほとんどおらず、また最良の装備の優先配分を受けた日本のエリート軍団である。両軍の質的相異は明らかだった。ダンカン旅団は、普通の歩兵3個大隊で構成されている。第7/6ラージプート大隊は、ムアール河口と南方のムアールの街から上流へ9マイルほど、第4/9ジャート大隊は、東の丘陵地帯へ向かって15マイルの川沿いに、それぞれ川を挟んで展開することになった。そして第5/18ガルワール大隊は予備として、旅団司令部と一緒にバクリの街に陣取った。
  西村が展開中のインド部隊を蹴散らすのには24時間もかからなかった。ムアールに対する陽動作戦でまず川の北側のラージプート中隊が孤立した。近衛兵は現地調達のサンパン、そのほかありとあらゆるボート、船舶で川を渡った。残りのラージプート部隊は四散、ジャート大隊長のジョン・ウィリアムズ中佐は、自身で偵察中に日本軍将校に軍刀で首を斬られた。インド旅団の3人の大隊長、ほか英人将校多数が戦死して、インド兵の秩序は乱れた。
  ベネットは、ムアールの日本軍は精々200程度の戦力と踏んでいたが、実際はその10倍以上だった。かれは、ジェームズ・ロバートソン中佐指揮のオーストラリア第2/29大隊を派遣してダンカンの補強とした。マレー情報省の写真家、ヘドレー・メトカーフ、豪陸軍写真班のニュースカメラマン、フランク・バグノルが同行した。1月17日午後、大隊はバクリに到着した。
  夜明け直後、午前6時45分、ゴタンダ・シゲオ大尉指揮下のT95戦車9台がバクリに突入をはかった。スリム川でのシマダ戦車隊の成功に刺激されて志願したのである。ワタナベと同じように歩兵の掩護なしだった。戦車隊は、両側が厚い樹木に覆われた切通しを通る必要があった。待ち構えていたのは、クラリー・ソントン砲兵曹長だった。ソントンは高性能爆弾を戦車群にぶつけ、6台を擱座させた。かれは尻を撃たれたが、脅威が去るまで救急手当所に赴くことを拒否した。かれは即時、DCM(殊勲章)を授与された。メトカーフとバグノルは、日本軍戦車の断末魔の写真をやっとモノにすることができた。そこにはすべてがあった。燃える戦車、脇に横たわっている日本兵の遺骸、数ヤード先に小さな高性能砲のうしろに佇むオーストラリア兵士がいる。
  ロバートソンは、伝令のオートバイの後部にまたがって、ダンカンの招集した会議に向かった。チャールズ・アンダーソン指揮のオーストラリア増援部隊、第2/19大隊が到着したのである。アンダーソンは、1917年、東アフリカで戦った、パーシバルの部下で唯一のジャングル戦経験者だった。また兵士はよく訓練されており、パーシバルは奇跡を期待した。パーシバルのいう「ヒースの退却コンプレックス」はどこかで押し止める必要がある。通信傍受による諜報によれば、ムアールに進撃中の日本軍は、近衛師団の一部少数ではなく、その全軍であるようであった。また新たな上陸作戦によって、ムアール=バクリのラインが切断される危険もあった。北のゲマス、セガマット地区のオーストラリア2個大隊、そして損傷激しいインド6個大隊を南に迎えることは至上命令だった。東部防衛の一部だったアンダーソン大隊の起用はそのための増援だった。
  シンガポールに到着して1週間も経たないデューク准将の第53旅団は主要な手駒だった。将兵の期待していた訓練とか休養の時間は全く与えられなかった。また旅団として一単位として投入されることもなく、大隊ごとにそれぞれ別の持ち場が与えられた。それに、ただちに戦力投入される予定ではなかったため、重火器は携行されず、砲兵たちは手持ち無沙汰の状態におかれた。
  バクリでは、低空飛行の直撃弾が幕僚会議中の司令部に命中し、ほとんど全員が殺傷された。ダンカンと1少佐が無傷に逃げ出したが、ダンカンのショックはおさまらなかった。近衛師団は主要道路を閉鎖し、バクリを南と東から攻めてきた。オートバイで会議にかけつけたロバートソンは爆撃を受け、銃弾よりも転倒したことで致命傷を負い、のち死亡した。
  日本兵が勇敢である、という噂は嘘ではなかった。捕虜になるより死を選ぶ兵は、ときどき死んだ振りをしていた。デズモンド・マルコイ曹長は、ある近衛下士官の死体から、情報将校の欲しがる手紙や身分証を求めてその懐(ふところ)を探ったところ、突然死人が立ち上がって、右手に手榴弾を握り締めた。マルコイは左手を押さえてピンを抜くのをとどめた。手榴弾で殴りかかるのを、左のジャブで応酬した。マルコイの叫び声を聞き、下士官は射殺されたが、その態度は威風堂々たるものだった。
  アンダーソン大隊が戦闘後に敵の遺体を数えたら140だった。味方は戦死10、戦傷15だった。ゲマスに続く大勝だったが、これはピークだった。1月20日の夜明け、アンダーソンは、バクリを引き揚げヨンペンに向かって第45旅団の救援に赴くよう命令を受けた。近衛師団は道路閉鎖により、英軍をサラミソーセージをスライスするように、ずたずたに切っていた。故ロバートソン大佐の第2/29大隊の被害は深刻だった。残ったのは兵200、士官7名だった。将兵はアンダーソンに合流すべく、戦いながら道を拓いて行った。
 
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2009/11/08

Singapore Burning 第四部 (つづき)

22 (ゲメンチェン川の戦闘)
 ベネットがいささか空想的であったとしても、豪州兵が良いスタートを切ったことは否定できない。
 1月14日、午後4時20分頃、ジャック・ダフィー大尉は野戦電話で通報していた。いま、自分の声の聞えそうな数フィート先を、日本の銀輪部隊が通り過ぎ、橋の上を通っている、と。次の瞬間に起こった出来事は、ダフィー自身をも十分に驚かせるものだった。巨大な真っ赤な火柱に、日本兵の身体、自転車、材木、石ころ、土くれが巻き上げられていた。ここは鉄道交差路、ゲマスの街の北西7マイルほどのゲメンチェン川にかかる橋である。この爆破はマレー戦線での第8豪州師団の参戦開始の合図となった。ダフィーの中隊は、くじに当たって号砲を放つ栄誉を担った。
 この待ち伏せ攻撃を担当したのは、「ブラック・ジャック」こと、フレデリック・ゴルガン中佐指揮の第2/30大隊である。中佐は、攻撃前夜、「AIF(オーストラリア帝国陸軍)のみならず、オーストラリアそのものの名声が部隊の双肩にかかっている」、と中隊長を集めて訓示した。
 橋の爆破で混乱した日本軍は、切通しに潜む豪州兵の掃射を受けた。橋を通り過ぎていた日本兵は引き返し、乱戦に参加した。日本軍の回復力は常の如く敏速で、6時間ほどで橋は修復された。翌朝、日本軍はゴルガンの持ち場に、歩兵の掩護のもとに戦車を仕向けてきた。ゴルガン側は、25ポンド砲、迫撃砲のほか2基の対戦車2ポンド砲を装備していた。戦車は撃退されつつあった。しかし、日本側は、燃える戦車の車体にオイルをかけて煙幕を張った。日本兵はその脇から飛び出してきた。その勇気には感心せざるを得なかった。砲火がおさまり、聴力がよみがえると別の音が聞えてきた。右方に友軍の歩兵が空に向かってライフルを振り上げ、歓声を上げていた。こちらもお返しした。それは誇りの瞬間だった。1台の戦車には、開いたハッチの穴のなかに、まるでビリヤードのポケットのように榴散弾が飛びこんでいた。それがなかの弾薬に当たると、打ち上げ花火になった。故郷のエンパイヤ・デイの花火をみな思い出した。
 昼下がり、ダフィーが橋を爆破してからおよそ24時間後、やるべきことはすべてやった、と、ゴルガンは撤退することにした。それは簡単な仕事ではなかった。日本兵は果敢に向かってくる。中隊はこれに取り合わざるを得ず、潰走に陥らぬよう、全員でつねに連絡を取り合わねばならなかった。25ポンド砲4基は、雨に濡れるゴム園の泥沼にはまって歩兵部隊に追い越されてしまった。1基は何とか引き上げて牽引されて行ったが、残りは救う時間がなかった。砲座と照準を外されて棄てられた。「パニックで逃げ出した、と日本人に嘲笑されるのは嫌だなー」、ケネス・ハリソン砲兵曹長は懸念した。
 しかし豪州兵はよくやった。まる二日間の戦闘で、日本軍の打撃の方が大きかった。その勇敢さは辻大佐も評価している。ゴルガンの被害は、戦死17(うち将校1)、戦傷55(4)、行方不明9だった。負傷者は、前線の応急所から救急車でセガマットの野戦病院に送られた。日本軍は、砲火のなかにあっても赤十字の車輌は尊重した、豪州兵の印象に残るところであった。
 1月13日、かれらの戦いの間に、増援軍がシンガポールの埠頭に到着した。幸い雲が低く垂れ込んでいたので空襲には遇わなかった。セシル・デューク准将の第53旅団である。ノーフォークの2大隊、ケンブリッジシャーの1大隊で構成されていた。梱包された51機のハリケーン戦闘機も積まれていた。英軍の崩壊が止った、という噂が突然流れはじめた。ラジオのアナウンサーは、オーストラリア人を「大洪水の護岸壁」と形容した。ムードは伝染し、RAFは、占拠された飛行場の夜間攻撃をはじめて日本軍を驚かせた。そして日中も、ゲマス北方の幹線道路を通行する日本の輸送隊と戦車を襲った。シンガポールに基地をおくオランダの6機のグレン・マーチン爆撃機が作戦に加わった。グレン・マーチンが高度爆撃を行う一方、6機のブレンハイムと18機のバッファロが低空爆撃を行った。爆音が聞えれば自分たちのものと思いこんでいた日本兵は慌てた。モウブレイ・ガーデン大尉のバッファロが追い込んだ日本機は、不時着を余儀なくされたが、パイロットはマレー人群集に取り巻かれ、ピストルで応戦しようとしたが、結局自らの頭を撃ちぬいた。
 記者会見で、ベネットは、山下を押し止めるのみならず、日本軍を防禦姿勢に追いやる、と約束した。しかし厄介なニュースが飛び込みつつあった。南西方向のムアール河口に日本軍が上陸し、第45インド旅団を押し戻し、豪州陣の左翼を脅かす存在になってきたのである。
 
  
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2009/11/05

Singapore Burning 第四部 (つづき)

21 (クアラルンプールの明け渡し)
 スリム川の激戦の頃、連合軍南西太平洋最高司令官、ウェイベル大将が、ジャワで行われる、英米蘭軍事会議出席の途次、シンガポールを初めて訪れた。かれは、前泊のラングーンで空襲に遇い、危うく命を落とすところだった。翌日、大将は、オーストラリアのハドソン機に搭乗し、クアラルンプールの北にある、ヒースの第3軍団司令部を視察した。折柄、スチュワートとセルビーが疲れきった兵士の点呼を行っていた。ウェイベルの心中にはパーシバルに対する不信感が芽生えた。
 英軍にとって、土地を奪われることよりも、人員と兵器の損耗が痛かった。パーシバルは中央マレーの放棄を決断した。ヒースもジョホールへの撤退を主張していた。新しい防衛線は、ジョホール州の北部、西はムアール川のインド洋河口、東はセガマットを経て、南シナ海岸のマーシングを結ぶ約100マイルとなる。クアラルンプール、ポートスェッテンハム、マラッカなど、英領マレーの王冠の宝石は放棄されるのである。
 これ以上の日本軍上陸が予期されない東岸を守る豪州兵を統率するベネット将軍は不満だった。西方諸部隊との交代を希望したが、輸送能力の問題、また輸送中の空爆の懸念から、パーシバルは反対だった。ウェイベルは北アフリカ、シリア、レバノンの奮戦で豪州兵を評価しており、とくにベネットの剛勇を気に入っていた。軍隊秩序で上官の意思を無視することはタブーだったが、ウェイベルはパーシバルに相談せず、ベネット指揮下の一旅団をジョホールの西に配置することにした。これは西方軍と呼ばれることになった。
 撤退部隊の後衛は焦土戦術を取りはじめた。いたるところに爆発物の罠がしかけられた。現地人は昨日までの温情的な統治者のわがまま息子のような振舞いに困惑した。ウェイベルの、クアラルンプールは1月11日までしかもたない、という予言はそのとおりになった。ヒースの部隊は、日の出までに完全撤退した。日本軍の入城は午前8時半だった。その48時間ほど前から無秩序状態が現出し、殺人、レイプ、略奪もいささか起こっていた。
 ウェイベルはバタビアに向かった。お供は参謀長のヘンリー・ポーノル中将である。かれは、ウェイベルがパーシバルに不満を持っていることに気づいていたが、その後任に自分が指名されなかったことを喜んでいた。ダフ・クーパーもシンガポールを離れようとしていた。ウェイベルはとどまって欲しいと懇願したが、クーパーは、もはや自分の仕事と権威がここにはない、と言った。クーパーが良ければ、チャーチルに電報を打って、シェントン・トマスを帰し、クーパーを総督にすることは容易だったが、クーパーは「包囲」を目前にして逃げ出したかったのだ。逃げ出し病は蔓延していた。ゴードン・ベネットも例外ではなかったようだ。長年その副官を務めた、ジェームズ・タイヤー大佐は、「両大戦間、将軍は民間人で、勲章によりかかり、戦術の勉強は何もしていない、直観、運、空想にたよっている」人物と評している。
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