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2009/10/30

Singapore Burning 第四部 (つづき)

20 (スリム川の攻防)
 カンパールでは戦車の出番はなかったが、日本軍のスリム川の勝利は、戦車による電撃戦の勝利といえる。この戦いはジャングル戦ではなく、山下は、戦車のほか、工兵、歩兵、砲兵、航空機など持てるもののすべてを駆使した。
 スリム川は、クアラルンプール北方50マイル、山岳地帯に発し、西方へ蛇行し、西岸メリンタンの港に至る。川幅は200ヤード、戦車を防ぐには最適である。英軍は流域のすべてを監視することはできなかったが、時間稼ぎのための次の戦闘は、川の北側、9マイルばかりのボトルネック地帯におくことにした。パリスは翼下の3個旅団すべてを投入したかったが、ヒースは、カンパールの勇者、ムアヘッド大隊をクアラルンプールの守りに引き抜いてしまった。残ったのはスチュアートの第12、セルビーのグルカ第28旅団である。
 スチュアートは「縦深」陣を作り、前衛にハイデラバード、第二陣にパンジャブ、そのうしろにアーガイル(それぞれ大隊)が後衛として控えていた。前衛の役割は「トリップ・ワイヤ」(足をワイヤに引っ掛けさせて倒す、と比喩的にいう)作戦で、空を切らせたところで、セシル・ディーキン中佐のパンジャブが出る。リンゼイ・ロバートソン中佐のアーガイルの持ち場には切通しが沢山ある。ここを鉄条網で塞ぎ、旅団が三つ持つ対戦車砲のうち二つを構えた。川の後方のセルビー旅団にも対戦車砲は二基あった。また師団全体で対戦車戦で一般に用いた武器は、スペイン市民戦争で始めて使われた、モロトフ・カクテル(火焔びん)である。
 タミール人のゴム園労働者から日本の大戦車群をみかけた、という情報がもたらされた。兵士たちは連日の塹壕堀り、戦闘、意味不明の撤退命令、沼地の行軍、蚊の襲来、睡眠不足、食糧不足で疲労しきっていた。師団の予備、第14連隊第5パンジャブ大隊が増援されることになった。
  第二次大戦では、戦車戦が夜間に行われることはなかった。最大の戦車戦のあったロシアでもしかり、ロンメルも夜、戦車を出動させてしくじったことがある。日本のシマダ・ハジメ少佐は、安藤大佐を説得して、95型戦車30台ばかり、それに10台ほどの二人乗り軽戦車、「チャーチルの支給品」に分乗した歩兵トラック部隊とともに進発した。
  1月7日水曜日午前3時半、前衛のハイデラバードと交戦がはじまった。戦車の発する黄色の曳光弾の効果などもあってハイデラバードはパニックに陥った。パンジャブ大隊は絶好の位置におり、その投じる火焔びんは有効だった。日本戦車群は切通しで苦境に直面し、地雷、対戦車放火で数台が破壊された。アーガイルは橋の端にランチェスター装甲車を横倒しにするなどの障碍を作ったが、T95の進撃をを数分とどめただけだった。アーガイルはせまってくる歩兵にも押され、ジャングルの迂回路をたどってスリム川南のセルビー旅団に戻ることとした。ここは地球上に残った未踏地域の一つである。密林を伐り倒しながら、1日に1マイルも歩ければ上出来だった。
  ドナルド・ナピア中尉の、アーガイル大隊のもう半分、A中隊は、敵に奇襲攻撃をかけながら、ほぼ無傷でスリムの南岸に到着できた。デヴィッド・ダイルのD中隊は知らぬうちに孤立させられていた。イアン・プリムローズ少尉が、敵味方不明の一団に遭遇し、偵察に出ると、それは日本兵で、肉弾戦が始まった。プリムローズは気を失って捕虜になった。意識を回復すると、日本軍は、捕虜のうち歩けないものは射殺、歩けるものは使役に使った。プリムローズは無理をしながらも歩ける、と申告し、接近戦で自らが重傷を負わせた日本の将校をかついだ。将校はもう死んでいた。
  シリル・ストークス中佐は、増援パンジャブ大隊の指揮官として、弾薬、重火器などを積載したトラック、徒歩の将兵を引き連れ、持ち場のトロラク村の南に向かう先頭の車輌に乗っていた。かれらに近づいていたのは、シマダ戦車隊の一番手の3台の戦車だった。統率していたのは、22歳、東京陸軍士官学校卒ワタナベ・サダノブ少尉である。ワタナベは軍刀を持って戦車に乗込み、途中いくつか小さな橋の爆破用導火線を軍刀で切断した。4度目に戦車を降りるとき、手榴弾の破片で手首に傷を負った。
  ストークス隊とワタナベ戦車隊の遭遇はまさに虐殺だった。ストークス中佐は、ワタナベの放った37ミリ砲弾で致命傷を負った。午前8時半ころ、ワタナベは後衛のグルカ旅団の司令部の地域に襲いかかった。トム・ムーニー大尉のレボルバーによる勇敢な抵抗をものともせず、ワタナベは川の蛇行にしたがってさらに東へ向かった。セルビー旅団守備陣の最東端には、ジャック・フルトン中佐指揮の第1グルカ連隊第2大隊がいた。500名ほどの大隊は敵機に発見されぬよう、道路の路肩を一列縦隊で行軍しているところを背後から襲われた。何人が死亡したのか、何人がゴム園に逃げ込んだのか不明だったが、のちの点呼に応じたのは27名で、部隊は壊滅した。フルトンも捕らわれ、2ヶ月後、抑留中に死んだ。
  タンジョン・マリムの司令部にいたアーチー・パリス准将も孤立していた。自らの2旅団の壊滅の程度はわからなかった。アーサー・ハリス中佐に調査を命じた。ハリスは、従兵を連れ、だれもが羨む新型のフォードV8を駆って北へ向かった。英軍装甲車と思えるものが向うからやってきた。しかしそれは無限軌道で動いていた。突然撃たれてV8は溝にはまった。ハリスと従兵は茂みに逃げ込んだ。
  ワタナベは、最も大きく最も重要な橋に出た。橋の守備には、シンガポール/香港砲兵隊のボフォール砲兵だった。かれらの砲撃した砲弾は空中炸裂用の対空砲弾で、T95には無効だった。軍刀での切断に手間取り、ワタナベは機関銃弾で導火線を切った。手首の傷の故か、ワタナベは戦車隊の指揮を部下のサトー・トーイチロウ少尉にまかせた。サトーはワタナベの命を受け、パリスの司令部の偵察に向かった。オートバイに騎乗した、ランカシャー・ヨーマンリーのオーガスタス・マードック大佐が折悪しく戦車に遭遇した。引き返すマードックの背中に、ヒガシツツミ・マツタロウ曹長が一発見舞った。マードックの死は、砲兵隊の先陣に警戒信号を与えたが、第一陣は直撃を受け消滅した。サトーは第二陣、キーン曹長の分隊に30ヤードまで近づいた。ネルソンの海戦と同じくらいの接近戦で、勝利を目前にしてキーンは殺された。キーンの2発の30ポンド砲弾はサトーの戦車を沈黙させていた。「サトーは士官らしく、軍刀の柄に手をかけて死んだ」、と日本の記録は残している。辻も同じように賛美しているが、もう少し現実的な記述も加えた。サトーの傍らに、乗組員の身体が「Ame(粘着性のゼリー=飴)のように」斃れていた、と。最終的なヒーローはこれら砲手たちであった。ハリスも、自分と従兵をあわや殺しそうになったものたちへのオマージュを、出版されなかった第11師団の記録に残している。「危険と孤立化を顧みず、かれらは1師団を壊滅し、スリム川橋を占拠した」。

 
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