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2009/10/08

Singapore Burning - 第四部 (つづき)

15 (ジャングルの戦い) 
 マレー沖海戦1週間後の12月17日、サー・アラン・ブルック元帥は、「個人的には、シンガポールをうまく防衛し得るか疑問であるが、ビルマ防衛のために何かやらなければならない」、と日記に書いた。かれはイギリスの制服組のトップで、最近、帝国参謀総長に昇進していた。パーシバルにとって情況はきわめて深刻だったが、何とか援軍がくるまで自分の力でしのぐ必要があった。
 シンガポールへの援軍、ケンブリッジシャー、ノーフォーク、サフォーク連隊の7大隊からなる、英第18師団(約1万5千)は、10月29日、リバプールを出航していた。マーク・ベックウィズ=スミス少将、通称ベッキーが師団長である。アメリカはまだ中立国だったが、大西洋憲章で、チャーチルに援助を約束した。援軍の船団は大西洋を渡り米国ノバスコシア州ハリファックスで、米国籍客船を改造した4隻の輸送船に乗り換えた。優雅な航海で兵士は、船内でのさまざまな娯楽に興じた。ドイツ潜水艦を避けるため、船団はアメリカ沿岸からカリブ海を通過、再度大西洋を横断、ケープタウンに到着したとき、真珠湾、マレー半島攻撃のニュースが入った。兵士らは、アフリカでロンメルと戦うものと予想していた。敵が日本軍であることを知り落胆した。日本人とはかれらにとってはいまだにギルバートとサリバンのオペレッタの世界の人種であり、対等レベルの人間ではない、できればフン(ドイツ人)と戦いたかったのである。
 12月終わりにかけ、山下の軍団は決して不敗ではない、ということを、タイ国境から南へかけての狭隘地帯での後衛戦で証明したのは、イアン・マカリスター・スチュワート中佐とその指揮下にあるアーガイル大隊だった。スチュアートは先祖に、歴史的に数々の対英戦争で活躍した勇者を持つ、スコットランドの上級貴族の家系の出身で、日本軍が欧州大戦を利用してマレーに攻め込んでくることを見越して、過去2年、兵士にジャングル戦の特訓を施していた。ほかの大隊長は暑熱のなか、訓練は涼しい時間を選んで行っていた。その意味でスチュワートは、エキセントリックと見られていた。
 アーガイルの訓練は実を結んだ。クローからグリック村にいたる10マイルの泥沼で、ボクシングのコーチ、アーチー・マクダイン先任曹長と35名は、10倍ほどの安藤忠雄支隊をよく押し止めた。エディンバラのラグビー界きってのフォワード、バル・ヘンドリーは、A中隊を指揮する大尉である。かれはランチェスター装甲車で7名の部下と巡回中、5倍の数の日本軍と、とある田舎の駅で遭遇した。肉弾戦は取っ組み合いとなり、最後に鉄かぶとを振り回してなぎ仆すような乱戦となった。イギリス側に軍配が上がったが、ヘンドリーは、褒賞としては最下位の感状を貰うにとどまった。ザ・タイムズの従軍記者、イアン・モリソンはこの武勇伝を記事にした。 第12旅団長、アーチー・パリス准将は、指揮下の第2パンジャブ連隊第5大隊、第19ハイデラバード連隊第4大隊の二つの部隊も同じような待ち伏せ攻撃を行っているにもかかわらず、新聞がインド部隊よりも、英国部隊のアーガイルを持ち上げていることにお冠だった。パンジャブ部隊のセシル・ディーキン中佐の、奮戦を通じてのメルボー・プラス橋の爆破成功に対して、准将は中佐に殊勲甲を授けた。
 パリスは少将心得となってマレー=ライオンの地位についた。マレー=ライオンはカンバリー士官学校の卒業生ではなく昇進も遅れたいた。マタドール作戦中止の被害者となり、それが、ジットラ、グルンの防衛線に振りかわってしまった。かれはインドに戻ったが、デリーの総司令官、アラン・ハートリー大将によって退役させられた。55歳、数々の武勲に輝いた経験豊かな兵士は、祖国が絶望的な戦いをしているとき民間人となったのだ。パーシバルもかれの引退を聞いて驚いたことだろう。
 スチュアートはパリスの後任として第12旅団の指揮官となった。戦域はかわってきた。スチュアートは、錫鉱山地帯のカンパール周辺に、ジットラ、グルンの生き残り、レスター、イースト・サレー、パンジャブ、ジャートの混成部隊を組成し、塹壕を掘り、有刺鉄線をめぐらせて防衛線を築いた。日本軍戦車隊が突入してきたが、速度の違いで、歩兵が追いついていなかった。「戦艦に対する駆逐艦」のように、ランチェスターのブレン軽機関銃、対戦車ライフルで果敢に抵抗した。戦車は、歩兵の不足と、燃料切れで慎重に行動した。英軍は整然と撤退することができた。
 傷病兵は仕立てられた救急列車でシンガポールに送られた。車内は装甲車のなかと同じくらい暑かったが、ヨーロッパ人の看護婦が立ち働いており、兵隊は驚いた。列車は翌日には半島とシンガポール島を結ぶコーズウェイを走っていた。カンパールに築かれた防衛線の内側で、アーガイルの兵士は、ここ2、3週間のうちではじめてゆっくりと眠った。伝統ある、「シン(thin)・レッド(red)・ライン(生と死の境界線)」をモットーとする、かつての第93歩兵連隊、アーガイルはよくやった。無礼講がはじまった。ウィスキーは仲間意識をかき立てた。階級、兵科、ホームシック、明日の恐怖をみな忘れた。それは大晦日、満月の夜だった。
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