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2009/10/30

Singapore Burning 第四部 (つづき)

20 (スリム川の攻防)
 カンパールでは戦車の出番はなかったが、日本軍のスリム川の勝利は、戦車による電撃戦の勝利といえる。この戦いはジャングル戦ではなく、山下は、戦車のほか、工兵、歩兵、砲兵、航空機など持てるもののすべてを駆使した。
 スリム川は、クアラルンプール北方50マイル、山岳地帯に発し、西方へ蛇行し、西岸メリンタンの港に至る。川幅は200ヤード、戦車を防ぐには最適である。英軍は流域のすべてを監視することはできなかったが、時間稼ぎのための次の戦闘は、川の北側、9マイルばかりのボトルネック地帯におくことにした。パリスは翼下の3個旅団すべてを投入したかったが、ヒースは、カンパールの勇者、ムアヘッド大隊をクアラルンプールの守りに引き抜いてしまった。残ったのはスチュアートの第12、セルビーのグルカ第28旅団である。
 スチュアートは「縦深」陣を作り、前衛にハイデラバード、第二陣にパンジャブ、そのうしろにアーガイル(それぞれ大隊)が後衛として控えていた。前衛の役割は「トリップ・ワイヤ」(足をワイヤに引っ掛けさせて倒す、と比喩的にいう)作戦で、空を切らせたところで、セシル・ディーキン中佐のパンジャブが出る。リンゼイ・ロバートソン中佐のアーガイルの持ち場には切通しが沢山ある。ここを鉄条網で塞ぎ、旅団が三つ持つ対戦車砲のうち二つを構えた。川の後方のセルビー旅団にも対戦車砲は二基あった。また師団全体で対戦車戦で一般に用いた武器は、スペイン市民戦争で始めて使われた、モロトフ・カクテル(火焔びん)である。
 タミール人のゴム園労働者から日本の大戦車群をみかけた、という情報がもたらされた。兵士たちは連日の塹壕堀り、戦闘、意味不明の撤退命令、沼地の行軍、蚊の襲来、睡眠不足、食糧不足で疲労しきっていた。師団の予備、第14連隊第5パンジャブ大隊が増援されることになった。
  第二次大戦では、戦車戦が夜間に行われることはなかった。最大の戦車戦のあったロシアでもしかり、ロンメルも夜、戦車を出動させてしくじったことがある。日本のシマダ・ハジメ少佐は、安藤大佐を説得して、95型戦車30台ばかり、それに10台ほどの二人乗り軽戦車、「チャーチルの支給品」に分乗した歩兵トラック部隊とともに進発した。
  1月7日水曜日午前3時半、前衛のハイデラバードと交戦がはじまった。戦車の発する黄色の曳光弾の効果などもあってハイデラバードはパニックに陥った。パンジャブ大隊は絶好の位置におり、その投じる火焔びんは有効だった。日本戦車群は切通しで苦境に直面し、地雷、対戦車放火で数台が破壊された。アーガイルは橋の端にランチェスター装甲車を横倒しにするなどの障碍を作ったが、T95の進撃をを数分とどめただけだった。アーガイルはせまってくる歩兵にも押され、ジャングルの迂回路をたどってスリム川南のセルビー旅団に戻ることとした。ここは地球上に残った未踏地域の一つである。密林を伐り倒しながら、1日に1マイルも歩ければ上出来だった。
  ドナルド・ナピア中尉の、アーガイル大隊のもう半分、A中隊は、敵に奇襲攻撃をかけながら、ほぼ無傷でスリムの南岸に到着できた。デヴィッド・ダイルのD中隊は知らぬうちに孤立させられていた。イアン・プリムローズ少尉が、敵味方不明の一団に遭遇し、偵察に出ると、それは日本兵で、肉弾戦が始まった。プリムローズは気を失って捕虜になった。意識を回復すると、日本軍は、捕虜のうち歩けないものは射殺、歩けるものは使役に使った。プリムローズは無理をしながらも歩ける、と申告し、接近戦で自らが重傷を負わせた日本の将校をかついだ。将校はもう死んでいた。
  シリル・ストークス中佐は、増援パンジャブ大隊の指揮官として、弾薬、重火器などを積載したトラック、徒歩の将兵を引き連れ、持ち場のトロラク村の南に向かう先頭の車輌に乗っていた。かれらに近づいていたのは、シマダ戦車隊の一番手の3台の戦車だった。統率していたのは、22歳、東京陸軍士官学校卒ワタナベ・サダノブ少尉である。ワタナベは軍刀を持って戦車に乗込み、途中いくつか小さな橋の爆破用導火線を軍刀で切断した。4度目に戦車を降りるとき、手榴弾の破片で手首に傷を負った。
  ストークス隊とワタナベ戦車隊の遭遇はまさに虐殺だった。ストークス中佐は、ワタナベの放った37ミリ砲弾で致命傷を負った。午前8時半ころ、ワタナベは後衛のグルカ旅団の司令部の地域に襲いかかった。トム・ムーニー大尉のレボルバーによる勇敢な抵抗をものともせず、ワタナベは川の蛇行にしたがってさらに東へ向かった。セルビー旅団守備陣の最東端には、ジャック・フルトン中佐指揮の第1グルカ連隊第2大隊がいた。500名ほどの大隊は敵機に発見されぬよう、道路の路肩を一列縦隊で行軍しているところを背後から襲われた。何人が死亡したのか、何人がゴム園に逃げ込んだのか不明だったが、のちの点呼に応じたのは27名で、部隊は壊滅した。フルトンも捕らわれ、2ヶ月後、抑留中に死んだ。
  タンジョン・マリムの司令部にいたアーチー・パリス准将も孤立していた。自らの2旅団の壊滅の程度はわからなかった。アーサー・ハリス中佐に調査を命じた。ハリスは、従兵を連れ、だれもが羨む新型のフォードV8を駆って北へ向かった。英軍装甲車と思えるものが向うからやってきた。しかしそれは無限軌道で動いていた。突然撃たれてV8は溝にはまった。ハリスと従兵は茂みに逃げ込んだ。
  ワタナベは、最も大きく最も重要な橋に出た。橋の守備には、シンガポール/香港砲兵隊のボフォール砲兵だった。かれらの砲撃した砲弾は空中炸裂用の対空砲弾で、T95には無効だった。軍刀での切断に手間取り、ワタナベは機関銃弾で導火線を切った。手首の傷の故か、ワタナベは戦車隊の指揮を部下のサトー・トーイチロウ少尉にまかせた。サトーはワタナベの命を受け、パリスの司令部の偵察に向かった。オートバイに騎乗した、ランカシャー・ヨーマンリーのオーガスタス・マードック大佐が折悪しく戦車に遭遇した。引き返すマードックの背中に、ヒガシツツミ・マツタロウ曹長が一発見舞った。マードックの死は、砲兵隊の先陣に警戒信号を与えたが、第一陣は直撃を受け消滅した。サトーは第二陣、キーン曹長の分隊に30ヤードまで近づいた。ネルソンの海戦と同じくらいの接近戦で、勝利を目前にしてキーンは殺された。キーンの2発の30ポンド砲弾はサトーの戦車を沈黙させていた。「サトーは士官らしく、軍刀の柄に手をかけて死んだ」、と日本の記録は残している。辻も同じように賛美しているが、もう少し現実的な記述も加えた。サトーの傍らに、乗組員の身体が「Ame(粘着性のゼリー=飴)のように」斃れていた、と。最終的なヒーローはこれら砲手たちであった。ハリスも、自分と従兵をあわや殺しそうになったものたちへのオマージュを、出版されなかった第11師団の記録に残している。「危険と孤立化を顧みず、かれらは1師団を壊滅し、スリム川橋を占拠した」。

 
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2009/10/20

Singapore Burning -第四部 (つづき)

19 (東海岸の防禦)
 東海岸からの撤退は簡単なものではなかった。オーストラリア地上要員が放棄した東岸のクワンタン飛行場が日本軍の手に渡り、そこを増援軍船団に対する攻撃機の基地にさせるわけには行かなかった。増援のインド旅団は、ボンベイ経由、シンガポールのケッペル港まであと24時間のところまできていた。パーシバルとしては、クワンタン飛行場防衛の必要を認識しながらも、いまクワンタンと飛行場を守っているジョージ・ペインター准将の精鋭ぞろいの第22旅団は、日本軍の新たな上陸が懸念される西海岸に持って行きたかった。これが失われるとすれば、訓練不足の増援部隊ではとても埋め合わせはできない。
 クワンタンは、コタバルとシンガポールとのちょうど中間地点であり、中部マレーの東海岸(南シナ海)と、西岸(インド洋)のクアラルンプール、ポートスェッテンハムを結ぶ、唯一の東西横断道路の基点である。ここからシンガポールから北へ90マイルのエンダウまで、ジャングルばかりで東海岸を南下する道はない。ペインターは旅団司令部をクワンタン飛行場においていたが、撤退するにあたり、コタバルでキー准将に協力した、アーサー・カミング中佐の3個中隊を残した。カミングは、ここで同じ敵、佗美部隊ともう一度まみえることになる。カミングは、2個中隊を飛行場周辺に展開させ、アメリカ人「ポム」・ポメロイ大尉が指揮するD中隊に脱出路の狭い出口を守らせた。
  ペインター旅団の大部分は、弾雨のなか、ポメロイの陣を通過した。日本兵は毛布をつかって鉄条網を乗り越え、迫撃砲を花火のように打ち上げ、狂乱しながら押し寄せてきた。残留したカミング隊は退路を阻まれることを顧みず、敵を引き寄せることを仕事と観念した。小康状態に、カミングは戦況を視察した。まわりには日本兵の死体が散乱していた。気持ちのよい夜、持ち場と道路の間は椰子の木の林だった。椰子の実がいくつか転がっている、と見たのは、鉄条網にとりつく日本兵の頭だった。7人ばかりが銃剣で突撃してきた。レボルバーで応戦したが、カミングは腹を二箇所刺された。弾薬が尽きてきた。シーク兵、アルベル・シンがまだ5箱、弾薬が残っている装甲車を取りに行った。カミングとシンは、装甲車で点在している味方に、西方へ撤退することを告げてまわった。途中で今度はシンが両腿を貫通する銃弾を受けたが、シンは車のコントロールを失わず、かえってスピードを上げ、危地を脱した。1台のプレン軽機運搬車と、もう一つ装甲車が見えた。ポメロイの持ち場だった。ポメロイは、後衛の最後の到着で安心した。カミングはのちにヴィクトリア十字章を授与されたが、このときは意識朦朧としており、ペインターと作戦の協議ができる状態にはなかった。ペインターは、ヒースとパーシバルの厳命のもと、これ以上兵力を損耗しない決断をくだした。
  安全圏の旅団司令部にもどった第2連隊の英人士官のひとりが、ラッパ手を加えた落伍兵の捜索隊を出す提案をした。捜索隊は司令部から6マイルほど隔たった破壊された橋のたもとで何度もラッパを吹いた。応えるものは、小鳥と遠くの飛行機の爆音だけだった。翌日、パタン人士官のメール・カーンとその40人ほどの兵が現われた。かれらは、疲労困憊の揚句、帰着断念の寸前、ラッパの音を聞き息を吹き返した。
 増援軍船団の到着時間まで飛行場を持ちこたえる、という役割を、ペインターは完璧に遂行した。しかし、英軍は、マレーにおける最良のインド大隊の一つを犠牲にした。シーク第2連隊、700のうち、残ったのは220名程度だった。かれらは、国王や、国家のためというより、連隊のために戦った。コタバルで感状をもらった侘美部隊は大損害を被った。シーク部隊の戦傷者は救急列車でシンガポールに搬送され、残ったものは48時間の、クアラルンプール在留民間人が作ったリゾート地、ザ・ギャップでの休養が許された。しかし、民間人は一様に不安に襲われていた。その不安には根拠があった。山下の軍はスリム川の防衛線突破を目論んでいたのである。
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2009/10/18

Singapore Burning -第四部 (つづき)

18 (カンパールの戦闘)
 カンパールは、東側に「カンパール・ヒル」と呼ばれる約1200メートルの丘、西側は、海岸から錫鉱山の露天掘りの廃坑が続く平野で、丘のスロープからは日本軍よりも装備、訓練において勝れた英軍の砲撃が効果を発揮する、防衛に適した地形だった。日本軍はやぶ蚊の出没する沼地から攻めなければならない。丘をまたいで、第6、第15の合併した旅団が位置につき、右翼は、ランカシャー・ヨーマンリー部隊、スコットランド義勇軍の曲射砲に支援されたグルカの3個旅団が固めた。クローコルの勇士、ムアヘッドは新品の25ポンド砲を率いてこれに加わった。
 元日明け方、河村部隊との戦闘で、マレーの1942年は始まった。カンパールの戦闘は3日間続き英軍部隊の団結心は高まった。レスターの600の兵の指揮官、第一次大戦で勲功十字章を授与されたエズモンド・モリソン中佐のエネルギーには特筆すべきものがあった。地帯によっては攻撃と反撃が繰り返され、戦線が輻輳してきた。塹壕のなかの肉弾戦も稀ではなかった。前線に食糧を届けにきたキャブの運転手、ウォーカーは、ブレン軽機関銃監視所への日本兵の侵入を目にし、たった一人の奇襲を敢行して追い払った。かれはミリタリー・メダル(殊勲章)の「即時褒賞」を受けた。
 この即時褒賞は、現地直属指揮官の裁量により、24時間以内に授与することができる。延々と手続きの続く通常の事後褒賞にくらべれば手っ取り早く、士気の向上に大いに役に立つ。チームワークを大事にする日本軍と異なり、西欧の軍隊では個人の褒賞が極めて有効なのである。ほかにもカンパールの戦いでは、砲火のなか、退路を断たれても野戦電話連絡を続けた先任曹長の、ヒューギルが、DCM(Distinguished Conduct Medal - 特別殊勲章)に輝いている。またレスターのニューランド中尉は、宣教師の息子で上海と天津で育った。英国を訪れたことのない、シンガポールの士官養成学校出身の応急将校である。正規の大隊でこれら士官の能力が疑いの目で見られたことは事実だったが、何度も孤立しながらカンパールを保持した勲功に、パーシバルはニューランドとその兵に特別賞を与えた。
 「トムソン・リッジ」と呼ばれる高地の奪回に、グルン、ジットラの生き残りによる寄せ集め大隊が、ジョン・グラハム大尉、まだ21歳のチャールズ・ラム少尉に率いられ、各々いっぱいずつのラムをひっかけ、ときの声をあげながら銃剣突撃を敢行した。ラムは即死、グラハムは戦傷を受け、作戦成功を知った上で息を引き取った。グラハムは死後、ヴィクトリア十字章を受けた。
 山下は三方向からの攻撃を決断した。一つは、タイ領に入った新たな近衛師団が、北方からサンパンと筏を使ってぺラク川を街までくだる。二番目に西から海岸沿いに上がり、上陸用舟艇で川に入り、テロック・アンスンまでさかのぼる。三つ目は、ベルナム川をさかのぼり、ウラン・メリンタンの漁村で上陸し、北方のテロック・アンスンをめざす。この作戦は松井太久郎中将の第5師団にまかされた。しかし、近衛は実戦経験なく、ほかの中国戦線のベテラン部隊も海陸両用作戦には不慣れだった。蒸気船に牽引された10艘ばかりの舟艇が、方向を間違えて砂州で立ち往生した。英軍にとって絶好な餌食となる筈だったが、攻撃に赴いた3機のブレンハイムのうち、1機は故障で引き返し、通信を傍受されたため1機は打ち落とされ、1機は追い払われた。これが海空を失った英軍の現実だった。
 こわれかかった橋のたもとで歩哨をしていたパンジャブ兵に、イギリスの農園主と思われるような、自転車に乗った一人の白人が近づいた。油断をしていたが、白人はいきなり兵隊のトムソンを奪おうとしたので射殺した。遺体を検分すると、それはドイツ人と思われた。開戦前、バンコクのイギリス公使館からは警告が出ていた。インドシナのヴィシー政権の外人部隊から脱走兵が出て、ナチス大使館と接触していると。ドイツ人政治難民、ユダヤ人技術者なども少なからずこの地域に居住している、ヨーロッパ人がすべて味方とは限らなかった。
 カンパールは死守することが目的ではなかった。援軍到着までの時間稼ぎに最大眼目があった。このためパーシバルは、兵力の温存をはかった。中隊ごとに、お互いを掩護しながら、部隊は徐々に、徐々に後退して行った。次の防衛線は、スリム川に設定された。
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2009/10/13

Singapore Burning - 第四部 (つづき)

17 (後方撹乱「ステイ・ビハインド」小隊)
 パーシバルにとって、作戦の継続性という観点からすれば、ウェイベルの着任は必ずしも歓迎すべき事柄ではなかったが、良い知らせがあった。第18師団が寄道ばかりの豪華船の旅を続けている間、ダフ・クーパーの要請によって、一旅団が急遽、モンバサからシンガポールへ直行することになったのである。なお嬉しいことに、別の船団が、50機のハリケーン戦闘機を、熟練パイロットを乗せて送られてくるということだ。このハリケーンの擁護のもと、半島からの撤退作戦を完了し、第18師団と無傷のオーストラリア兵で半島最南端のジョホール州を死守すれば反撃は夢ではない。
 イギリス軍の半島からの撤退作戦には前例がある。1810年、対ナポレオン戦におけるウェリントンのイベリア半島からの撤退である。戦史として英国の将官はみなこれを研究する。当時はイギリスには制海権があったこと、航空戦を考える必要がなかったことなど相異はあるが、ゲリラ戦という言葉がこの戦いで発明されたように、神出鬼没の特殊部隊が大活躍をした。パーシバルも、ステイ・ビハインド(敵の後方に残置)して敵を撹乱する小隊の編成に取りかかった。
 アーガイルのロマンチスト、アンガス・ローズ少佐を隊長とし、ゴードン・ベネットの6大隊から50人のオーストラリア志願兵が選ばれた。全員、ポート・スェッテンハムからボートに乗り日本軍の背後にまわることになった。隊は二つの分隊にわかれ、それぞれ十分な数の自動小銃、ブレン、トムソン軽機関銃、ライフル、火薬、手榴弾を装備した。また身軽に行動するため、全員、バタ社製のホッケー用、ズックの運動靴を履いた。定員外に、6名の主に現地ゴム園経営者の義勇隊員が加わった。マレー語を話すので、住民から日本軍の動向を聞き取る要員である。一行はスンゲイ・トンの河口からランチに分乗して奥地へ向かった。12月27日午前、北へ向かう2台の日本軍救急車が通ったがこれはやり過ごした。将官旗を翻すキャブを先頭にトラック、軽トラックが続いた。ローズの初弾に続き、銃撃戦が始まった。自動車隊はその半分を失った。日本の少将、准将の2名が斃れた筈だが、日本側の発表はなかった。ローズの隊の死傷は皆無だった。
 ローズは、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス生き残りの水兵とともに、海兵隊(ロイヤル・ネイビー)分隊として独自のゲリラ小隊を持つことになった。いささか特異な経歴の、ゴードン・ハイランダースのアイバン・ライオン大尉が副官となった。ライオン大尉は、ジョージ6世の王妃、エリザベスの実家、ボウズ=ライオン家の縁戚につらなる。5年前からマレーで防諜の仕事をしていた。ヨットでインドシナの島めぐりをしていたとき、フランスの流刑の島の総督の娘、ガブリエル・ブービエと知り合い、結婚した。SOE(特別作戦部)のウォーレン大佐がローズに紹介したのである。
 ローズは、ロイヤル・ネイビーがアメリカ製のユーレカ警備艇5隻の引渡しを受けたことで、自らの西海岸における襲撃について大きな希望を抱いた。しかし、船は到着しなかった。シンガポールからポート・スェッテンハムへ白昼の回航途中で日本空軍の攻撃で3隻が沈没し、2隻は座礁した。同じころローズとオーストラリア兵を最初の出撃のとき運んだ船が港で沈められた。ライオンは意気消沈し原隊に戻ろうと考えたが、ウェーレンにとめられた。
 SOEは、もう一つ「ステイ・ビハインド」を組成することを考えた。指揮官は、101特別訓練学校の主任教官だったフレディ・スペンサー・チャップマン少佐である。チャップマンはウォーレンと、クアラルンプールの、ヒース大将の第3インド軍団の司令部に車を駆った。ヒースは好意的で、日本軍は決して不敗ではない、と主張した。最終的に45名の兵士、中国人2名、インド人1名のチームとなり、これを8つの班に分けた。時間の余裕はあまりなかったが、特別訓練学校で1週間訓練できた。ジャングルのなかの「かくれんぼ」戦争で、「将校とその他」と兵員を分類することに意味はない。全員、将校に昇進した。チャップマンは、「お願いだから自分のことを、サー、と呼ぶなよ」と、部下のジョン・サーティンに告げた。14歳のときラッパ手として入営して以来、軍隊一筋に生きてきたサーティンにとって、「サーティン中尉」と呼ばれることはこの上なく難しいことだった。
 隊員はタミール人に変装した。背が高すぎて中国人や、マレー人を装えなかった。マレー共産党は非合法化されていた。1941年7月、独ソ開戦以前、共産党はストライキなどで戦争遂行を妨害していた。12月19日、日本軍のコタバル上陸を見てイギリスはプライドを捨てた。中国人共産党員を訓練し、地方でゲリラ活動をさせることが合意された。共産党リーダーは、「長年われわれは対英国闘争のために組織を作ってきたが、今は英国とともに日本と戦う」と宣言した。
 チャップマンはサーティンとマレー語のわかる義勇兵曹長と偵察に赴いた。エンジンの故障したフェリーを手で漕ぎながらペラク川を渡った。しばらくして突然、日本の自転車部隊が現われた。三々五々並走しながら、かれらはまるで「フットボール見物に出かける」ようにおしゃべりをしていた。日本歩兵の主力の装備は、38式、有坂銃で、1905年から陸軍で採用されているモーゼル銃である。軽機関銃も、南部96型で、30連発、バナナの形をしているので、弾詰まりをときどき起こした。装備の数、性能から見れば英軍が有利であった。
 
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2009/10/10

Singapore Burning - 第四部 (つづき)

16 (シンガポールの防禦体制)
 シンガポールの満月は、爆撃機を手控えさせた。最初の爆撃ほど大規模なものはなく、2週間ばかり小康状態が続いた。クリスマス、年末にかけての最悪のニュースは香港の陥落だった。灯火管制のもと、在留英国人はレストラン、クラブ、家庭でクリスマス・イブ、大晦日を過ごした。新年の到来を告げるように、美幌航空隊のネル数機が飛来してセンバワン航空基地周辺の中国人、インド人を殺傷した。海軍基地港湾長のケネス・アトキンソンは、妻帯者用の宿舎の大晦日のパーティに出ていたが、テラスから数マイル先の爆撃と高射砲戦がよく見えた。
 マレー沖海戦に間に合わなかったモーブレイ・ガーデンは、そのとき2万2千フィートの上空にいた。マーシング基地のレーダーからの連絡で日本機出現の警告を受け急上昇した。眼下に敵機の影を認めたがすぐ見失った。時計は丁度真夜中だった。妙な場所で新年を迎えたものだ、ガーデンは思った。
 元日、ダフ・クーパーは議長として戦争委員会を招集した。クーパーは日ごろ、総督のサー・シェントン・トマスが責任者である民間防衛体制に不満を持っていた。クーパー派のストレーツ・タイムズ紙の編集者、ジョージ・シーブリッジはトマス批判の記事を書いていた。委員会では両者は目立った対立を人目に曝さなかったが、クーパーは、レパルスの生き残り、テナントもと艦長に委ねて、チャーチルに手紙を送った。「トマスは、防空壕も塹壕も、鉄兜も防毒マスクも用意していない。準備している難民宿舎も、焼夷弾を受けたらひとたまりもない、」などと誹謗していた。かれはパーシバルの経歴も誤解しており、「かれはもとの職業、学校の教師をしていた方が良い」などとも書いていた。
 クーパーは、初めてオーストラリアに出張し、同国人の活発な気質を気に入っていたが、委員会の代表、頑固なヴィヴィアン・ボーデン上級勲爵士に手こずっていた。ボーデンは、アラン・ブルックと同じようにシンガポールには悲観的で、英空軍の状態には「悲愴なもの」がある、と報告していた。神経の参りかけていたブルック=ポッパムに代わって、サー・ヘンリー・ポーノル中将が発令されたことにクーパーは喜んだ。しかしそれもつかの間、ビルマ防衛のため、インド派遣軍の司令官に最近着任していた、サー・アーチボルド・ウェイベル大将が、42年1月はじめ、連合軍極東総司令官に任命されたため、ポーノルはその参謀長として、ABDA(米英蘭豪)連合軍総司令部に行ってしまった。
 クリスマスから新年にかけて、ワシントンで、チャーチルとルーズベルトが会談しており、その結果、ソ連のリトビノフ、中国の宋子文も交えて署名した「国際連合協定」に基づいて連合軍が発足したのである。ウェイベルの司令部は、ジャワの比較的涼しいバタビアの東、レンバンのグランド・ホテルにおかれた。ウェイベルは58歳、ボーア戦争に従軍、1915年、イープルでは左目を失った。その後のパレスチナの戦い、今次大戦では、北東アフリカでイタリア軍を敗った常勝将軍である。武人であると同時に文人であり、パレスチナで参謀長をつとめたときの上司、アレンビー将軍の伝記とパレスチナ戦記を書いた。また自身、詩人でもあり、かれのまとめたアンソロジーは半世紀の間、版を重ねた。
 サムライの伝統もまた同じく文武の達人でなくてはならない。山下大将も詩を愛した。山下は、新年までに最悪の事態は去った、と思いはじめていた。「成功はまだ問題だが、義務の半分は果たした。わが国の未来は大山の上にある如く安泰である。できるだけ敵を殺さず計画を達したい」と、日記に書いた。
 
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2009/10/08

Singapore Burning - 第四部 (つづき)

15 (ジャングルの戦い) 
 マレー沖海戦1週間後の12月17日、サー・アラン・ブルック元帥は、「個人的には、シンガポールをうまく防衛し得るか疑問であるが、ビルマ防衛のために何かやらなければならない」、と日記に書いた。かれはイギリスの制服組のトップで、最近、帝国参謀総長に昇進していた。パーシバルにとって情況はきわめて深刻だったが、何とか援軍がくるまで自分の力でしのぐ必要があった。
 シンガポールへの援軍、ケンブリッジシャー、ノーフォーク、サフォーク連隊の7大隊からなる、英第18師団(約1万5千)は、10月29日、リバプールを出航していた。マーク・ベックウィズ=スミス少将、通称ベッキーが師団長である。アメリカはまだ中立国だったが、大西洋憲章で、チャーチルに援助を約束した。援軍の船団は大西洋を渡り米国ノバスコシア州ハリファックスで、米国籍客船を改造した4隻の輸送船に乗り換えた。優雅な航海で兵士は、船内でのさまざまな娯楽に興じた。ドイツ潜水艦を避けるため、船団はアメリカ沿岸からカリブ海を通過、再度大西洋を横断、ケープタウンに到着したとき、真珠湾、マレー半島攻撃のニュースが入った。兵士らは、アフリカでロンメルと戦うものと予想していた。敵が日本軍であることを知り落胆した。日本人とはかれらにとってはいまだにギルバートとサリバンのオペレッタの世界の人種であり、対等レベルの人間ではない、できればフン(ドイツ人)と戦いたかったのである。
 12月終わりにかけ、山下の軍団は決して不敗ではない、ということを、タイ国境から南へかけての狭隘地帯での後衛戦で証明したのは、イアン・マカリスター・スチュワート中佐とその指揮下にあるアーガイル大隊だった。スチュアートは先祖に、歴史的に数々の対英戦争で活躍した勇者を持つ、スコットランドの上級貴族の家系の出身で、日本軍が欧州大戦を利用してマレーに攻め込んでくることを見越して、過去2年、兵士にジャングル戦の特訓を施していた。ほかの大隊長は暑熱のなか、訓練は涼しい時間を選んで行っていた。その意味でスチュワートは、エキセントリックと見られていた。
 アーガイルの訓練は実を結んだ。クローからグリック村にいたる10マイルの泥沼で、ボクシングのコーチ、アーチー・マクダイン先任曹長と35名は、10倍ほどの安藤忠雄支隊をよく押し止めた。エディンバラのラグビー界きってのフォワード、バル・ヘンドリーは、A中隊を指揮する大尉である。かれはランチェスター装甲車で7名の部下と巡回中、5倍の数の日本軍と、とある田舎の駅で遭遇した。肉弾戦は取っ組み合いとなり、最後に鉄かぶとを振り回してなぎ仆すような乱戦となった。イギリス側に軍配が上がったが、ヘンドリーは、褒賞としては最下位の感状を貰うにとどまった。ザ・タイムズの従軍記者、イアン・モリソンはこの武勇伝を記事にした。 第12旅団長、アーチー・パリス准将は、指揮下の第2パンジャブ連隊第5大隊、第19ハイデラバード連隊第4大隊の二つの部隊も同じような待ち伏せ攻撃を行っているにもかかわらず、新聞がインド部隊よりも、英国部隊のアーガイルを持ち上げていることにお冠だった。パンジャブ部隊のセシル・ディーキン中佐の、奮戦を通じてのメルボー・プラス橋の爆破成功に対して、准将は中佐に殊勲甲を授けた。
 パリスは少将心得となってマレー=ライオンの地位についた。マレー=ライオンはカンバリー士官学校の卒業生ではなく昇進も遅れたいた。マタドール作戦中止の被害者となり、それが、ジットラ、グルンの防衛線に振りかわってしまった。かれはインドに戻ったが、デリーの総司令官、アラン・ハートリー大将によって退役させられた。55歳、数々の武勲に輝いた経験豊かな兵士は、祖国が絶望的な戦いをしているとき民間人となったのだ。パーシバルもかれの引退を聞いて驚いたことだろう。
 スチュアートはパリスの後任として第12旅団の指揮官となった。戦域はかわってきた。スチュアートは、錫鉱山地帯のカンパール周辺に、ジットラ、グルンの生き残り、レスター、イースト・サレー、パンジャブ、ジャートの混成部隊を組成し、塹壕を掘り、有刺鉄線をめぐらせて防衛線を築いた。日本軍戦車隊が突入してきたが、速度の違いで、歩兵が追いついていなかった。「戦艦に対する駆逐艦」のように、ランチェスターのブレン軽機関銃、対戦車ライフルで果敢に抵抗した。戦車は、歩兵の不足と、燃料切れで慎重に行動した。英軍は整然と撤退することができた。
 傷病兵は仕立てられた救急列車でシンガポールに送られた。車内は装甲車のなかと同じくらい暑かったが、ヨーロッパ人の看護婦が立ち働いており、兵隊は驚いた。列車は翌日には半島とシンガポール島を結ぶコーズウェイを走っていた。カンパールに築かれた防衛線の内側で、アーガイルの兵士は、ここ2、3週間のうちではじめてゆっくりと眠った。伝統ある、「シン(thin)・レッド(red)・ライン(生と死の境界線)」をモットーとする、かつての第93歩兵連隊、アーガイルはよくやった。無礼講がはじまった。ウィスキーは仲間意識をかき立てた。階級、兵科、ホームシック、明日の恐怖をみな忘れた。それは大晦日、満月の夜だった。
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2009/10/03

Singapore Burning ー 第四部 (つづき)

14 (北部の激戦、ペナンの放棄)
 オートバイで先頭にいたのはアサイ・ハジメ中尉だった。日本のオートバイ隊は、英国流の伝令要員ではなく、ドイツ式の偵察ないし電撃要員だった。アサイの目的は、橋の破壊の阻止だった。アサイはそのあと戦死を遂げたが、山下の署名により死後褒賞を受けた。
 英軍は道路橋の破壊に一つ成功した。ゴムの木の下で仮眠していた300ばかりのインド兵がその音で起こされ、疫病神がきた、と鳩の群のように飛び起きて逃げ出した。マレー=ライオン自身がピストルでそれを押しとどめた。かれの師団の崩壊は続いたが、もっとましな部隊もあった。
 セルビーとそのグルカ兵は立派に後衛の役割をこなした。日本軍は最初は徒歩だったが、そのあと装備をくくりつけた自転車隊が続いた。山下は、マレーに6千台の自転車を持ち込んだ。ほかに1500台のオートバイがあった、そして英軍が撤退時に破壊しそこなった車輌を、日本軍は「チャーチルの支給品」と呼んで存分に利用した。
 アロールスター鉄橋で自転車部隊の尖兵となったのは独立工兵第15連隊長の横山与助中佐である。かれは50歳にとどく年齢だったが、壊れた一連の橋をまたたく間に修復することで有名となった。マレー州当局の配慮が仇となった。日本軍による橋の破壊を慮って、当局は予め補修用の木材その他を橋の傍に積んでおいたのである。英軍はそれを第五列(スパイ)の仕業と思い込んでいた。
 セルビーのグルカ部隊にはグルンへの撤退命令が出た。田んぼの土手道を腰まで水に漬かりながら、25マイルを睡眠不足のまま、降り注ぐ雨のなかを行軍しなければならなかった。120名の兵隊が、グルンに着いたとき、隊伍としては27名になっていた。グルンは、一番広いところでも幅4マイルの、護りの兵にとっては隘路となる地形で、海岸に向かっては約1300メートルのケダー・ピークが聳えており、パーシバルは「北部マレーの天然要害」の一つと呼んでいた。しかし防衛線は全く築かれておらず、集合したサレー、レスターの兵士は狂気のように塹壕を掘らなければならなかった。
 街にほど近い十字路で激戦が起こった。サレーのスティーブン・アボット中尉は、援軍として現われた第6旅団の司令官、ビリー・レイ准将の反撃に感動した。レイの50名ばかりの部隊は、2台のブレン軽機関銃牽引車が先導した。アボットの中隊も27名中、15名が戦死ないし戦傷を被った。
 佐伯捜索隊を救援した岡部支隊は、すさまじい士気でグルンに侵入し、サレー大隊と第6旅団の司令本部を襲撃し、朝食会議中の将官が殺害された。たまたまレイ准将は、床下の貯蔵庫にかくれて助かった。かれは日本軍が動くのを待って姿を現わした。最初に出会った英軍は、70名ほどのレスター大隊だった。ジョージ・チッピントンとエドガー・ニューランドの二人の中尉に率いられていた。レイにとってこの兵員は、翼下の最後の歩兵だった。かれは部隊主力をジャングルに展開させた。ブレン銃の奪い合いの戦いとなったが、援軍もなく、また敗走に移った。 アボットたちは頑張った。孤立した対戦車砲のメンバーと混成部隊を作り、グルンの街の商店のなかのバリケードで、対戦車砲と、手榴弾で戦車に抵抗した。日本軍は爆撃機との連携プレーでこの最後の防衛線を破った。
 12月13日、フィリップス艦隊の沈没に数分遅れで到着した、バトル・オブ・ブリテンの勇士、ティム・ヴィゴースの出番だった。ヴィゴースは4機のオーストラリアのパイロット操縦のバッファロを引率して北へ向かった。目的はペナン島防禦である。島の首都ジョージ・タウンでは、日本の空爆で、ほかに例を見ないほどの民間人の犠牲が出ていた。日本機は爆弾を投下してから引き返し、機銃掃射を行った。中国人商店街は火に包まれていた。消防署は焼け落ち、警察官は逃亡し、略奪が始まっていた。ペナン上空の雲海から、25機ほどのやや時代遅れの97型陸攻が現われた。ヴィゴースは果敢にその編隊に突っ込んで行ったが、命中弾を受け、パラシュートで脱出した。かれは仮死状態でペナン山脈の山頂に落下した。
 東洋の真珠と呼ばれるペナン島は、ため息の出るほど美しい南の島で、ドロシー・ラムーアの映画の世界と形容されていた。またかねてから強力な一大要塞と喧伝されていたが、実際には何らの工事はされておらず、2基の6インチ砲台と、ジョージ・タウン入り口を警戒するサーチライトがあるだけだった。しかも開戦後、駐留兵は、砲台の警備兵を除いて内陸へ移動させられ、兵舎もがら空きとなっていた。いまやペナンの防衛手段はなくなり、英軍はペナンの放棄を決意した。英国海兵隊(ロイヤル・マリン)のコッキー・ウォーレン大佐とジム・ギャビン少佐が、12名のチームと、大量の爆薬とともにやってきた。かれらは日本軍の利用しそうなものすべてを破壊するつもりで、砲台、電力基地を爆破し、路上に散乱している死体を、伝染病予防のため火葬にした。しかし、錫と石油の在庫を手つかずにしてしまい、放送局、ペナン・ラジオを無傷に残したことが最大のミスとなった。日本軍は占領後早速ここから英語で、「ハローシンガポール?こちらはペナン。わたしたちの爆撃はいかがでしたか?」と放送した。
 英軍は、在留ヨーロッパ人を全員避難させることにした。大東亜共栄圏を標榜し、アジア人解放を叫ぶ日本人だから、アジア人には危険はないだろう、と考えたのだろうが、のちに入城した日本軍の、現地の反日中国人に対する仕打ちには容赦がなかった。避難は、女こども、そして入院中の傷病兵が優先された。山中で、マレー人親子に発見され命が助かったヴィゴースもその一人だった。最初放置されていたことに気がつかなかったアジア人、とくに中産階級は、間もなく白人の逃亡を知り、これは大問題となった。軍部を代表する、戦争委員会の委員長を主宰することとなったダフ・クーパーと、民間人代表の総督、シェントン・トマスとの間に、この問題をめぐって大反目が起こった。総督は、自らの義務は、すべてのマレー人のためにある、と思っており、多くの藩領が入り混じっている複合社会マレーのインフラストラクチャーの破壊は、社会の崩壊につながるものと見ていた。11歳年下のクーパーは、トマスの考えは年寄りの繰言であり、戦争の要請、時代の変化を理解しない意見と反駁した。
 トリビューン紙のペナン版編集長のウィリアム・パターソンと、寝たきりの二人の姉妹を持つ地元の医師1名を除いて、ヨーロッパ人全員はフェリーで避難した。ウォーレンは最後の船に乗った。船のあかりが港に張ってある大きなポスターを照らした。「来るなら来てみよ!準備は万全、わが防衛兵器は強力である!」とあった。港の出口に1隻の逃がしそこなったフェリーがつながれていた。アレクサンダー中尉が船尾の12ポンド砲を発射した。フェリーは沈みはじめた。燃えているジャンクの間を縫って最後の避難船は大海に出て行った。これから真の要塞、シンガポールに向かうのだ。
 
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