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2009/09/30

Singapore Burning - 第四部 退却、援軍

13 (ジットラ・ラインの攻防)
 ロイヤル・ネイビー300年の歴史で、マレー沖海戦のような大敗北は初体験であった。ダフ・クーパーにとっては、正式に、在シンガポールの駐在閣僚に任命され、総督の上位に立つことになって24時間も経たない内の出来事だった。かれはキャセイ・ビルにあるマレー放送局から事態の放送を行った。モンスーンで空中状態が悪く、よく聞き取れない聴取者が多かった。
 ロンドンで、軍令部のダドリー・パウンドから第一報を受け取ったチャーチルは、独りでいたことを感謝した、と述懐した。「戦争中これほどのショックを受けた事件はない」。かれはその夜ベッドでまんじりともしなかった。
 パーシバルにはショックを受けている暇(いとま)がなかった。制海、制空権を奪われ、これまでもっぱら基地防禦という脇役を与えられていた自らの陸軍が、急に主役に抜擢されることになったのである。しかし、舞台のシナリオを書き換えている余裕はない。テニスの達人、パーシバルは、敵のミスに期待するしか勝ち目はないものと覚悟した。パーシバルは乏しい選択肢のなかから、ミニ・マタドールとも呼ぶべきタイ侵入作戦を発令した。パンジャブ兵の小隊と技術者から成る破壊チームが装甲列車に乗りこみ、タイ国境を10マイルほど越えたクロン・ラムの鉄橋破壊に成功した。また東には、200ばかりのパンジャブ兵をトラックに乗せてジットラの防衛線を越え、シンゴラの日本軍の橋頭堡に向かわせた。この隊は、イタリアの東アフリカ部隊から押収した4基のブレダ対戦車砲、6台の無蓋無限軌道の運搬車によるブレン砲を装備しており、橋梁破壊の爆薬を多量に用意していた。タイ国境の村で、部隊は日本軍のトラック、軽戦車、小型戦車で構成する、第5師団の佐伯捜索隊に遭遇する。佐伯の兵は畑の両側に展開し激戦が始まった。多勢に無勢、インド人部隊は撤退したが、佐伯の上司、河村参郎少将は、この戦闘が大きな妨害要因となった、と想起している。
 3番目のタイ侵入作戦は、クロー小隊(コラム=略称、クローコル)の編成である。地図を一見しても、タイ国境に接するマレーの北端、クローは西海岸と南へ向かう街道の分岐点であり、枢要の地であることがわかる。そして小隊の狙いは、そこからタイへ入り、パタニへ向かう峻険な細道に沿って6マイルほど続く「ザ・レッジ(岩だな)」である。ここは日本軍の進撃を止める絶好のポイントである。ザ・レッジ爆破作戦は、開戦の2日前にはすでに樹てられていたが、実際にクローコルが動き出したのはコタバル上陸の14時間あとのことだった。小隊がタイへ侵入すると、思いがけなく、タイ軍の抵抗に会った。タイ軍は日英双方の侵略軍に容赦がなかったが、親日のピブン・ソングラム元帥は日本軍への攻撃を中止させたので、ザ・レッジへの到着競争は、辛うじて日本軍が勝った。 クローコルの指揮官、43歳、第一次大戦の勇士、ヘンリー・ムアヘッド中佐は、ザ・レッジ爆破には失敗したが、日本軍をよく押し止めた。
 山下の軍勢には、イギリス軍が1台も持たない戦車があり、また日本兵は中国で多年、実戦を経験していた。日本軍は意識してまず白人指揮官を狙い撃ちして、未熟なインド人部隊を混乱させる戦術を採った。ジットラ・ラインの構築はかねてから準備されていたが、ゴム・錫の生産を優先するという労働力の不足から満足すべき出来栄えではなかった。また海に向かって左翼を防衛するための、水田地帯の水没化案は、神聖不可侵の食糧供給という題目で否認されていた。北方、タイ国境へ向かって展開するインド第11師団を預かるデヴィッド・マレー=ライオン少将は、対戦車の罠をしかけることに腐心した。日本軍はタイ国境を突破し、北部マレーに侵入した。
 雨が降ってきた。防水シートのかげで休んでいたインド兵の前に、突然、幽霊のように佐伯隊のT95戦車群が現われた。対戦車砲指揮官、ピーター・グリア中尉のパンジャブ兵は、道路傍のゴムの木陰からブレン軽機関銃で戦った。激戦となった。パンジャブ兵たちは撃たれるか、捕虜になるか、ゴム園に逃げ込んで後日掃討の対象になるか、の運命をたどった。一つのインド部隊の敗走が、山崩れを起こす石ころの役割となった。
 ジットラ・ラインの防衛は、マレー=ライオン指揮下の、グルカ、パンジャブ、ドグラ、ジャートの混成部隊及びレスター、イースト・サレーの本国正規兵があたっていた。少将はジットラの攻略に、山下が全兵力を集中してくるものと予想していた。音少尉の存在がなければそうなっていたかも知れない。佐伯部隊のやさ男、音少尉は偵察に出たあと、英軍の防備が手薄で、脆弱な箇所に夜襲を行えば成功の確度が極めて高い、と主張した。佐伯と、旧友で、たまたま視察にきていた辻大佐がこれに賛成した。しかし、音の判断は間違っていた。佐伯隊は10倍の敵に直面することになった。佐伯の工夫による「ちょっかい部隊(ジター・パーティ)」の活躍、数少ない戦車の有効活用で何とか劣勢を挽回した。一人で形勢を逆転し、佐伯の車輌を使って4キロ後方の河村将軍に連絡をつけた、と辻は記録しているが、その真相は不明である。
 河村は佐伯捜索隊の幸運を認め、「盲蛇に怖じず」、気力(エラン)の勝利と評した。マレー=ライオンは、全軍、南方のグルンへの撤退を命じた。疲れ切った兵士がアロールスター南のケダー川を渡河していた。司令部は兵士たちに、イギリス人の特効薬、熱い甘い紅茶を振舞った。マレー=ライオンは、部下の大隊指揮官、レイ・セルビー中佐と鉄橋の橋に佇み、渡河する兵を見守っていた。突然隊列を縫う3台のオートバイに気がついた。「あ、あれはジャップだ!」、かれとセルビーは、腰のレボルバーを抜いて、後続の二人を射ち倒した。。マレー=ライオンは、すぐさま橋の爆破を命じた。道路橋は造作もなかったが、鉄道橋は亀裂を起こしただけで頑強に抵抗した。だれかの思いつきで、対岸に放置されていた装甲機関車を利用することにした。ボイラーが点火され、汽笛を鳴らしながら機関車は橋に向かって驀進した。運転士が飛び降りた、全員が息を呑んだ。機関車は何事もなく対岸へ渡った。一人の士官が飛び乗ったが、かれはブレーキの操作を知らなかった。機関車は、250マイル先のクアラ・ルンプールの側線で止り、2週間後、日本の空襲でそこで生涯を終えた。アロールスターでも喜劇が悲劇に転じていた。やはりどうしても爆破に応じない鉄橋を、セルビーの部下の将校が爆雷装置を点検していたところ、突然爆薬が誤作動したのである。
 
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